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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【結】〜人類最初の殺人〜
135/160

24話『それはあまりにも突然で』

 カインはゆっくりと森の中を歩いていた。


 迷いの正体から一歩、また一歩と遠ざかるにつれ生まれる安堵のような感情に、カインは安堵とは程遠い陰鬱とした溜息を漏らした。



 ──地面の感触が遠い。



 それはきっと土の硬度に(むら)のある山道のせいだ。そう思わなければ己の脚は今すぐにでも歩みを止めてしまうだろう。


 どこに向かっているのか、どこに繋がっているのかもわからないまま、カインは他に仕様がないというように、ただただ歩き続けているだけだった。



 その虚ろな瞳は道の何もを映し出していない。──けれど、その瞼の裏に焼き付いているのは、先ほど別れたばかりのアベルの後ろ姿だけだった。


 














    “一人にさせてくれ”





 アベルの耳にだけ届く微かな声で、カインがそう呟いた。そんな自分が、あまりにも傲慢で、どこまでも自分本位なのだと自己嫌悪する。


 だがあえて今は、言葉を続けなくてはいけないと思った。最後のそれが、その場しのぎのものなのかどうかは自分自身ですらわからないが。




「一人にさせて、って、兄さんは帰らないの?......まさか、まだここにいるつもり?」




 カインの言葉に、案の定アベルは困った顔を見せた。



 呆れさせてしまっただろうか。

 怒らせてしまっただろうか。

 不安にさせてしまっただろうか。

 何を話せば良かったのだろうか。

 何から話せばいいのだろうか。



 冷静ではない自分を、冷静な自分が俯瞰している。どうして望まずとも自分はこうも兄を追い詰めてばかりなのだろうか。頭に浮かぶ感情はどれもこれも悲観的なものばかりで、胃の辺りを不快感がアベルを襲う。


 そんな彼に気づかないふりをして、カインは迷いなくアベルを通り越していき、少し歩いたところで止まった。




「今日はこれ以上話しても、きっといい結果にはならないだろう」





 ──お互いに、な。


 淡々とした声。アベルはカインを振り返る。カインは数秒視線を地面に落としたあと、空を見上げた。


 真っ青な空。砂が少し舞っているだけのいい日和だった。





「だから、少し風に当たってくる。はっきり言って俺はもう少し、頭を冷やすべきだ」




 今の自分と、弟との距離感ではちゃんと平常心で向き合うのは不可能だと判断した結論だった。互いに踏み込むのをまだ戸惑っている。


 


「心配ですとも、親父の言うように、夕飯までには帰る」


「そうことじゃなくて......っ!」




 当然、そう簡単にアベルは納得が行かない。それ以上の意思疎通を拒否するように深く俯いている兄の腕を掴んで、こちらを向かせようと引っ張った。


 カインは眉をひそめて、自身の腕を掴んでいるアベルの手を見下ろす。


 相手にこういう顔をされたら普通、手を離すものだが、いつもはすぐに引き下がるアベルにしては珍しくそうしなかった。


 どこか不安定な危うさを漂わせる今の兄を一人にしてはおけない。アベルの瞳に浮かぶのはそんな純粋な心配だった。




「ねぇ......また、僕を避けるの?兄さん。それって十年前と同じことを繰り返すってことだよ」




 独り言のように呟く声が今のアベルに精一杯の抵抗。それが奇しくも、父のアダムと同じセリフだった。




「何も言わないで、何も相談しないで、勝手に遠ざけられて、居なくなられるのはどれだけ不安で、悲しいのかを───兄さんは分かる?」




 アベルの言葉は酷く胸を突き刺して、カインはただ何も言えず眼を伏せる。




(ああ。そうだな。俺はいつだって”逃げる”選択肢しか持っていない)




