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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【結】〜人類最初の殺人〜
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17話『歪んでいるのはお互い様』

 生まれた時から、自分の中の何かが囁く。


 その声は月日を重なる度に大きくなり、それと同調するように、今まで秘めていた「悪意」も膨れ上がっていく。


 気を抜いてしまえば、誰かの不幸を求め、踏み躙り、存在を凌辱することをこの上なく楽しむ。その衝動に支配されそうな自分がいる。もしかしたら、もっと酷いことだってするかもしれない。この悪の欲求が解消されるためならなんだって。


 それが恐ろしく、しかしその甘美な誘惑に抗うたび、泥沼へと沈んでいき、身動きが取れなくなっていくような息苦しさが襲ってくる。




 ──ああ、もういっそ、


 この囁きを受け入れてしまおうか。




















 心底愉快そうな悪意が、そこにあった。


 

 ボキ、バキリ、ゴキリ___!




 生き物を傷つけることになんの躊躇も覚えないというような顔。カインの両手に力が加わる。



「やめなさい、カイン......!」



 目にも当てられない光景にエバの口から嘆願にも似た言葉が飛び出る。しかし、その叫びが届くどころか、カインの笑みはただ濃くなるばかり。



「あ......、ぁ......、」



 アベルは自身の背中に這い寄る悪寒を感じていた。だめだ......、駄目だ!!生き物を蹂躙(じゅうりん)することが悪いのではない。そうじゃない、だけれど、今の兄さんは───!!


 兄を止めなければ。しかしその気持ちは恐怖心に負けてしまった。最早冷静な心は取り戻せない。次から次へと生じる展開に対応しきれない。


 アベルの脳内では、日常でのカインの無愛想な顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消えの繰り返し。兄が兄でなくなってしまうのが何よりも恐ろしかった。



(僕に、できることは、)



 諦めたかのように、アベルがゆっくりと瞼を下ろしていたその時だった。



「カイン!よせッ!!」



 耳を塞ぎたくなる程の残酷な音はアダムの制止によってようやく止んだ。


 あれだけ何かに取り憑かれたかのように羊を叩き殺していたカインも、ガタイの良い父親に力強く羽交い締めされれば、さすがに身動きもとれまい。



「もう、やめろ」



 低く、憤りを含んだアダムの牽制が響く。


 だが、その声とは裏腹にアダムの逞しい腕はまるでいつものカインを取り戻そうとする懇願が込められているようだった。その不均衡が妙に頼りない気がして、アベルは悲しくてどうしようもなかった。



 静寂の中、風が吹く。


 鼓動はなおも早いまま、未だ、落ち着きを払える余裕はなかった。



 沈黙。



 カランッ.....、


 音を立てて、地面に農具の(くわ)が落ちた。それはすなわち凶器がカインの手から解放された音。


 そこからカインはまるで糸が切れたからのようにアダムに拘束されたままぐったりしていた。深く項垂れた顔から表情が確認できない。



「親父、放せ......」



 カインは無言で身体を力なく(よじ)る。それが抵抗ではないと察したアダムは思わず拘束を解いてしまった。あれほどの剣幕で暴れ回ったカインの突然の変化に困惑しながら。




「カイン、にいさま......?」



 全く動かないカインに心配そうに声をかけるアワン。それに呼応するかのように緩慢な動きでカインは顔を上げた。しかし、その空虚な瞳が映る先は、ただただアベルだった。


 アベルもゆっくりとカインに視線を合わせた瞬間、息を呑んだのはきっと間違いではないだろう。




(......兄さん......)




 兄を呼ぶ声は、実際の声にはならなかった。カインの瞳は酷く暗い。それが、アベルの瞳には、かつて自分たち兄弟にあった確執の暗闇以上に見えた。




(どうして、そんな目をするの?)




 カインの瞳に宿ったのは敵意──憎悪で歪む視線。家族に向けるそれとは全く違う。アベルは呆然とした面持ちでカインを見つめる。




「兄さん......、どうして、こんなことを......?」

 



 結局考えに考えて、アベルには芽生える困惑を吐露するしかなかった。




「・・・俺はかつてお前に忠告したはずだ、」




  「『次またやらかしたら殺す』」




 目の前のカインの声に、昔のカインの同じ言葉が重なる。




「......ぁ、」




 カインの今の発言で思い出したのは、アベルの過失により最後にカインの畑を荒らしてしまった十年前のことだった。




 

『あはは......さすがに今は冗談に聞こえないや』


『ああ。本気だからな。また俺の畑を荒らしてみろ、次は容赦しない。その時は泣くなよ』


『うん。本当にごめんね。それは勘弁だから気をつけるね』




 どこかで確実に聞いた会話がフラッシュバックする。


 当時は冗談だと思った。兄はそう言う軽口を叩くような人間じゃないと知っていたはずなのに。




「でも、だからって......っ、」




 だとしても、まさか十年もの時を超えて、しかもこのような悲惨な形で有言実行をされるとは誰が予想できようか。


 いや、違う。きっと、それだけじゃないはずだ。




「本当に、それだけの理由で......?」



 やはり、建前としか思えないカインの言い分に、アベルはいまいち納得いかないといった様子で顎を引く。その瞳は、カインの感情を見透かそうとする。


 カインの狂気の真相を、探ろうとする。


 ────しかし、それがいけなかった。




「・・・・・・それだけ、だと?」


 

