20話『探し続ける何かを知る』
「…なぜ、」
並ならぬ努力はしてきたつもりだった。
だが、カインは神に認められなかった。認められたアベルには格の違いを見せつけられた気がした。
「俺がしてきたことは.....、」
なんだったんだろうな、ただそれだけが心に浮かぶ。
いつまでも火の柱が下りてきてはくれない、自分の供物の不変を見ながら、あの祭祀でカインが思ったのはそれだけだった。
一体どうしてこれほどの差があるのだろう。生まれ持った差なんて、絶望的な答えは見いだしたくはない。
ならば、努力の差か。それとも、
「違った、のに。」
幼い頃から見てきた弟に感じていたのは、兄としての親愛だったはずだ。確かに一度は壊れかけてはいたが、和解してからはまた、それなりの良好な関係を築けていたはずだった。自分なりに大事に思っていた。
だが、あの祭祀以来、カインがアベルに向けるのは、嫉妬しかなかった。
やりきれない。
その思いは弟のアベルへの憎しみと、己を認められたいという渇望へと姿を変えた。
『結果がないと、認められないの?認められらければ価値がないの?』
『そんなの、おかしいよ!』
アベルは真っ向からカインを見据えてそう言い切った。
いつも控えめで、他人の顔ばかり伺って、ドジを踏んでもただ家族の中で笑っていただけのアベルが、カインの前に反撃の姿勢すら見せず、それでもたちふさがった。
カインはアベルを恐れていた。
どこまでも神への正しい心を持ち、それを認められるアベルを恐れた。
だが、アベルは最初から何も恐れていなかった。認められないカインのことなど、見てすらもいなかった。その余裕が恐ろしくてたまらなかった。カインはこれほどまでに認められることを渇望しているというのに、弟は何も求めていない。
『そうやって自分を一番傷つけているのはカイン兄さんじゃないか!』
芯の強さを秘めた黄金の瞳には、いっぺんの曇りもなかった。ただ、まっすぐにカインを見据え、自分の正しさを信じて疑わない。カインの汚い感情なんて知ろうともしないくせに、真っ向からカインを否定していた。なのに、カインを慮るように揺れていた。
ああ、その目だ。その目が酷くカインの焦燥を煽ぐのだ。
アベルの正しさが、無邪気さが、まっすぐさ、その潔白さのすべてが、迷うカインを嘲るようであった。彼と自分は違うのだと、見せつけられた気がした。歪んでいる自分がおかしいかのように思えた。
いつもそうだ、綺麗すぎる。
ああ、目が眩むほどまぶしい。
「なん、で、」
カインは霞む視界に問いかけた。
「なんで、俺はここにいる?」
──本当は、わかっている。
カインが正しくないからだ。
だから、カインは逃げた。
潜在的に自分の過ちを自覚しているからこそ、あれ以上弟の「正しさ」と「やさしさ」を目にしたくなかった。そんな衝動的な現実逃避がカインをこんな森の奥まで導いた。
「俺はこれから、どこへ向かえばいい?」
カインは、ただ自問自答を繰り返す。
無言でカインを見つめるアダムの瞳は揺るがない。カインと同じ色を宿した双眸に今の自分が映る。誰からも不機嫌だと誤解されるぐらい鋭い目尻が、今はどうしようもないほど弱々しく下がっていた。
──情けねぇな、と心底にそう思う。
「......後悔、しているのか?」
柔らかな光を宿す瞳に問われて、カインは言葉が出なかった。その問いに対する否定も肯定も、どちらも今のカインには当てはまらなかった気がしたからだ。
「誰だって間違いを犯すことはある。わしにだって神を背いた罪深い過去があったさ」
「!」
「お前にもわしと母さんの昔話をしたことがあるだろう?知っての通り、神との約束を破ってせいで、わしらは人類の罪を作ってしまったのさ」
