表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【結】〜人類最初の殺人〜
129/160

18話『もう一度、もう二度と、』

「もう、いい......」



 ぽつりと、震える声が、重々しく響いた。


 その響きは諦観であり、拒絶であり、つまりは、終わりだった。


 はっきりと、告げられた言葉にアベルは跳ねるようにカインと視線を合わせる。




(ああ、なんで......)




 こちらを凝視するカインの暗い金色の瞳

には空虚だけが広がっているのを見て、自分の思いがどこまでも兄に届いていないことを悟った。アベルは全否定されたのだ。


 どうして、なぜ。


















「兄さん......」



 やっとのことで漏れた声は、酷くか細かった。それが、アベルの限界でもあった。


 その小さな呼びかけに呼応するように、地面に張り付けられていたカインの足が、そこで一歩、踏み出される。


 緊迫したこの状況で、もはや誰も口を挟めない。



 ガラン!と道端で転がる鍋が蹴り飛ばされる音が虚しく響く。グシャリ...、と踏み潰されるアワンの料理を、アベルはただ黙って見つめるしかなかった。



 カインが一歩、一歩とアベルへと近づいていく。


「っ、」


 彼がアベルの目の前まで近づいた時には、思わず反射的に構えるが、




(────────!)




 カインの足はアベルの前をすっと、そのままなんの未練もなく横切っていた。瞬時に兄が自分を通り抜いてどこかへ行こうとしているのをアベルは理解した。



「兄さ、」



 思わずアベルは呼びかけるが、カインはそれ以上は何も言う気配もなく背を向けると、足早に、そして徐々に走って遠ざかっていく。




「────ぁ」




 銀髪を揺らして立ち去る背中に、アベルから離れようとする背中に、アベルはその手を伸ばしかけ──下ろした。



 声を掛けることが、できなかった。


 声を掛ければ、さらに冷たい言葉の刃がさらにアベルの胸を突き刺しただろうから。それにもう耐えることができなくて。



(遠い、な)



 まだそれほど離れてもいないのに、アベルにはカインの背がとても遠くに感じられた。今の兄を、アベルは全然知らない。いつもの兄がどこにも、見えない。──まるで、かつてすれ違っていた頃に戻ったようだ。


 やがて砂埃が舞い、ついには遠ざかるカインの姿を覆っていく。


 カインを必死に呼び止めるアワンも、なくきじゃくるアズラを慰めるエバも視界には入らない。アベルはただ、立ち去るカインの背中だけを目に止めていた。




「カイン!」




 その中で唯一父親のアダムだけがカインの後を追った。ドシドシと追いかける足音は重く鳴り響いて、まるでアベルを責め立てているような錯覚に突き落とす。


 それでも、アベルはやはり動かなかった。


 彼は黙って、先ほどカインを引き留めようとした時に上げた手を見た。昔よりも成長したこの手は、今の兄に届かなかった。


 どうにも足に力が入らず、今のアベルには到底兄を追えそうにない。無惨に叩き殺された家畜よりも、無情に台無しにされた料理よりも、この時ばかりは自分の無力さの方が圧倒的な暴力に思えた。



(僕、は──、)



 目を閉じ、手の平を拳にし、自らの額に当てる。否、当てるどころか押し付けるように力を込めた。歯を食いしばってもいるその姿は、まるで何かを悔いているようだった。何かを......、選択を誤ってしてしまった自身を。そして、手を伸ばせば届く距離だったというのに、後一歩のところで止まってしまった自身を。カインの睨むような憎悪の視線を恐いと思ってしまった、自身を。


 


「アベル、兄さま......?」




 アワンはそっとアベルを見上げる。アベルの顔にかかっている陰が酷く重たいことは、アワンにも見て取れた。


 それでも、アワンはアベルのほうへ手を差し出す。微かな希望に縋る想いで。




「行きましょう、」




 絞り出すように言って、アワンはぐっと唇を引き結んだ。そのせいで不機嫌そうな顔になってしまった。声音も厳しいような感じがする。いつもみたいに冷静にはなれなかった。アベルの顔を見ただけでもう泣きそうだった。




「……」





 アベルは目を伏せたまま、答えない。口を一度は開いたが、結局閉じてしまう。





「カイン兄さまを、追いかけましょう」






 アワンは唇を噛んで、大きな声でもう一度言う。


 アベルは相変わらず迷子のような顔をしていて、ただ、顔を上げてアワンをじっと見ていた。


 優しげな瞳は陰っていて、光がない。




「──っ、追いかけるって言ってよっ!!」




 アワンは何も言わないアベルに業を煮やして叫んだ。いつもの丁寧口調も形無しになってしまうほど。その拍子に、たまっていた涙が目尻からぼろぼろと溢れる。




「今までみたいにっ、諦めずにカイン兄さまを追いかけてよ!付き纏ってよ!」




 その場に留まり続けたがるアベルに、アワンは叱咤(しった)する。ここにいてはいけないと、まだやれることがあるはずだと、顔を上げろ、前を向け。


 だが、それは──あれだけカインに罵倒され傷つけられたアベルには──酷すぎる願いだ。アワンがどれだけアベルに無理強いしているのか、彼女自身も重々承知だ。


 なにせアワンはアベルの限界を見た上で、カインを追えと詰めて、アベルの優しさを知った上で、それでもカインを諦めるなと必死な願いを言葉に変えているのだから。


 




