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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【結】〜人類最初の殺人〜
132/160

21話『生まれてきてくれてありがとう』

 消え入りそうな声で、カインは謝る。


 思わずアダムは目を丸くしてカインの姿を見つめた。


 謝る行為を毛嫌いして、誰かと衝突をしても滅多に謝ったりはしない。理由をつけてかわす息子が、素直に謝罪を口にしたことに驚く。


 一方で、カインもまた己のらしくない言動を自覚しているのか、すぐに俯いて顔を隠す。とはいえ、その意地を尊重してアダムは覗き込むようなことはしない。


 その代わり、アダムはゆっくりと推し黙るカインの隣に腰を下ろす。そして、静かに、訥々と、アダムはふいにこぼし始める。




「.....先ほど、わしの過去について話したな」




 ──それで、ここだけの話なんだが。



 まるでとっておきの秘密話だと言わんばかりの、前触れのない言葉にカインは父を見上げる。




「過ちを犯すってのは、必ずしも悪いことばかりではないぞ」




 どこか遠いところを見るような眼差しのアダム。いつのまにか真剣なものに変わるその横顔をちらと視界に入れて、



「......どういう、意味だ」



 父の意味がよく分からなくて、カインは眉を曲げて、難しい顔をする。その言葉の先を求めているかのように視線を逸らさずに、じっとアダムのことを見つめていた。




「確かに神を背いた罪は重い。下された罰も決して軽いものではない。むしろ苦痛そのものだった。後悔こそはしなかったが、神の試練に何度も挫けそうになったのは確かだ」




 時間が経過し、流れる季節や環境の変化がアダムたちを置き去りにするのを感じるたびに、あのときの選択が正しかったのかどうか不安になることもあった。



「我ながら情けないと思ったさ。長い年月を生きるほど、人間ってのはだんだんと弱気になっていくもので、かつての決意にさえも心の迷いを生じてしまう生き物なのだと」




 そこで、アダムはふと、小さく笑う。 



「だが、今はそんな過去の自分さえも乗り越えて、あの時犯してしまった罪を迷うことなく肯定できるようになった」




 その口調に一切の無理がなかったことに、カインは内心驚いた。曲がりなりにも神を叛いたのだ。もうすでに過去の事とはいえ、なぜかつての己の罪禍をそう平然と吹っ切れていられるのか理解できなかった。



「......なぜだ、」



 だから、カインの口から自ずと純粋な疑問が漏れる。


 思えば、自分から何かに興味を示すなんて初めてではないかと、カインはそんなことを思いながら、これから父が口にする答えを待つ。




「それはだな、」




 ゆっくりとアダムの手が近づいてくる。そして、それはカインの体へ、頭へと伸びて、最後は髪に絡んだ途端、アダムは破顔した。




「──わしが楽園にいた頃よりも、更なる幸福を得たからだ」




 穏やかな、優しい声。



 ──どうして父は、そんな慈愛に満ちた目でカインを見ているのか。


 


「過ちの代償で失ったものは決して小さくはない。だが、それ以上に得られたものが大きい」


「......そんなもの、この世界にあるのか」




 すべての幸福を詰め込んだとされる箱庭──今では(まぼろし)とされるエデンの楽園よりも勝る幸福なんて、この世界に果たして存在するのか、カインは疑問が湧いてくる。



「ああ。もちろんあるとも」




 だからこそ、次の瞬間の声を、カインはしばらく現実のものだと思えなかった。


 




「──カイン。お前が生まれたことだ」





 その瞬間、森の音が消えたような気がした。


 カインの耳に届いたのは、穏やかな声音で静かに紡がれる慈しみの言葉だけだった。明確な輪郭を伴って鼓膜に落ちたそれは戻ってきた森の音と撹拌していく。


 













 何を言われたのか、カインには一瞬、意味がわからなかった。

 






「俺、が......?」





 息を呑む。思わず立ち上がって、カインはアダムを凝視する。アダムは心底愛おしそうに笑っている。嘘なんて言ってないって表情でじっと彼を見つめている。


 もう一度、父からの返答をよく咀嚼し、反芻する。


 それが理解に到達した瞬間、あまりにも想定していなかった父の答えに、たちまちカインに動揺が広がり、二の句が継げなかった。


 


「あの楽園で禁断の果実を食べた罪。その代償の一つとして、神は女である母さんに【出産の苦しみ】の罰を宣告されたのだ」



 

 と、そんな息子の予想通りな反応に、アダムは微笑んだままで軽く手を挙げる。

 

