19話『世界は彼を置き去りにする』
凶器と化した農具を手放す身体がこんなにも身軽だとは思わなかった。
走り出す直前、誰かがカインの名を呼んだような気がしたけれど、そんなことはどうでもよくて。息をすることもままならない、あの場所から少しでも離れたかった。
抑えきれないほどの衝動から逃げるために、カインは今、森に飛び込んで獣のように駆け回っていた。
「────ハァっ、!」
風を切る。足が逸るままに、心が急き立てるままに。カインが踏破するのは薄暗い森の中だ。
足場の悪い斜面を飛ぶように駆け、枝木に頬をこすられる痛みに擦過傷を作り、何度木の根につまづいてよろけても、カインはただただ前だけを向いて、すぐに踏ん張り視線を強くした。──息の続く限り。
走る。
走って、走って、カインはがひたすらに走り続ける。
その脳内には父と母、妹たち、そしてアベルの顔が過ぎる。家族の顔を必死に頭から追いやろうとしても、それはしつこく絡み付くせいで、カインの握り拳に力が籠る。地を駆ける足も速まっていく。
「────!!」
やがて、疲れでその場に立ち止まると、カインは声にならない声を上げ、張り裂けろとばかりに喉を開き、憎いくらいに晴れ渡る空に向けて叫ぶ。
何もかも消えて、なくなればいいのに。
──そうやって体の中から、人格すらも蝕むすべての悪意の毒を吐き出して、何もかもを空っぽにしてしまいたかった。
そのまま知らず知らずのうちに、カインは崩れ落ちる。
乱暴されたときのアワンの、あの表情。そして、去り際にアベルの、既視感のある──異常に暗かった瞳の色。
カインの頭に、それらがいまだに焼き付いていた。
日差しはすでに高い位置まで上り詰めていて、捧ぐ太陽光が木々の隙間から差し込んできている。
そうして自分の殻に閉じ篭もるように、茫然としばらく蹲っていると、
「──少しは頭を冷やせたか?」
ふいに、背後から降ってきた声にカインは力なく振り返る。そこに驚きの色がないのは、薄々とその気配を察していたからだろう。
「親父......、」
枝を踏み折る乾いた音が鳴り、アダムがこちらへ歩み寄ってくる。カイン小さく舌打ちしてから、
「なぜ、」
追ってきた。と言おうとした言葉は、声にならなくて、カインはゆっくりと立ち上がって、道端の大きな岩に腰掛けてまたそのまま俯く。
するとアダムは歩みを始め、カインの側まで来て、頭上で息を吐いたのがわかった。
「大馬鹿ものだな。お前は」
開口一番に言い放たれた父のストレートな叱責に、目を伏せるしかなかった。
「カイン。怒りを向ける相手が違うぞ」
意気消沈しているカインをアダムは厳しい声で諫める。
カインは良くも悪くも真面目だ。だからこそ神の祝福を授かり急速に成功を収めるアベルに焦燥を抱いた。理解はしているが、アベルに怒りを向けても意味がない。なぜ自分が失敗したのかそれに気づかなければ、意味がないのだ。
「っ!──そんなのっ!!わかっているッッ!」
正論を言われて激昂したカインは怒りにまかせて叫ぶ。その声はもう後には引けないためか、悲痛だった。
「俺だって!あんなっ、あんな、──っ、だがッ!」
追い詰められているのがわかる。自分の感情の矛先をどこへ向けていいかしれず、今にも心の闇に押しつぶされそうだった。
アダムは沈黙した。息子を見るその目には憂慮が滲んでいる。アダムの瞳の中で、カインはギラついた眼光を見せているが、そのくせカイン自身は分かっているのだ。こんなのただの逆ギレだということぐらい。
「なんで、なんでっ、オレが、......違う!!オレは!!」
目に見えて取り乱すカイン。それを静かな目で見つめていたアダムは、「落ち着け」と一際冷静な声で言い、泰然とした態度でカインを見下ろすだけだった。
怒声が無音の空間に溶け込んでいく。空気の振動はすぐにおさまった。
「......説教なら、もう結構だ」
カインは口惜しそうに握った拳を震わせていたが、自制をきかせた声で言い放つ。そしてすぐに気まずげに唇を結んだ。そんな息子の態度に、アダムはふぅと息を吐き、ゆっくりとカインの横に腰を下ろす。
「わしが説教するためにわざわざこんなところまで追ってきたと思うか?」
「......それ以外の何がある。俺は最低なことをした。親父もそう思っただろう。言っておくが、それに関して反省する気はない」
「反省する気はない、か。そんな今にも泣き出しそうな目をしてよく言うわい」
「!」
乾いた笑いを伴った指摘に込められたのは憐憫か、あるいは呆れか。いずれにせよ、それを聞かされたカインの反応は劇的で、思わず目元に触れて見えぬそれを指先で確かめようとしてしまっていた。