 傷つけたくないという名目を盾に、実際はただ”臆病”なだけ。蔑まされるのが、幻滅されるの本当は嫌で、怖くて───。





「僕らは兄さんを逃すために居るわけじゃないよ───支えるためなんだ」





 全てを話せとは言わない。


 だけど、逃げないで、隠さないで・・・独りにならないで。





「僕たちは......、兄弟。......家族なんだよ?」





 忘れていたわけじゃない。


 つい先ほど父からたくさんその温かさも優しさも教えてもらったばかりだ。


 ただその「愛」が───締め付ける。


 罪も、愛も、悲しみも、全部同じくらい───重い......。





「......ならば、こうしよう。帰ったら、ちゃんとお前に俺の()()()を話す」


「!」




 カインの言葉にアベルは思わずハッとする。──十年前二人で初めて家から抜け出した夜の森での会話を思い出す。





『アベル。オレが自分にケリをつけて、自分の事情を話せる日が来たら、その時は真っ先にお前に話そう。いや、話をさせてくれ』


『・・・うん。わかった。兄さんがそこまで言うのなら。ぼくもその日が来るまで待つよ。いつまでも』





 あの時、二人のすれ違いを痛感した記憶が思い浮かぶ。いつか己のすべてを打ち明けると真摯に告げるカインの姿が脳裏を掠める。それに追随して「待つ」と応じるアベルの言葉が耳の奥で甦る。


 十年の時を超えて、ついに「その日」がやってきたというのか。


 アベルは逡巡する。


 兄が長年何を抱え、何に苦しまされているのかを、ようやくアベルは知る事ができるのだ。


 自分の弱味や重荷を何一つ他人に見せようとしないこの兄の懐に少しでも近づくことができれは、そうすれば、今まで頑なに二人が分かり合えるのを妨げるものをついに解消することができるかもしれない。





「だから、頼む。今だけは一人にさせてくれ」




 

 ──今度は逃げも隠しもしないと、約束をしよう。







 カインの懇願を最後に、静寂が落ちる。


 森の風が吹いて二人の白銀色を揺らしていった。苦渋の色がアベルの瞳に広がる。




「......わかったよ」




 アベルは承諾するしか、ない。


 迫られた二択は決して軽いものではなく、だが、アベルが選べるのは一つしかなかった。苦々しい顔でアベルは小さく溜め息をついた。





「でも、あまり遅くならないでね。一人の夜の森は危険だから」


「......あぁ」




 静かに頷いて、どこかへ歩き出すカインを、もうアベルは止めることはしなかった。



(兄さん......)



 去っていく無愛想な背中を見送りながら、もやもやとした不安が身体を侵食していくのを感じた。


 だんだんと離れていく距離。カインが、兄が手の届かない場所に連れて行かれてしまうような気がした。


 そんな奇妙な不安に駆られ、去って行く兄の後ろ姿だけ見て、アベルはまた何か言おうとして───だが言い留まり、やがて、姿を翻した。



 そして、カインは。



 少し歩いたあとに立ち止まって、徐々に小さくなるアベルの背中をずっとただ見つめていた。その表情にはいろんな想いが溢れかえり、言いきることなどできない。


 やがて、遠ざかる弟は薄暗い森へと影を溶け込まして消えていった。一人になったカインの耳に、虫や鳥の鳴き声が虚しく届く。











      ◇◇◇◇◇◇◇






 







(何をやってんだ。俺は、)




 弟ときちんと向き合う──父に応えたばかりの意思さえも貫けない。


 同じ過ちを犯さない──すでにふらついた信念が情けなくて、悔しくて。



 カインは唇を強く噛む。広がる鉄の味。そして、




「うッ......!」




 不意に、キーン!と襲い掛かる頭痛。それが進み続けるカインの足を止めさせた。




(そういえば、ここ最近やけに、頭が痛む)




 額を押さえてカインは襲い来る眩暈をいつものようにやり過ごす。


 この感覚は覚えがあった。昔───もうずいぶん前にこんな感覚に悩まされた。いつの間にかそれは消えてしまっていたのに。




(それにしても、これは......っ、未だかつてない痛さだ......ッ)




 今日は一日いろんなことがありすぎて、あまり己の体の異変を気に掛ける余裕はなかった。しかし、いざこうして静かに一人でいれば、今まで忘れたツケが回ってきたかのように、頭の痛みが今日一番強烈であることを自覚する。



 痛い。いたい。

 