 カインのこめかみに青筋が走る。視界が真っ赤に染まり、ぶつけられる軽率な発言に脳神経が燃え上がった。




「この土地は俺が耕した土地だッ!!」




 無神経としか思えない言葉をよこす愚弟に怒りが爆発する。




「お前の羊どもは放っても勝手に育つが、俺の畑は俺の手で耕した、一から最後まで育てなければならん!!人の苦労も知らないで、勝手に決めつけて好き勝手なこと言うんじゃねぇよ!この愚図がァ!!」




 いまだかつてない恐ろしい剣幕。怒涛(どとう)のように言葉を(たた)みかけられて、アベルは何も言えずに押し黙る。突きつけられた兄の本心があまりにも衝撃的で、すべてが頭の中から吹き飛んでいたからだ。


 しっかりと二人の視線が交差したのは果たして数十秒だったのか、一瞬だったのか。わからないまま、やがてカインは俯いて目を伏せた。そして、小さく口を開けた。





「............俺は、選ばれなかった」


「え.....、」




 消えそうな声だ。だが確かにアベルに届いた。


 悲憤(ひふん)を放っている瞳も、アベルに突き刺さっていた。



「あの日、お前は喜んで選ばれたのに、俺だけが、拒否された」



 なんの脈絡もないセリフに一瞬だけアベルは僅かに目を逸らすも、すぐに祭祀のことを言及しているのだと合点がいった。


 周りの家族も対立する二人の兄弟を取り巻く不穏な空気を懸念して、咄嗟に二人の元に走ろうとしたが、アベルがそれを見て、小さく首を振った。 これは自分たちの問題なのだと、その仕草一つで全員の足はそこに縫い付けられる。


 カインは続けて語る。



「敗因は嫌でもわかる。あの時、自分の正しさを信じて、お前の親切な忠告を無視したからだ」




『血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない』




 ──祭祀の前日に語られたアベルの言葉が脳裏に甦る。礼拝には何が必要で、何が大切なのか、アベルがカインに教えたセリフ。




「フン。結果がこのザマだ。最後に神は、おまえを選んだ。とんだ茶番さ。結局何もかもがお前の言った通りだったってわけだ」




 皮肉にも聞こえる口調の中にどこか羨むような響きを、アベルは感じた。




「──ああ。認めるとも。俺の、負けだ」




 何が「正しい」のか。当初は心底バカげていると偏執的に決めつけていた──アベルが模範(もはん)とする思想を結論とするしかなかった。





「笑えるものだ......!たかが血の犠牲をっ!あんな正気とも思えない血生臭い風習を怠っただけで!俺のこれまで築き上げてきたすべてを簡単に全否定されたのだぞ!?」





 ──だが、理解は決して、納得を意味しない。「受け止める」ことはできても、「受け入れる」ことはできないのだ。



 カインの悲痛な叫びは、これまで自分のやってきたことへの疑問だった。


 血が吐くような努力をしてきた。


 《神の豊穣(カリスマ)》に慢心せず、懸命に努力を重ねてきた。




「なのに!ドジで不器用、よりにもよってこの俺よりも劣るはずのお前が神に選ばれた!」




 それはつまり、アベルの価値はカインより上だという証明に他ならない。


 ──とんだ、逆転劇だ!




「こんなのはエコ贔屓だ!神の()()としか考えられないではないか!」



 それは、神への強い不信感を表す、決定的な一言だった。


 報われることのなかった失意が、承認を求める虚栄心が、神に愛されることを願う利己心が、混迷の極みにあるカインをそう導いたのだ。


 勢いに任せて、感情の奔流に押し流されて、嘲笑と共に言ってはならないことを吐き捨てたカインに、アベルは思わず首を振る。




「兄さん!それは神への不敬だよ。我が主はいついかなる時でも公平なるお方で、そもそも兄さんの供物に目を留めなかったのも、礼拝のやり方が不正解なだけで、何も兄さんのことを拒絶したわけじゃないよ!」



 カインの捧げた祭祀は結果的に神の習わしを度外視した従順のないものであり、神への真実の欠けた礼拝だった。


 神はカインに、従順と真実を求めたからこそ彼の供物を受け入れなかったにすぎない。神の拒絶は、決してカイン自身への拒絶ではないとアベルは訴える。あくまでカインの誤った礼拝方式を拒絶されただけなのだ。


 だから悲観なんてする必要はない。


 次の祭祀でカインが悔い改めて正しい祭祀を捧げたら、神はきっと、今度こそ彼の祭祀をも受け入れてくださったはず。次にやり直せばいい。アベルはカインにそんな正しい未来を求めたが──、