眼前、突然の父の告白に、カインは思い出したかのように目を丸くする。その反応を見てからアダムはふっと笑った。
「それから、当然のことながら、わしらは今まで当たり前のように享受していた幸福を取り上げられてしまった。そこから神より罰を受けて、あの娯楽しかなかった楽園から食料なんてあるはずもない死の大地へ追放されたのだ。わしと母さんは凄まじい飢餓に耐えながらも彷徨った。その過酷な神の試練が一月ほど続いてな、いや、もっとだったかな......?しかし、ようやく死の大地を通り抜けた先もまた新たな苦難の始まりで、わしらは呪われた土から食べ物を得ようと苦しんで生きなければならなかった」
壮絶な過去の片鱗を口にして、軽い調子でアダムは語るが、きっと軽い心持ちではなかっただろう。
「だがな、一つだけ言っておくが、過ちを犯すと決めたのも、わしなんだよ」
過ちを犯してしまう環境は、まるで抗いようがなく、元からそうなる運命だったと勘違いしがちだ。
だが、努力すれば本来ならそこから逃げ出すことができたはずだ。
禁断の果実を食す罪だって、アダムがエバを見捨てれば回避できたはずだ。罪を犯したエバを拒絶して、彼女だけの罪にとどめておけば済んだ話だったのだ。
「わしは自分の意思で母さんと同じ罪に染まることを選んだ。我が主との約束を切り捨ててまで、わしは最愛の女と一緒に咎を背負うと決めたのだ」
過ちを犯さないで済む選択も残されているのに、過ちを犯すという選択をしたのも、アダム自身、だ。
「…...それは、俺を責めてるのか…?」
カインは空を見上げて、アダムに問う。
アダムの言葉が上手く受け止めきれず、カインは彼の言葉の意味をとりかねた。
父の言葉は常におおむね正しい、だからどういう意図があって言われているのかが理解できない、否、理解したくなかった。
カインが今あるこの状況は神が生み出した不本意な状況で、自分のせいではない。そう思いこむことで我慢し、弟への憎しみや嫉妬と共に、耐えてきたというのに。
それなのに、
「この状況を選んだのも、俺自身だと、言いたいのか.....?」
「それはお前が一番よくわかっていることではないか?」
訊き返されてカインが言葉に詰まる。それは彼自身が本当は心当たりがあるからこそ当然の反応だった。詭弁を弄することもできないカインの反応は、痛いところをつかれた人間そのものだ。アダムは弁明しないカインに僅かに眉毛を下げる。
「カイン。お前はまず、なぜ礼拝を失敗させたのかをよく考える必要がある。今のお前とわしらには大きな隔たりがある。それは神へ近づく心の在り方だ。血の犠牲による贖罪ではなく、それを度外視し、自己義を盾に神に近づく......。それは我々が目指す神の教理とは大いに違ったものだ」
人間はいつも自分が判断することを正しいと思い、自分に従おうとする性質を持つ。カインのような人間の自らの判断は、神の掟を守らないようにさせ、時には歪めてしまう。
現にそのような勝手な自己判断により、カインは神の定めた「血の犠牲」を最後まで受け入れられなかった。結果、神へ捧げたのは心からの供物ではなく、承認欲求を孕んだ供物となってしまった。挙げ句の果てにはそれを断られた事による、神への猜疑──神に不従順の罪を犯すことになった。そして、それは必然と礼拝の失敗に繋がる。
「お前も一人の人間だ。様々な思いがあってこそ今の信条を持っていることを、わしは親としても、一個人としても尊重はしたい。アベルもきっとそうだった。だが、あやつの性格上、自分だけではなく、兄の成功をも願ったのだろうな。苦渋な思いでお前の信条を否定してまでも、あるべき神の答えへと導こうとしたはずだ」
ああ、そうだ。
気づいていた。心のどこかで、カインはとっくの昔に気付いていた。ただ、認めるのが癪なだけで、ちゃんとわかっていた。