 切れそうな息を整えるため、一呼吸置くと、カインは奇妙な感覚を感じた。カインではない「何か」が脳内に直接語りかけるような、激しく自分の中から「何か」が破れて出てくるような感じだ。気味の悪い感覚。痛みに耐えながら覚束ない足でなんとか体を支えているカインには、その不快感が起こる所以を考える余裕はなかった。




「ぐ.......、ぐぅう、っ!」



 時間の経過で症状が安らぐのを待つにも、頭痛は一向に増すばかりで、やがて耐えきれない激痛まで及ぶ。体の力が抜けて膝が地面に着きそうになるのを踏ん張ったも、その努力も虚しく立つことさえ叶わず、ついにカインはその場に崩れ落ちた。


 せめて付近の大木まで体を引きずり、やっとのことで背を幹に預けたカインは、力の無い瞳を上空へ向けた。



 風が歌う。


 澄んでいた青空は今では甘やかな紫に染まる。


 いつの間にか、日が暮れようとしていた。カインたちに何があっても、何を思っても、太陽と月は変わらずに周っている。


 そんな感傷に浸かることすらも許さないのか、謎の頭痛がなおも休む間もなくじわじわとカインを蝕む。だが、その感覚に既に慣れきっている彼は、もう嘆くことなどしなかった。


 体への辛苦など気にしない。思うのは、──ただ一つのことだけ。




「結局、......同じことの繰り返し、だな」




 ポツリと零した。


 カインは、最後の最後に一方的に投げ出してしまった。




『ちゃんと仲直りしておくんだ』




 無意識に手をぎゅっと握りしめた。父の期待に応えられなかった。弟との関係を修復するどころか、中途半端に遠ざけた。そんな酷い不甲斐なさが、カインを責め立てていた。




「本当に、何もかもがうまくいかない.....」




 何処で道を変えれば、「今」は変っていたのだろうか。空を見上げたまま、今ここにはいない弟を思い浮かべる。


 



(昔はもっと、自然に兄らしくいられたのにな)




 ゆっくりと雲のラインに沿って動かされたカインの瞳は遠い昔に想いを馳せる。思い起こす日々は暖かく、穏やかで、今とは何もかもがまるで違う。


 弟が生まれてから家の中には常に笑顔が溢れていた。家族の中に、新たな生命がもたらす喜びは計り知れなかった。生まれて初めて「兄」になったカインは、「弟」の何もかもを護ってやりたいと思ったのは、覚えている。


 誕生したばかりの寝顔も、泣き顔も。笑顔も。


 そうだ。大切だったはずだ。少なくとも初めは兄として愛そうと、誕生したばかりの弟の前で密かに誓ったはずだ。





(だから、あの時命を掛けて熊から弟を庇った。崖から墜落しそうになる弟を助けに必死に走ったのだろう)





 ──こうして他人事とすら思える、すべてはカインの無意識な行動。


 風で髪が靡いて視界に自分の髪が掛かった。カインは握っていた拳を解くと、その手で自分の右目の傷跡を指でなぞる。


 負の感情に飲み込まれそうなとき、心が平静さを見失うとき、その傷口に触れるのが今のカインの癖であり、精神を安定させる切っ掛けのようなものだった。傷を指でなぞることで、この傷を負ったときのことを思い出せる。一生モノのこの傷を受けて、自分が一番愚かだった頃を思い出すことで、冷静さに立ち返れるのだ。




(弟を大切に思う気持ちは、今でもまだ俺の中に残っているはずだ)




 あの遠い日の感情を、カインは嫉妬故に追いやった。


 拒絶や疎みに誤魔化すように混ぜて、昨日へ昨日へと置き去りにしていた感情。


 また過ちを犯してしまったけど、きっとカインとアベルは切れちゃいない。まだ、やり直せるはずだ。





『だって、もし過去の過ちを一生取り戻せなかったら、私たち人間はなんのために生き続けると言うのかしら』



 ──かつての、母の言葉。





『言っただろ?誰だって過ちを犯すことがある。問題なのは、“そのあとをどうするのか?”だ。』



 ──今日の、父の言葉。




 カインを思い掛けてくれた両親の言葉が氷を溶かすみたいにゆっくりゆっくりと伝わって、カインの心を暖かく染み込む。




「そう、だな......これからだ」


 