「結果は同じだろ!?神はお前だけを選んだ!俺に不服従の代償を押し付けて、おまえにだけ祝福を授け、恩恵を与えた!!」




 カインはアベルの諭しを遮って叫ぶ。


 今の彼にとって「未来」のことなど瑣末なこと。カインの暗き視野には常に「過去」がもたらした現実(いま)を固執していた。


 




「今や神が贔屓(ひいき)して、愛しておられるのはおまえだ!!祭祀を誤ってしまった無様な俺のことなど眼中にないだろうよ!!」


「それは違うよ!兄さん!我が主は慈悲深きお方だ!一度きりの過ちを犯した者でも簡単には見捨てないよ!」


「じゃあッ!なんで俺の作物がうまくいかない!?いくら丹精して育てても収穫がどんどん減っているのだ!?」


「っ、それは──っ、」




 手のひらを広げて反論するカインの言葉にアベルは言葉に詰まる。理論でカインを説得しようとする思考は、彼から伝わり来る激しい感情の波に呑まれて遠ざかっていった。


 結果的にカインの農業が衰退していくという事実に変わりはないからだ。そこにどういった理由があり、どういった思いがあっても、事実は変わらない。 だから、言葉ではそれを否定できない。カインが抱える怒りと悲しみは、本物だった。それをこれ以上理屈だけで押し流すことなど、アベルには到底できぬことであった。





「満足か?神が愛したのはまごうことなくおまえだ。それは変わらない!」




 現実に失望し、状況に絶望し、未来に諦観を抱いたカインの心はもうとっくに折れ砕けてしまっている。


 今はもう、ただその残滓がみっともなく悪あがきを続けているだけだ。


 



「だが、それでもおまえは、──俺から全部奪ってくんだな」




 そこでカインは地面に朽ち果てる無惨な羊の亡骸を一瞥して、次に先ほど危うくその羊に荒らされかけた畑に視線を落とす。


 カインにとってあの数少ない実りの畑は唯一の心の拠り所。縋れる希望だった。事故とはいえ、未遂とはいえ、アベルは間接的にそれを摘み取ろうとしたのだ。




「俺のなけなしの成果すらも、お前は全部根こそぎ奪っていく......ククク、」





 カインの笑い声が、響く。


 それは泣いているようにも聞こえて、そこでアベルはようやく、ああ、ようやくその意味を理解して耳を塞ぎたくなった。


 兄の狂気に拍車をかけたのは、他のだれでもない、自分()だったのだと、




「違う、よ。僕はっ、」




 どうしてもやり切れず、絞り出すようにアベルは反論する。



 兄から道を奪うつもりなんてなかった。


 こんなことになってしまうくらいなら、神の祝福も恩恵も、栄光なんていらなかった。


 ただ、敬愛する兄と対等に、同じ場所に立ってみたかった。



 しかし、


 


「黙れよッ!!」



 それは到底ドン底に沈むカインには届かない言葉だったのだろう。弁解しようとするアベルの切実な悲しみは無慈悲に遮られる。





「そういう気休めも!綺麗事も!もうたくさんだッッ!!」



 

 異常ともいえる剣幕にいよいよ恐怖を覚えて、アベルは後ずさる。アベルのそうした行動を気にとめるそぶりさえなく、カインは未だにぶつぶつと何事か呟いている。


 そんな変わり果てた兄に対し、アベルは最後に勇気を出して息を吸った。




「──結果がないと、認められないの?認められらければ価値がないの?」




 アベルが実力によって神に認められる一方で、自分が認められていないと、すなわち、自分はアベルに劣っていると評価された、と語ったカインは、酷く寂しそうだった。


 努力したという事実があるのに、これまでの家族への貢献も功績もきちんと残されているのに、たまたま一度の結果が掴めなかっただけで、すべてをなかったことのように決めつけるのは、




「──そんなの、おかしいよ!!」




 悲鳴のようなアベルの科白に、アダムたちは目を丸くする。カインもアベルを凝視する。


 アベルは進んで他人に意見できるような性格ではなかった。


 誰かと衝突をするくらいなら、自分の意見を飲み込む選択をしてしまう、そんな同調的で、温厚で気も強くないアベル。




「兄さんに価値がないとか、ボクに劣ってるとか、そんなこと全然ないよ!!そうやって自分を一番傷つけているのはカイン兄さんじゃないか!」




 それが、徐々に変わりつつある。




「一度や我が主から認められなくても、畑仕事が上手くいかなくても、兄さんが優秀なのは変わりないし、ボクの憧れの兄さんなのが変わらないんだよ!」



 アベルとエバからしてみればそれは驚きではあるが、成長と思われた。「意志がはっきりし始めた」ということなのだ。


 しかし、カインにとっては、心穏やかに受け取れるものではなかった。




「やめろ、」






 絞り出すように、カインは声を出す。






「兄さん?」





 何も見たくない。何も聞きたくない。


 アベルの心の余裕や成長を、カインは今一番知りたくなかった。


 



「──もう、いい」

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