16話『崩壊へのカウントダウン』★
幸せは当然壊れ、
日常は前触れもなく失われる。
誰もが明日も続くと無根拠に信じる平穏は呆気なく消え去り、失ってから価値に気付くのだ。
消えることのない憎悪が、失われることのない絶望が、カインの胸の中に巣食っている。
それがただの嫉妬心であったとしても、カインに、この感情を捨てることは不可能だった。
良心では、弟自身にはなんの咎もないことをカインは理解している。理性では自分自身の過ちを認識していた。ただ、感情の部分でそれらを納得し切れない自分がいるのも事実だった。
アベルが悪いわけではない。しかし、兄を差し置いて神の祝福を独占する点を軽視できるほどカインは達観してなかったし、その事実に蓋をできるほどの余裕があるわけでもなかった。
「カイン。お前はこのままでいいのか」
アベルたちに注いでいた視線がまた再び自分へ注がれるのをカインは感じた。気遣わしげなアダムの呼びかけに、どう返答したらいいのかわからず、カインもまた農作業を続行する。
「家にはほとんど帰らない。食事もろくにとらない。その状態で毎日がむしゃらに畑仕事をこなすのはどう考えてもお前にとっていい影響が出るとは到底思えないのだ」
あんな家にいては息が詰まるではないかとカインは内心悪態をついた。
神に拒絶された日以来カインの心は歩みを止めたきり、ただ課せられた務めのためだけに惰性で思考と身体を動かしているに過ぎなかった。
そんなカインを腫れ物に触るように接する家族の中に四六時中置かれていては、余計に気が滅入って仕方がない。だから、気がつけばカインは自分のテリトリ─とも言える畑に身を置くようになり、自分の畑付近で建てられた本来は倉庫用の小屋で寝泊まりすることだって少なくはない。
だが、カインは心のどこかで父の言葉は一理あると受け止めていた。
(確かに、このままでいいわけがない)
──だが、どうしようもないではないかと、半ば自暴自棄にもなる。
誰が見ての通り、アベルの牧畜が常に多産であるのに対して、カインの農業は豊作に恵まれなくなった。むしろ不作の日々がずっと続いているのだ。
こうして一生懸命に耕す土から芽が出たとしても、まるで何か妨害する力が働いたかのように徐々に萎れて枯れてしまう。かと言ってそれらの苦難を乗り越えて実った作物とて出来具合は芳しくない。
祭祀の結果とはいえ、神から二人への祝福の結果の大きすぎる違いは、このように目に見える形で現実として突きつけられた。
「そう難しく考えることはない。アベルを見習って、お前もカリスマの力を使えばいいのだ」
「それだけは、断る」
「なぜだ。今までだって必要緊急時には《神の豊穣》を使ってきたではないか。今更そんな意地を張ってなんの意味がある」
こんな状況でなお自分の力に固執するカインに、アダムは心底理解不能と言わんばかりの態度を示す。
確かに《神の豊穣》自体カリスマ性が衰えたわけではないため、その力さえ使えば、今この神の呪いとすら思える苦難を打破できるのだろう。
だが、カインにだってプライドというものがある。
(この状況で神の力に頼るなど断じて認めない)
神の祝福とも言える人外なる力──カリスマに甘受するということは、カインにとっては身も心も神に屈するということだ。
(神の力がなくとも、自分の力だけで成果を出せることを証明してやる)
カインは今でも不服だった。カインを不義だと糾弾する神を今も受け入れずにいる。これは神を思い知らせてやるというカインの反骨心なのだから。
それからしばらく、親子の不毛な睨み合いが続いた。互いに理解していたのだ。そこにどんな理由があろうとも、相手の意思を尊重するのは難しいということを。
彼らがあまりに真剣だったせいで、軽やかに近付いてくる足音に気づけなかった。はっと我に返ったのは、穏やかな掛け声が響いたときだった。
「お父さん!兄さん!何をしているの?」
その声がカインの耳朶を打ち、錆びて金色の瞳はじろりと声の声の方向へ睨んでいた。
その先にはがアベルが突っ立っていた。
「お父さん!今日の狩りは終わったの?」