 唐突にその口から語られる自分たちの過去に、カインはますます困惑するばかりも、とりあえず黙って耳を傾けた。




「まだ何もなかった貧しい地上で母さんはとてつもない苦痛を伴いながらも生まれて初めて子を産み落とした。それがカイン、お前だ」




 そう言うと同時に、アダムの手がカインの頭の後ろへ回り、ゆっくりと引き寄せられる。




「あの苦しい生活の日々と過酷な環境の中で、お前の誕生がどれだけわしと母さんにとって大きな希望だったのか、きっとお前はわからないだろうな」




 引き寄せる力は強くないのに、無抵抗のカインは為す術なく父に抱き寄せられ、背中を叩かれる。


 急な事と、そして人との接触の経験が少ないカインには身を硬くすることしかできない。だがそれも父の笑顔に、どこか既知感を覚えてすぐに緩んだ。


 それは幼い頃、母エバにしてもらったのと同じものだということを思い出したからだ。自身に情愛の類が欠落していることに葛藤してきたカインが、その時に与えられた温もり。





「この世界に生まれ落ちた瞬間、お前が泣いたから、あの頃のわしと母さんは苦難が絶えない現在(いま)を受け入れようと思えた。その何もできない小さな手がわしらの手を握ってくれたから、わしらは罪深き過去を受け止めることができた。追放されたわしらが初めて未来が待ち遠しくなったのは──カイン、お前が笑ってくれたからだ」




 アダムの言葉がどれほど、カインの心に優しく染み入ったことだろう。その口から紡がれる音の一つ一つがカインの瞳を覆っていた闇を晴らしていく。



 

「お前が“始まり”となってくれたから、アベル、アワン、アズラが生まれてこれた。お前ら全員、わしらにとってこの以上にない宝物だ」




 もしも、アダムとエバが神に背かなければ、きっと彼らは堕落をせずにそのままエデンの園にいつまでも留まっていられたのだろう。そして、神に創造されたすべてのものは、【死】とは無縁の状態まま存続し、終わりがなかったに違いない。




「もしあのまま楽園で一生を過ごしていたら、こうしてお前たちに触れたり言葉を交わすこともなかったかもしれん」




 何より、原罪のないその世界線ではきっとアダムとエバは子供を持たなかったであろう。不幸も苦労も知らずに生きていく先には、生きる喜びも命の尊さも知ることはない。罪を知らない故に善も行わず、己の意思を持たずな無知の状態で神の愛玩動物にとどまっていたであろう。



(そんな未来......、果たして本当に幸せだと言えるのか)




 たらればを考えるのは無駄なこと。それはわかっている。アダムの今までの人生、そう思ってやって来た。それでもたまにふとした瞬間、今となっては決して訪れることはない別の未来をつい想像してしまうのだ。




「はっきりと言える。──わしは、今が一番幸せだ」




 だが、それが決してアダムの現在(いま)凌駕(りょうが)することはなかった。





「だから、わしは、お前たちに出会えたこの運命を心から感謝しているのだ。不謹慎ではあるが、わしはあの時、神との約束を(たが)うことを後悔しておらん。──禁断の果実を食べて、よかったとさえ思う」



 

 不謹慎どころか、(ばち)当たりな最後の発言をあっさりいいのけるアダムに、カインはは目を丸くしてアダムを凝視した後、突然、泣きそうな顔になった。信じられないと(なじ)るような声音で言ってくる。




「急に何を言い出すのかと思えば......、俺程度の存在がそこまでの影響力を与えたなど、想像もつかない!はっきり言って、デタラメを言っているのではないかと疑いたいくらいだ」




 ──自分がこの家族の「始まり」だなんて。苦難の渦にいた過去の両親にとって大きな心の支えになっていたという絵空事のような言葉を投げかけられて、カインは困惑するほかない。唐突与えられた評価の何もかもが彼にとっては縁遠いものであるからだ。


 元々猜疑心(さいぎしん)の塊のような生き物であるカインは、アダムの言葉をそのまま簡単には()()みはできない。





「たとえ百歩譲ってそうであったとしても......!今はどうなんだ!こんなふうに失敗を繰り返し結果も残さず、冷たくてヤな奴に成長した俺なんかよりも、俺以外の兄妹たちの方がよっぽど親父たちの支えになって、」


「カイン」




 ともすれば延々と続きそうなカインのセリフを息継ぎのところで遮って、アダムは間を置いた。


 どうして疑うのかと、そんな憤りは湧かなかった。おそらくカインにとって、誰かを心から信じるという行為はひどく困難なのだ。疑いたくて疑うわけじゃない、けれど疑わずにはいられない。信じて欲しいと思う、けれど信じられなくても仕方ないと思う。


 カインが生まれてからこの二十年間で、自分たち親子はそんな不安定な信頼関係を築いてしまったところがある。


 ──だから、最後は着飾った長い言葉よりも、アダムは心からの本音を簡潔に伝えることにした。




「わしにとって、昔も今も、お前は可愛い息子だ」


「────!」




 例え何をしようとも、どうなろうとも、その感情が変わることはない。


 これから長生きすればするほど、カインを批判する者も現れることだろう。それでも、アダムが親としてカインを大切に思う気持ちは決して変わらない。


 そんな絶対の親愛、全幅の信頼が込められて一言に、カインの心は静かに震えた。





「わしは、ありのままのカインが大好きだぞ」

 