それをした時点で、アダムの言葉を否定し切れない自分がいることの証明にしかならないというのに。そんなカインが晒した一瞬の動揺をアダムは見逃さずに捕まえた。
「お前が兄妹たちを無為に傷つけて、反省しないような最低なやつなら、」
アダムの声は明らかな憤りを含んでいたが、ふっとその厳しい声音が緩む。
「そんなに哀しい姿、見せるモンじゃない」
深い森の中、アダムの声が浸透する。予想外の指摘に、カインの白銀がびくりと跳ねた。心臓が大きく脈打ち、動悸が異様に早まるのを自覚する。
「哀しい......?」
──声。
「哀しい......わけが、ない」
静かな声が、その場に響いた。
「俺は、鬱陶しい妹の気遣いを無碍にした......、大嫌いな弟を気が済むまでとことん罵った。清々したくらいさ......それなのに、哀しいわけ......!」
否定。
アダムの言葉への、否定だった。
しかし、カインは尚も俯いたまま、父の姿を認めようとしない。ガタイのいいはずその姿はあまりにも小さい。この森の陰りに呑み込まれてしまうんじゃないかと思うほどに、脆く、弱い。
「哀しいんだよ」
だが、カインの否定をさらに上書きするようにアダムは強く言いのける。引き締まっていた表情は、次第に苦々しい笑みに変わる。
「本当に......お前はいつだって、自分のことは置いてけぼりにするんだもんな......」
肩を竦めて、カインを見るアダムの双眸には意外にも予想した負の感情の色は見当たらなかった。あるのはただ、手のかかる子どもを見守るような大らかな慈しみの輝きだけであり、それに気付くカインを困惑させた。
「カイン。お前のやさしさは、分かりにくすぎる」
どくん、と胸が一度強く鳴り、カインは喉から呻き声をあげそうになるのを必死で堪えた。表情を強張らせて目を見開いたカインの反応に、アダムは彼の肩をやさしく叩く。
「父さんにはバレバレだがな。心に溜まった鬱憤を誰にもぶつけたくなかったから、お前がここ数ヶ月家族を散々避けてきたことはちゃんとわかっている。お前なりに家族を傷つけないためだったんだろう。──かつてのようにな」
やめろ、カインの心が絶叫する。
「我が息子ながら不器用もいいところだ」
父が見ているのは都合のいい幻だ。
本当のカインはそんな人間じゃない。本当のカインはもっと汚い。アダムがそうして好意的に見てくれるのとは正反対の、もっと嫉妬に狂い、悪意に満ちたカインがいるのだ。
あれだけ理不尽に弟を罵ったというのに、あれだけ醜い本心をさらけ出したのに、無様で救いようのないカインの人間性を、父だってあの場で直接目の当たりにしたはずなのに。
そんなカインの思いを知るよしもなく、アダムは話を続けた。
「お前もわかっているだろうが、アベルもアワンも他意はない。二人とも心からお前を慕い、心配して気に掛けただけだ。ただ今のお前はそれを受け入れる姿勢が整っていなかった。そう、単純にタイミングが悪かっただけで、誰も悪くはない」
アダムの口調はカインを慰め、アベルたちを庇うものだった。
「......さっきから勝手な想像して、いい加減なことをぬかしてんじゃねぇよ。アイツらはともかく、俺に落ち度がないなどと、思ってもねぇことをッ」
確かに、カインだって悩んだ。それは事実だ。自分の心の闇とどう向き合えば一番良いのか、一生懸命悩んで、自分の醜い嫉妬をどうにか周囲を巻き込まずに制御する努力をしたのは間違いない。
しかし、ダメだった。
無駄な足掻きだった。
結局、カインは家族を傷つけないことよりも、自分の心を守ることを優先したからこそ、今日のような悲惨なトラブルを巻き起こしたというのに。
(親父はいつもそうだ。誰に対しても甘すぎる)
だからこそ、カインは父の擁護を受け入れられない。自分を正当化したくないからだ。ずっと心に募っていた心の闇が暴発したせいで、八つ当たりでしかないあの暴挙に出てしまった。反省する気はないと大いに虚勢を張ったところで、自省の念をまったく抱かないほど、さすがのカインもそこまで落ちぶれてはいない。
(ほんと、どうしようもねぇクズだ)
カインは、自分の育った場所を、大切に育ててくれた両親を、そばにしてくれた兄妹たちを全部裏切ってしまったのだから。
とうとうやってしまったという大きな感情が時間差をおいて、自責の念と共にのしかかってくる。
だが、そんな今更すぎる良心の呵責をを免罪符にする気はない。表に出そうとも思わない。そんなずるいことだけはしたくなくて、
「おれ、は、」
しかし、言葉が喉の奥でそのまま詰まった。中途半端に声を響かせたカインは、そうしてゆっくりと口を閉じ、歯を噛み締めていた。
互いの呼吸音さえ聞こえそうなほど重く静かな沈黙が場を満たす。




