30話『泣く羊と笑う狼』
──闇雲に探し回っても埒が明かない。わかっているはずなのに。
あれから、細い山道を下り、川沿いを全速力で駆け抜けていた。
一足ごとに麓に流れる川の匂いと、湿った土埃の香りが、夜の涼やかな空気に入り混じる。
真緑の葉が生えそろう豊かな雑木の群れを抜けると、真っ白な月明かりに照らされた川水の音が耳に届いた。寝静まる獣たちの深い吐息と、川底に張り付く藻屑の生臭さまでもが、アベルの嗅覚を擽っている。
(兄さんはこの辺りには、いない......)
いなくなった兄を探して夜道を走り回り、呼吸するたびに肺が痛むほど心肺機能を酷使して、アベルはそう結論を出さざるおえなかった。
さらに、数時間が経過した。
もう、限界だ。
膝に手をつき、激しく肩を上下させて、痛む肺に酸素を送り込む。
「──はぁあっ、はっ、はぁっ」
今日一日の精神的な疲労感もたたって、手足の先に鉛を詰めたような重さを感じる。呼吸することも楽ではない。
「カイン兄さん......」
とぼとぼと歩きながら、アベルは弱音のように兄の名を零す。
あと探していないのは、森の「奥」だ。だけど、夜の森だけは決して入るなと、別れる前に父から重々釘を刺された。
(でも、このまま兄さんを見つけ出さないと......っ)
焦燥と葛藤の中、悔しさに目をぎゅっと瞑った時だった。
すると、
「──っ!!」
急な旋風がぶわぁっと吹き抜け、アベルは目を閉じたままうっと声を上げる。風は木の葉っぱを巻き上げたがすぐに収まる。
アベルがゆっくり目を開いて景色を見ようとすると、ふと、近くに人の気配を感じる。
「あ.....あ、」
そしてたった今アベルが通りがかった道の少し奥まった所で、背を向けてやっているのが、まさに長時間がむしゃらに探していたカインだった。
兄の姿を見とめ、アベルは信じられないような思いで呆然とした。が、次の瞬間、弾かれたように彼のもとへ駆けよった。
「カイン兄さんッッ!!」
身の内に収まりきらない思いが猛り狂う。押し留めきれなかった言葉が音になって叫びに変換される。
今までどこにいたのか。いつの間にそこにいたのか。たくさんの疑問に支配されそうになるもなんとか理性でそれを押しとどめた。とりあえず怪我をしているところはないか、顔色は悪くないか、その他兄にどこか異状がみられないか咄嗟に確認しようとしたが、
「にい、さん?」
カインの異変に思わず立ち止まる。その体躯は確かにそこに在る筈なのに、声が届いているのかどうなのか不安に駆られたのだ。
「・・・・・・」
ゆっくりと、カインは振り返る。
走った刹那の赤い輝きは、目の錯覚だろうか。
完全に身体がアベルに向き直るカインの瞳を見てぞっとする。そこには光が宿っておらず、絶望の淵に立たされたような虚な色合いをしていた。アベルはすかさずその腕を掴んで大丈夫かと問い掛けるが、強く振り払われて呆然とする。
「・・・・・・人間風情が」
「な、に?」
脈絡のないカインの台詞に思考が追いつかないアベル。しかし何となくアベルが思ったのは、このまま兄の話をうわ言と思ってはならないということ。──兄を、"見失うわけにはいかないということ"。
だが、その意識も虚しく、次にカインがアベルに目を向けた時には、もう元の目の色だった。
「ああ、アベルか。すまないな。てっきり夜の獣と勘違いをして、思い切り払ってしまった」
そうしてアベルの姿を見とめると、カインはまるで今しがたそれを認識したとばかりに呟きを零す。
先ほどのセリフは空耳だったのだろうか。
「.....っ、とにかく、兄さんが無事そうで本当に、よかった」
いろいろと気掛かりなことはあるが、それでも、兄の姿を直接確認できたアベルは崩れ落ちそうになる。大げさだとも思うが、堪え切れない情動であった。
喪失感。倦怠感。切迫感。
カインを前にしたことで、ここまで張り詰めて意識してこなかったそれらにアベルの膝が折られたのだ。
そのまま前のめりに倒れそうになるアベルを、とっさに伸びてきた腕が捕まえる。
そんなことをしてくれるのはこの場で一人しかいないはずなのに、思った以上に丁寧で配慮のある感触だった。見上げたすぐ先に、やけに落ち着いた精悍な美貌がアベルを見つめていて、状況も忘れてアベルは驚きに息を詰まらせた。
今、アベルは、カインに優しく抱き止められている。
「あ、た、ごめ……力、抜けちまって……」
「謝る必要などない。今までずっと私のことを探し続けていたのだろう?心配掛けさせたのだ。介抱ぐらいはするさ」
いつものように悪態をつくどころか優しく労わるするものだったから、アベルは安堵に深い息を吐き──が、やはり兄の様子がおかしいと、即座に気付いた。
「えっと、兄さん......何か、あった?」
「どうしてそう思う?」
「いや......なんとなく。雰囲気が変わった気がしたから。その......、一人でいる間に......」
──なにか、気持ちに変化が訪れるようなことがあったの?