 優しく付け足された言葉に、カインはぐっと唇を噛む。


 カインがこれからもカインらしくいられるように付け足されたその優しい言葉には、父としてカインを思う心が滲む。


 目の奥が熱くなるのが、わかる。





「...ほら。遠慮すんな、頑固者」




 アダムは片腕をのほうに開いてみせる。霞むカインの視界が、その姿を捉えた。そのアダムの表情が、あまりにも柔らかくて、優しい。




「もう一人で抱え込むな。吐き出せ。父親であるわしが全部受け止めてやる」



 そして、アダムはそんなカインにそっと顔を寄せて、





「.────"家族"、だろ?」




 たったそれだけのことで、たったその一言だけで、カインの内側で必死に張った最後の堤防が一気に決壊する。





「かぞ......く。......家族」




 その唇から、僅かに漏れた声があった。カインは半ば呆然としていた。鋭い瞳はゆらゆらと頼りなく揺れている。唇を物いいたげに震わせて、深く俯いた。




「......おれ、は」




 本当は、と声にしようとした続きがまた再び喉元で掠れて消えそうになるが、それを堪えて、カインは吐き出した。




「こう、なるのことを、」




 ──望んでいなかった。



 なんて言い分を、口にしていい立場ではないのは百も承知だった。だからこそ先ほど言葉にする勇気がなく飲み込んだカインの本心が、今ポロポロと(こぼ)れ始める。




「本当は、あんな形で傷つけるつもりなんてなかった......!!」




 急にこみ上げてきた感情に自分を見失ったかのような勢いで、思いをぶちまけた。

アダムはなにも言及しなかった。滅多に自分の内心を打ち明けず、自分の中に(いぶ)る想いをぶちまけないカイン。そんな彼の吐露に耳を傾けるだけ。




「失敗して......!無駄に心配させて......っ!気を遣われて......っ!かと言って、弱音を吐くのも自分自身が許さない!!だから、そんな自分の心を守るためだけに......っ、心にもないことを言って!乱暴を働いて!家族をあんな風に苦しませて、悲しませたり、辛い思いをさせたのは自分の弱さのせいなのだと自覚してしまえば、あいつらが鬱陶しくてたまらない!こんなのはただの逆恨みだってことがわかっていたとしても──!」



 段々大きく、高くなっていくカインの声。彼が一つ一つと語る言葉が胸を引き裂いて顔が顰まる。


 まるで───懺悔だ。




 それでもアダムは口を挟まず、どこか痛ましい思いで黙って聞いていた。カインは必死で叫んでいる。訴えている。




「嫌いだ、大嫌いだ。俺に哀れみを掛けるやつも、俺にいらん優しさを押し付ける奴ら全員嫌いだ!だが、一番嫌いなのはっ」


 

 ──そんなどこまでも独りよがりで醜い自分で、




 怒涛のような長い独白。最後の一言こそが、カインが長年に秘めた最大な本音なのだろう。




「もう、良い。よく頑張った。カイン。お前は一人でよく耐えたさ」




 なのに、触れ合う声は決してカインを蔑みも、見損ないもしない。知っているのだ。彼は。ここ数ヶ月ずっとカインを見てきたのだから。




「つらかったな」





 アダムは目尻を下げて、笑う。


 親としてのアダムの慈しみの感情が、親愛の熱情が伝わってくる。空っぽで、渇き切っていた心の器に、温かいもので急速に満たした。



 今までにない感覚だ。


 汚れ切った闇が浄化されていく感覚。


 腐れきった醜い感情と決別させる感覚。



 こんなに深く、他者が心のなかに入ってくるなんて。


 昔のカインはそんな事を許さないし、絶対に認めない。拒絶の壁を張って、誰も近づけないようにしていた。


 それをこの父親はいつだって遠慮なしに土足で入り込んでくる。だが今、ついにカインの琴線(きんせん)に触れることができたのだ。






「わしは親としては全然ダメダメだな、一人の息子がずっとこんな苦しいものを抱え込んでいたというのに、今日までなにもしてあげてなかった」




 アダムは優しくカインの額を撫でる。その声が掠れていたのに、カインは聞こえないふりをした。ただ自分が泣かないようにするのに必死だった。




「親父はそうやって俺を甘やかすから、俺は、当たり前みたいに……言うべきことも言わないまま、家族を、振り回したんだ」




 これ以上、甘やかさないでほしい。もっと厳しくていい。自分が家族にしたこれまでの仕打ちを振り返れば、自分にはとうに優しくされる権利などないと自分が一番よく知っている。




「まったく。こんなときまで強がりおって、どこまでも素直じゃない息子だよ。お前は」




 苦笑い気味に言いながら、アダムは両手で顔を覆って俯くカインをいつまでも、いつまでも、あやすように、愛するように、いつまでも抱きしめ続けてくれていた。



 ──この日、カインは生まれて初めて、父の愛を知った。 

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