 前とは違うかもしれない。


 前のようには居られないかもしれない。


 状況が現状が環境が変わっても、カインとアベルの関係は変わらないと、思いたい。変わることの無い兄弟の絆。そう、信じたい。もう一度、信じてみたいから。




「──帰ろう」




 強く強く拳を握り締めて、俯いていた顔をゆっくりと上げた。


 帰ろう。家族の元へ。約束した弟の元へ。アベルに今までことをきちんと謝って、またもう一度昔みたいに戻れる努力をしよう。


 



(暗くなる前に、早く、)




 会いたい。


 あれだけ臆していた気持ちが嘘であるかのように、ただカインは───アベルに会いたい。


 アベルに会って、彼を見て、彼を聞いて、彼の存在に触れて、実感して───じっくりわかり合うために互いの話をしたい。



 ズキズキとした鈍痛を一切無視して、カインはゆっくりと立ち上がった。身体が強い意思により無理強いされられたせいか、乱れた息を吐き出す口からは噛みあわない歯ががちがちと音を出している。


 それでも、一歩、一歩と、カインはめげずに前へと進む。


 なにせ、カインは長い混迷と葛藤の末に、ようやく自分の気持ちに光明が見えたのだから。


 今、もしかしたら何かが良い方向に進んでいるかもしれない。懐古に浸り、少しだけかつての自分を思い出したことで、少なからずとも今のこの最悪な状況が少し変わっていけるような。



(今なら、きっと素直にあいつと向き合える)



 忘れかけていた──記憶の奥底に抱えた大事な幼き頃の思いを掬い上げた今のカインなら。



 今度こそ、ちゃんと変われるように。


 そう、良い方向に───、






   なのに、

 



  _____ズキンッッ!!!




「痛ッ!......ぅあッ!!」




 今度は、頭痛のみならず、身を引きちぎられるような苦しみがカインを襲った。


 まるで身体の隅々まで張り巡らされた生命の糸が、一つ一つ切られていくかのような感覚だった。




(いたい、痛、い)




 それは、ただの痛みではなく、何か重要なものを根こそぎ奪われるような感覚だった。生きることの根本にある力が徐々に抜け落ちていく。呼吸さえも浅くなり、まるで魂が自らの体から逃げ出していくように思えた。




(何が、どうなって────、)




 体が変だ。




 頭が割れそうに痛い。




 目が霞んでいく。



 それでも動き続ける足は何故か軽く、けれど進めば進むほどますます全身が鋭い痛みに蹂躙され、限界を叫ぶ心を押さえつける度に眩暈を覚えた。




(だめだ、耐えろ。せめて、家に着くまでっ)




 

 耳鳴りがして、風の音も、森の音もすべて雑音に変わっていく。次第に視界が狭まるのを感じた。そして気づいたことには、カインは地面に這いつくばっていた。





(おれは、帰らなきゃ、)




 そう、弟と、約束したのに。



 徐々に薄れゆく意識の水底で、カインは尚も足掻き続ける。




「────ッッ、」




 くらりと揺れた視界に息を吸い込もうとするよりも先に、カインの目の前が赤く変わる。



(だれ、だ......?)



 自分を見下ろす影の気配を感じながらも、それを瞳に写すより早く彼の意識は黒く落ちた。









     ◇◇◇◇◇◇◇









「......?」




 ようやく家にたどり着いたアベルは糸で引っ張られるように遠くの森の方へ顔を向けた。


 耳元で冷たい息を吹きかけられたような、なんとも言えない騒めきがその背骨伝いに這う。





(───カイン兄さん?)




 アベルは、知ることができなかった。森の茂みの遥か向こう側で動き始めた、悲劇を。



 そしてこの時点で、



 カインが弟への後悔を拭う最後の機会が失われたことも。


 アベルが兄と分かり合える転機が潰えたことにも。



 誰も決して、知ることはない。


      ──「神」以外は。

 


 

 

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