そんなことを問いかけようと、アベルは言葉を選ぶ。だが、それがアベルの口から伝えられる前に、ぽつりと、
「そうだな。今の私は心が凪いでとても穏やかな気分だ。今まで波打って荒れ狂っていたのが嘘だったみたいにな。生まれ変わったと言っても過言ではない」
アベルから視線を外して思い出すようにして言う。あまりに抽象的過ぎてアベルはカインが何を話そうとしているのか皆目見当がついていないだろう。それでも静かに耳を傾けた。
「──確かにお前の言う通り、お前と別れてから、良い事があったのだ」
すると、カインはふっと笑っていた。それまでと声の調子がガラリと変わり、アベルは思わず息を呑んでいた。
兄の笑みなんて、どれくらいぶりに見ただろうか。昔から笑うことの少なかった彼は、ここ最近すれ違ってから余計にその回数が減ったはずだ。──その兄が、笑った。にっこりと、満面の笑みで破顔した。
「私はようやく、出会えたのだ」
弧を描いたその口が、陶酔した声色で静かに言葉を唱えた。
それがあまりに無邪気で、現実味がなくて、この真剣な場ではあまりに不釣り合いで、アベルはぞくりとする悪寒を感じた。
「え、と、......出会えたって、......何、に?」
「我が理解者に、だ」
言葉が途切れ途切れでうまく繋げることさえできないアベルを待つことも、むしろ最初からアベルと会話をする気などないとでも言わんばかりにカインはあくまで自分の言いたいことだけを口にした。
「どうやら私は、今まで長いことずっと道に迷っていたようだ。どこを探しても誰もいない。まるで、自分だけがこの世界から弾かれた気分で、この上とない生き地獄だった。......辛かった。息苦しかった。だが、もう大丈夫だ。迷い道に佇む私は巡り会えた。本来あるべき道を示し、導いてくださる我が理解者に」
──兄さんは、何を言っているのだろう。
怒涛な語りに置いてけぼりにされるアベルは口を挟めなかった。
カインが今までに見た事がない程、穏やかな雰囲気を纏っていたから。随分と傾倒しているように感じさせるその”理解者”の事について聞いてしまえば、それだけでその存在を穢してしまう様な気がして。再び兄を、歪めてしまいそうな気がして。
「────......」
「......クククっ、」
途方に暮れるアベル。それに対して堪え切れないといった様子でカインは喉奥で笑いを漏らす。息を吐くように、熱のこもった吐息を笑みとしてこぼす。その少々場違いな反応に目を疑う。
果たして、今この状況で笑う要素がどこにあったというのか。
それ以前に、アベルの認識としては、兄はそういった反応を選べるような性格の人間ではないはずで。──先程から妙に著しい情緒不安定。ここでカインに抱いた違和感を黙殺したことを、アベルはのちに後悔することになる。
「アベルよ。そんな顔をするでない。お前はもう何も心配などしなくて良い。私はこうしてお前との約束を守るために、舞い戻ってきたのだからな」
すぐに先ほどの笑みを引っ込め、カインは至って変わらず、いつも通り淡々とした調子でぽつぽつとひとり声を重ねる。すべてが完璧に噛み合っていて、そうしてすべてが歪だった。
(なに、これ)
アベルはカインの変調にふつふつと嫌な予感をせずにはいられない。
どこかがおかしい。何かが変なのだ。さっきから感じている違和感が、一度も修正されないままにここまできてしまっている。
何がおかしい。どこに違和感がある。
カインが、兄が、こんなにもやさしいのに。
こんなにも穏やかに、カインがアベルに応えてくれているのに。名前を呼んで、くれているのに、
「もうお前に隠し事はしない。お前を遠ざけたりはしない。今度は私のすべてをお前に、お前だけに──、」
いつの間にか、淡々とした口調に奇妙な熱っぽさを孕んだ囁きがアベルの身体に絡み付き、滑り込んできた。
粘るように、陰々と。そして仄暗く。
カインの瞳にはアベルしか映っていない。熱を持つ瞳が、潤んだ瞳が、アベルを見つめている。
(違う。こんなのじゃない......!)