──カインが礼拝を失敗せずにいられた選択だってちゃんと用意されてあったってことを。
(祭祀の前日に、弟はわざわざ俺に忠告したのだ)
あの時、下手なプライドなんてものを捨て切っていれば、カインはちゃんと素直に弟の言葉に耳を傾けることができたはずだ。
(だが、あの時、俺はあいつを邪険にして、邪魔だと追い返して、)
弟の大事な忠告を無視した。
弟が良かれと思って差し出された正解を拒み、勝手な先入観で、勝手な見解で自己流の供物を捧げた。結果、神の掟を軽視する傲慢さに取り憑かれたカインは神の祝福を得るチャンスを自らふいにしたのだ。
その事実を改めて突き詰められる途端、屈辱が、恥辱が、カインの胸中を染め上げていき、震える唇が言い訳を紡ごうとするのを、なんとか決死のプライドでそこだけは堪えた。
「......、つまり、俺がこんな結末を迎えるのも、すべて自業自得なんだと。親父はそう思っているのだろう」
「......考え方は、いろいろだ。だが、主にわしがお前に伝えたいのは、と他人を変えるよりも、自分を変える方が簡単という話さ」
──他人を変えるより、自分を変える方が簡単。
アダムはそれ以上カインに理解を求めず、お茶目に笑って見せただけだった。
「なんだそれ......」
カインは解消されない焦燥と、わからない父の言葉に苛立ちを覚えて、身を起こそうとする。だが、体は動かなかった。
「言っただろ?誰だって過ちを犯すことがある。問題なのは、“そのあとをどうするのか?”だ。」
鼓舞を込めてカインの肩にポンと叩けば、豪快な笑みを浮かべるアダム。
「つまりだな、お前のこれからなんて結局はお前次第でどうにでも変われるということだ!礼拝のやり方を間違えたなら、次は心を改めて正しいやり方で行えばよい。だから、一度きりの失敗であまり自分を追い詰めてやるな!」
カインはアダムの言葉を静かに受け止めていたが、その先に続く言葉を見つけられないようだった。相槌を打つこともないその様子を目に入れながらも、アダムはその腕を組んで何度か頷くと、
「そもそもな、カイン。お前は今の自分に価値を見出せなくて、何やらアベルに嫉妬しているそうだが、わしからすればお前は充分よくやっている。たとえ農作物が上手く行かなくとも、お前が俺たち家族にとって欠かせない戦力で大事な一員あることには変わりはない」
「......そんなこと、慰めになると思うか?」
「ガハハっ!慰めのつもりなどない。わしは事実を伝えただけだ。それをどう受け取るかまでは、お前の心に任せることにするさ」
捻くれたカインの言葉に苦笑しつつ、しかしアダムは「だがな、」と言葉を継いで、
「カイン。これだけは強く信じろ。お前は最初からアベルに劣等感を抱く必要なんてないのだ。アベルにはなくて、お前にしかない実力と才能もある。この先お前が何度失敗したって、それは変わらない事実だ。だから、その自信を揺るがずに常に自分を強くもって貫けろ」
静かな声で、アダムはどこまでも強くカインを肯定する。
「優秀なお前なら、間違いをした分なんてすぐにまとめて取り戻せるさ。だからお前はお前のまま、お前のペースでまたやればいい。人生は長い、いくらでもやり直せる」
それが耳朶を打つ度、カインを雁字搦めに強く縛りつけていた重くて固い心の鎖が少しずつ音を立てて外れていくのがわかる。
「──焦らなくて、いいんだ」
アダムの瞳にはカインへの肯定と理解が込められていた。カインのすべてを慮るその態度に救われる。そんな風にいつも温かく見てくれている人だと、知っていたはずだったのに、カインはこれまで反発し続けてきた。
「......生いろいろと、意気を言って、悪かった」
──だから、それを終わらせようと思う。