「ねぇ、嫌よ…っ、カイン兄さまを見捨てないで......っねぇ、アベル兄さまっ!」




 アワンは懇願した。涙を両手で拭って、それでも不安で堪らなくて、救いを求めるかのようにアベルの服を自分から掴んだ。


 だが、そんなアワンの耳に聴こえたのは今にも消えそうなただ小さな声。




「ごめんね......アワン」



 それは拒絶の言葉だった。アワンはきゅっと伸ばした手を握る。アベルが何を謝っているのかは、さすがにそれを()くことすらのも憚られた。





「......いつも、そうして一人で傷ついているのですね」




 踵を返すアワン。その言葉に反応したアベルはゆっくりと顔をあげた。



 その後ろ姿へアベルは何か言いそうになったが、結局擦れた息しか出ない。アベルはアワンの震える声を聞いているだけだった。




「ごめんなさいっ、知っていたのに、アベル兄さまは充分頑張っていることを、ご自分の心の痛みを殺してまでカイン兄さまと向き合ってくれたことも......っ!」




 そう言いながらも、視界の端に無惨に転がる自分の作った料理から目を背け、アワンは全ての感情を硬直した表情筋の向こう側に隠した。手の指先がずいぶんと冷たい。身体の内側で、何もかもが凍り付いているようで。


 カインに拒まれてしまった、という事実だけが冷たくアワンの心の中に残っている。誰よりも彼を救いたいと願い、一人ではないと証明してあげたかったのに、どうやら余計なことだったようだ。自分なりの愛情表現は彼の心の慰めにもならなかった。──それでも、




「私も、頑張ります......っ」




 最後の言葉は、アベルよりは寧ろ自分に言い聞かせているように思える。そうして、アワンは足早にどこかへ行った。カインを追ったのだろう事はアベルにも分かった。


 



(僕の......痛み?)




 掠れたアワンの声に、ただ胸の奥に渦巻いた違和感に密かに気付いただけだった。アベルは両手を握り締める。


 


(アワン......違うよ。僕は今、目を背けているだけだよ)




 ──父もアワンも、"現在(いま)"を壊さないために走り出したというのに。




(ごめん......アワン)




 アベルはまた心中で繰り返す。アワンが出て行ってから数秒か、数分か。




「──行きなさい。アベル」




 アワンとのやりとり一部始終見守っていたエバは、嗚咽を漏らすアズラの頭を撫でながら、柔らかく諭す。



「…僕は、たくさん傷つけた」





 その声音は震えていた。





「兄さんの苦しみを、知らないで、今日まで、のうのうといつも通りの日常を楽しんでいた」





 空虚で、寂しい声だった。




「今日まで何も気づこうとしていなかった僕に、兄さんを追いかける資格、あるのかな、て、」




 アベルはきつく目を瞑った。その拍子に一滴の涙が零れ落ちていく。途端に彼は焦り顔になり、エバから隠すように顔を伏せる。


 その涙は弱さの証だととっくに気づいていて、けれど克服する術はまだ見つけていなかった。




「でも、後悔はしているのでしょう?なら、これからのために、アベルのしたいことを、すればいいのよ。その後悔を取り戻すために、ね」




 アベルの胸の中の靄が、一瞬で別のものへと変わっていく。弾かれたように顔を上げると、一度顔を俯かせて、うん、と小さく頷いた。


 母の()み入るような言葉が琴線に触れたのか、アベルは固く目をつむる。瞑目する瞼の裏側。その真っ暗な世界に、あの和解した日で見た兄の顔が浮かび──、




『──過去は、後悔は、乗り越えられる』




 一度向き合うことを放棄したアベルにかけられた、かつてのカインの言葉。



(まだ、間に合うのかな......?)




 胸中にこみ上げる感情。瞳の奥が熱くなる感覚に、アベルは一度強く腕で瞼を擦る。そして上げた顔、その瞳にはもう涙の余韻はどこにもない。



(あの和解した日、最後の最後、歩み寄ってくれたのはカイン兄さんの方からだった)



 なら、今度は、今度こそはアベルが──、


 罪悪感で動けなかったアベルの身体がようやく動き出した。──壊れかけている日常を取り戻すために。



「行ってらっしゃい」



 そして、母からの見送りの言葉が引き金となって、アベルは全速で走り出した。不思議なほど迷う事なく、アベルは真っ直ぐカインが走り去った方向を目指していた。




(僕、怯えてるだけだった。また傷つくことが怖かったんだ)




 傷ついているのはみんな一緒だというのに、あれほどの無体(むたい)な扱いをされたアワンですらまだ諦めていないというのに、アベルはまた勝手に諦めようとした。かつてあの崖でそのまま自分の命を見殺しにしようとした時と同じように。




(僕にできることだって、きっとまだ何かあるはずなのに......っ、地面を眺めてるだけだった!)




 ひたすら走り続けていくアベル。その手に滲む汗を無視し、止まる事なく。




(妹の涙を見るまでそれに気づかないなんて、兄として本当に情けないな)




 もう一度また向き合おう、もう二度と悲しいすれ違いがないように。



 涙を流すアワンが見ている希望を、アベルも手繰り寄せたい。───アベルが希望を見れる最後まで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