兄と再び向き合う。その目に、もう一度自分が映る日を、アベルがどれだけ待ち望んでいたことだろう。
──だけど、こんな形ではなかったはずだ。
「.......っ、」
二の句を継げない。アベルが黙ってしまれば、否応無く静寂が降り積もる。夜風の音が聞こえるほどに。まだ聞きたいことは山のようにあったが、どれもこれもが言葉にしようとすると喉の奥へと逃げてしまう。
兄の心に触れてしまうのが怖かった。一つでも何かを知ってしまえば、もう後戻りが出来ない気がする。兄の内情を聞くのが怖い、知りたくない。
きっとそれは、アベルが大事に守ろうとしている「日常」を壊すものなのだと本能が警鐘をならす。
胸が圧し潰されそうだった。その重みに耐え切れず、アベルは一言呟いた。
「とりあえず、戻ろう?」
「......アベル。泣いているのか?」
泣き虫だな、と呟きながらカインが手を伸ばし、指先で払うようにアベルの目元を拭う。アベルも指摘されるまで気が付かなかったが、頬を濡らすほどに涙が溢れていた。
当惑した。悲しいわけではないのに、何故なのか。あれだけ必死に探していた兄がようやく見つかったのだ。むしろアベルは喜ぶべきだ。
──それなのに。
(もう、だめだ......)
流れる涙は止まらない。
「ひっく......っうぅう、ぐぅ......、」
呼吸も満足にできないほど胸が苦しくて、泣き叫んだりもできないほど息が詰まった。苦しかった。
視界が滲む。
訴えたいことなんてたくさんあるのに、どれも言葉にはできなかった。ひたすらに涙を流し、悲鳴にも似た泣き声を抑えて嗚咽に変える。
だが、その努力も虚しく、遂にはしゃくり上げて泣き出したアベルを咎めるでもなく宥めるでもなく、カインは黙って見守っていた。
堪らなく切ないのは、その眼差しがどうしようもなく俯瞰的で、不気味なほどの静謐さを纏っているからなのだろうか。
「そうか。大泣きほど嬉しいか。仕方のない奴め。だが、そろそろ泣きやめ。男だろ?」
やんわりと微笑むカインはまるで慣れたようにアベルの手を持ち上げ、労りように握る。予想外の流れにアベルは驚いたように目を開いた。
「ああ、いけないな。手が冷たい。早く帰って、母に温かい茶でも作ってもらおう。大丈夫だ。すぐに暖かくなる」
──そういう兄さんの方が、ずっと冷たいのに。
冷たい夜風の嘲笑と、触れた掌から伝わる兄の冷たい温もり。──どちらも今のアベルにとっての現実であり、受け入れるべき「現在」だ。
きっとこれから、その大きな手で温めてくれることなんてないのだろう。「心」が凍えてしまったから。「誰か」が持っていってしまった。
もう二度とあたたまらない冷え切った手を思いながら、アベルは俯く事しか出来なかった。
何の確信があるわけでもない。何を実際に見たわけでもない。
けれど。「歪」が確かにそこにあった。
兄の心はもう、後戻りできないところまで行ってしまったのだと、悟ってしまっていた。
僕は何度、あなたを失えばいい──?