そうしたアベルはまず第一に父が目につき、と首を傾げる。振り返ったアダムは爽やかに笑う。「おおとも!アベルは今日も絶好調だな」と言えば、アベルは照れくさそうに、ぐにゃりと笑った。
それだけのことが、更にカインの感情を高ぶらせる。
しばらくアダムとアベルの親子が談笑する空間で、自分の胸に噴き上がる苛立ちの音を聞いていた。
「カイン兄さんも、なんだか久しぶりだね」
「まだ放牧中だろ。お前」
挨拶の代わりに落ちたのは、ひどく短い冷たいため息だった。そんなカインの態度にアベルは一瞬だけ戸惑ったような顔をするも、すぐに意味もなくへらりと軽い笑みを浮かべた。
カインとは裏腹に、一見アベルは気まずさなど一つも感じていないらしい。それがまたカインの癪に障るのだと知らずに。
「あ、うん。兄さんとお父さんが見えたからね」
「それで羊どもと妹を置き去りに、わざわざここへ駆けつけてきたのか?」
「まぁその......、兄さんとは随分と会ってないし、だってほら、兄さんってばずっと家に、」
しかし、その先を声に乗せるのはさすがにばつが悪く、アベルはすぐに唇を横一文字に結ぶ。そこで助け舟を出したのはアダムだった。
「がはは!確かにカインは家に帰らないからな。こうしてお前たち兄弟二人が言葉を交わすのを見るのは、わしとしても実に久しぶりだ」
今のカインはほぼ一日中畑で農作業に没頭するため、必然にアベルと言葉を交わす機会がほとんどない。もっともそんな機会があったとしても、アベルに一歩踏み出すことを許させない、そんな威圧感をカインは常に醸し出していた。だから、結局二人は話ができていない上に、時間が経つごとに近寄り難くなっている。
しかし、今日偶然放牧中にカインの畑を 通り掛かったアベルは、父も同伴するこの場を千載一遇の好機として捉え、放牧を抜け出してまで兄の様子を見に来たのだろう。
現にアベルの後ろから、「アベルお兄ちゃ〜ん!待ってよ〜!」とアズラと羊の群れが時間差で遅れてやってきた。それを横目に、カインは単刀直入に尋ねた。
「それで?何しに来た」
「ん?大した用事とかじゃないんだけど」
何の警戒心もない、柔らかな笑み。
昔から変わりない無邪気な表情。
弟の普段通りな態度が余計にカインの内心に募る苛つきを増幅させる。
これほどやさぐれてしまった兄に対し、接し方を変えない弟のあり方が実に理解できないのだ。その内情なんて気づくはずもないアベルはいつも通り親しげに尋ねる。
「いろいろとその、心配だったから、.....祭祀からいろいろあったし、兄さんは元気にしてた?」
心配、されたのか、
それすらも、カインには不快に思えた。
きっとアベルに悪意はない。けれど、無垢なる善意が最良の結果を呼ぶとは限らない。
カインはアベルの気遣いを憐れみと受け取った。弟が自分を下に見ているような、そんな気分だった。そして、自分を気に掛けてくれる弟の余裕すらも、今のカインにとってはやさしさではなく焦燥の原因だった。
こちらは余裕がなくなるほどに焦り、苦しんでいるのに、アベルはまったく焦っていない。
むしろ弟に前はあった劣等感や諦めが影を潜め、焦りが徐々になくなっているようにすら思える。
カインが焦る中で、アベルはどんどん落ち着いていく。実力をつけていく。
敏感なカインは、そのことを誰よりも明確に感じていた。
(ああ、疎ましい)
カインの表情が僅かに変わったのをアダムは気がついた。見逃してもおかしくないくらいの小さな変化だった。
だが垣間見えたのは一瞬だけで、もういつもの表情へと戻っていた。カインの虚ろな瞳が細められている。
「ああ。おかげさまで俺は元気だ。──これで満足か?」
どこか嫌味を感じさせる素っ気ない態度でやり過ごし、カインはすぐにアベルに背を向ける。
(わかっている。こんなのただの僻みだ)
自覚がある分、自らの器の小ささに嫌悪する。波立ちかける心を培ってきた理性で押し殺した。
「これで用が済んだのなら、さっさと羊を引き連れて帰れ」
そういうや否や、カインはアベルに背を向けて農耕の続きを始めた。アベルとの会話を一刻も早く切り上げようとしているのはのは火を見るよりも明らかだった。
「兄さ、」
露骨なほど距離を置きたがる兄の姿勢にアベルが途方にくれていたそのとき、「あらあら」とのんびりと不釣り合いな声が割り込んできた。全員の双眸が右方へ転じれば、小さな黒い鍋を両手にゆっくりと歩いてくるアワンとそれに同伴するエバの姿を見る。
「カイン一人かと思ったけれど、案外みんな揃っているのね」
「エバ!どうしてここへ.....?」
「うふふ。カインにね、差し入れを持ってきたのよ」
そう言ったと同時に、エバはアワンが抱え持つ真っ黒な小さな鍋を覆う木の蓋を持ち上げる。自ずとカイン以外が一斉に鍋の中身を見た。
「これは......!差し入れにしては豪勢だな」
「わぁ!すご─い!今日は“ごちそうの日”だっけ?」
「美味しそうだね」
鍋の中には肉がごっろごろ。白いス─プと一緒にしっかりと煮込まれているようだ。
「家からここまで結構時間かかるから、さすがに出来立て熱々とまでは行かないけれど、」
それでもわずかに湯気の立つ肉からは、ほのかに塩に近い香りが漂ってきていて、ちょうど空腹の胃袋を大いに刺激し、期待と高揚感で喝采させることだろう。そこで、
「この匂い......」
鍋からの漂う香りに独特なケモノ臭が混じっていることに気づいたカインがようやく言葉を漏らす。
「ええ。お察しの通り。これはラム肉よ。チーズと一緒にじっくり煮込んだの。カイン。あなたが畑にこもる間は、まともな食事ができていないのでしょう?」
エバはいつも通りやさしくも、すべてを見透かしたような笑顔をカインに向けてくる。そこで横からアダムが覗き込んでくる。
「ほほう〜!なるほど。肉はアベルの家畜を使ったのか」
「お父さんが調達した野生動物はもう品切れなの。すぐにでも用意できるお肉と言えば家畜だし、たまにはいいと思ってね」
山羊や羊などの家畜は主に乳や毛皮等を採るためのものなので、祭祀の奉納やよほどのことがない限りは屠殺などはしない。
それでも、カインに精をつけてもらおうと、滅多にない「ご馳走の日」を設けて肉料理を作り、二人はわざわざ家からカインの畑まで訪れてくれたのだ。
「アワンがね、そんなあなたのことをずっと心配していたのよ?この差し入れも全部この子が一から作ったのだから」
多少なりの緊張感こそ残っているが、エバのフォローにはいい意味でアワンを後押しする結果となっていた。アワンは目を伏せて、ゆっくりとカインの眼前まで歩み寄る。
「あ、あの......カイン兄様。その、味が決して悪くはないと思います。よかったら食べてみてください」
アワンは慎ましく鍋を差し出す一方で、ほんのわずかな期待を抱いた彼女の心臓が軽やかなステップを踏み始めている。頬に羞恥の朱が差しているアワンは誰がみてもとても愛らしかった。
しかし、カインはそんな健気な妹よりも、彼女の手にある鍋の中身に釘付けだった。それは食欲と空腹による生理現象による行動ではない。もっと複雑で、歪な心理によるものだった。
(野菜が、ない)
カインの農業の成果が一つたりともその鍋の中身に姿を見せない。当然のことだ。不作に陥ってから、カインの実りの成果が著しく減り、必然と家族の食卓に出ることも日に日に少なくなった。
それこそカインの作物がなおさら当てにならない厳しい冬の時期には、さすがに食料不足に困っていたが、そういう時に栄養分と水分をそのまま同時に提供できる豊富な乳を取らせてくれる──アベルの家畜の存在は家族からは貴重な食料源としてありがたがられる。
そう。実に認めたくないが、カインが神の祝福を失ってから、アベルの牧畜は本格的に再生可能な供給源として、厳しい環境で生き抜く家族を支えてきたのだ。
今だってそうだ。
この鍋に沈む柔らかそうなラム肉はアベルの牧畜の成果。
その肉にどろりと絡む濃厚なチーズもアベルの牧畜の成果。
カインへの差し入れの料理は、すべて弟の牧畜によってもたらす食材が重宝されていたのだ。──その不愉快な事実が今、可視化な状態で突きつけられた気分だ。
(これは、俺への当てつけか!)
慢性的な空腹と落胆が被害妄想に近い最大限のネガティブ思考を引っぱり出してくる。
「カイン兄様?」
いつもと変わらない笑顔でそれを渡そうとする。───しかし、それに対してのカインの行動は、誰にとっても予期せぬ行動だった。
ガシャン__!!!
「!?」
アワンが差し出した料理を、カインの手が鍋ごとはね除けたのだ。
「コラ!なにをやってんだ!?カイン!」
「大変!アワン!怪我ない!?」
地面に衝突してひっくり返る鍋にぎょっとするアダムとエバ。目を見開いたまま硬直するアワン。アズラは信じられないと言わんばかりに怒りで下唇を噛む。
「この俺を労ったつもりか。今更どういうつもりかしらねぇが、余計なことしやがって、バカにするのも大概にしろ」
「そ、そんな、......!違いますっ!」
短時間の間に起こった急激な展開に、今までにない想い人からの睥睨に、アワンは感情も精神も神経もついてゆけない。怯えとショックで涙目になっている自覚もあったが、それを取り繕うこといつもの冷静さは今の彼女にはない。
「バカにするつもりなんてっ、わたしはただ、兄さまに元気づけたくて、」
「黙れ!!それが大きなお世話だって言っているのだ!!」
理不尽としか思えないアワンへの扱いをさすがに看過できず、耐え切れなくなったアベルは一歩踏み出す。
「兄さん......ッ!」
いつになく苦渋で歪んだ目をカインに向けている。珍しく憤りを含めた当惑がこの時のアベルを支配していた。
「なんだ。何か文句でもあるのか」
心底鬱陶しそうにじろりと睨まれるアベルは何か言おうと口を開こうとしたが、言葉が見つからなかったのか、そのまま口を噤んだ。かわりにアベルが言うことの出来なかった言葉を、アズラが口にする。
「文句しかないよ!せっかくアワンお姉ちゃんが丹精こめて作ってくれた料理なのに!こんなのってないよ!」
ひどい!とアワンの気持ちに寄り添い、酷い!とカインを非難する末妹の悲痛な声が空高く響き渡った。
それに刺激されて引き金となったのか、この異常とも言える不穏な空気に反応したのか、羊の群れにも変異が起こった。
メェェエエーーーッ!
群れの中から羊が一匹が飛び出した。
「あっ、そっちはだめっ!戻って!」
先に異変に気づいたアベルの引き留めようとする焦燥に満ちた声音がうわんと響く。
その個体はまるで吸い込まれるように一直線にある方向へ突進する。その進路先を辿れば、──多少萎れても、なんとか実りに至ったカインの数少ない成功作が栽培された畑だった。
ドクン、とカインの心臓が跳ねる。
(ああ!憎らしい!!)
今となっては希少となるその実りこそがカインに残された最後の希望だと言うのに。それすらも蹂躙して無慈悲に取り上げる気か。どこまでカインから奪えば気が済むのか。
その考えが、カインの腹の底にどろりとどす黒い汚泥が急速に吹き溜めていく。おぞましい泥はカインの体中を埋め尽くし、その重みに心が冷めていく。代わりにちりちりと目の奥が熱くなり、暗い感情の導火線に火が付く。
それを人は敵意、害意、悪意――あるいは、「殺意」と呼ぶかもしれない。
「お、おい!アベル止めろ!」
「だめだ。今からだと、ま、間に合わない!」
従順でおとなしい羊の突然の暴走──あまりにも突然に想定外の事態に、飼い主のアベルを含め、その場の誰もが遅れをとる。
───ただし、畑の持ち主であるカイン以外では。
(俺の畑を荒らす者に──制裁を!)
瞬間、カインの意思はあらゆる事柄を無視して手に持つ鍬を振り下ろす動作に凝縮された。
自分の最後の尊厳を奪いかねない──近くまで迫る不届き者に対して、カインは一切の躊躇なく渾身の力で叩き込む。
グシャアァッ!!!
重い手ごたえと共に当たった鍬の先端、鋭い刃の部分が羊の頭にめり込む。そのまま羊はビクビクと痙攣しながら倒れてしまう。
「────」
しかし、カインの凶行はそれでは収まらない。無言のまま倒れた羊に再び鍬を何度も振り下ろしとどめを刺す。
骨が砕ける音。
飛び散る血の飛沫。
家畜の断末魔。
そして、
「きゃぁあああああっ!?」
劈くようなやかましい悲鳴と、慌てて近づいてくる足音が、カインの耳の奥で不協和音のようにいびつに重なり合って響いた。




