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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【結】〜人類最初の殺人〜
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15話『女たちの憂鬱』


「わかってはいるのよ。いつかきっとギクシャクするって」





 エバは食卓のテーブルに肘をついて、悩ましげに息をつく。





「わかってるって、何がですか?」




 アワンはその向かい側の椅子に座って、首を傾げて母に尋ねた。十年の時が流れて、アワンもまた大人の麗しさを湛えた華やかな顔立ちへと変貌を遂げていた。


 ちなみに、二人とも母娘共に家業を一通りを終えて今は休憩の時間となっている。


 エバは考え込むように目をつむり、きっかり五秒後に瞳を開くと、その目は屋外の窓へ向けられている。




「カインのコンプレックスよ。いつかは表面化するって思うの」




 艶やかな声で呟くエバはしかし、ひどく心配そうな表情で窓越しに外を見つめる。

















「どういう、ことですか?」





 初めて聞く話に、アワンは目を丸くする。思ったよりも、随分と掠れた声が出た。




「アワンは、祭祀でカインが礼拝を失敗させちゃったことは知っているでしょう?」


「えぇ......まぁ」




 数ヶ月前に行われた祭祀で、カインはきっと大きな焦燥と絶望を味わった。


 これまでは、精神的にも能力的にも未熟だったアベルをどこか潜在的に見下していたカインはきっと己こそが最高な礼拝を捧げられると自負していたことだろう。 


 しかし、結果は悲惨な形としてカインの期待を裏切った。


 優秀だった兄よりも、頼りなかった弟の方が評価された──そういう自尊心の傷つきが、遅かれ早かれアベルとの衝突する原因となるのだ。




「カインはね、認められたかったのよね」


「そんな......!認めるって、父様も母様も、この家族みんながカイン兄様を認めているではありませんか!私だって──」




 どこか感情的だったアワンが急に言葉尻を弱くして急に黙り込んだ。続きを言う気はないらしい長女に何かを察したらしいエバは小さく笑って、言葉を続けた。




()()、認められたのかが問題なのよ」




 我ら偉大で崇高なる「神」という絶対的な価値基準の前で、認められし者の存在価値もきっと絶対かつ揺るぎないもの。そんな一種の固定観念はこの時代を生きる人類の意識に深く根づいている。


 しかし、カインの場合は、人並み以上に己の価値に執着しており、生きている意味がまさにそこにあると考えているようだ。神に認められることこそ自分がこの世界に生を受けた意味なのだと、いつしか「神に認められなければ」というもはや強迫観念に近い焦燥に支配されている。




「だから、きっとすごくショックだったと思うわ」


「今まで散々世話を焼いてきたアベル兄様に我が主の評価を取られちゃった、からですか?」


「まぁ、そんなところかしらね」



 

 神に選ばれなかった自分は劣った存在として低く評価された。主観的なレベルでいえば、己の全存在を否定されたような苦境にカインが陥ったことは想像に難くない。


 選ばれなかった疎外感。

 (ないがし)ろにされたような屈辱感。

 神の評価を得られない自身への失望感。




 今でもカインは「どうせ自分なんか価値のない、どうでもいい存在なんだ」と自暴自棄になり、さまざまな負の感情に押し潰されそうになっているにだろう。




「カインの気持ちがまったくわからないわけではないわ」




 エバにだってかつては「女」としてのコンプレックスで苦しんでいた時期はあった。


 だが、それが上手い具合に昇華できたのは当時受け止めてくれた懐深いアダムのおかげと、幸いにもその嫉妬心を直接ぶつける相手がいなかったからだ。


 しかし、カインのように嫉妬の対象が常日頃身近に存在する場合はどうだろうか。どれだけ負の感情を抑えようとも、それをぶつけられる相手が常に目の前に存在すれば、日々その衝動に抗うのは大変精神を蝕むものだ。




「カインもね、ちゃんと苦しんでいるのよ。今でも、すごくね」




 エバは金色の瞳に聡明な思案を宿らせる。鮮やかな色合いを魅せる瞳は、穏やかに、しかし正確に真実を見抜く。


 アワンはここ最近のカインの挙動を思い出す。


 礼拝を失敗させて以来カインはまた再び単独行動が増えるようになった。アワンが一度気に掛けて声を掛けても、彼から帰ってくる返事は「お前が心配することはない」の一点張り。そのうち徐々に食事や寝泊りすらも畑の周辺のテントになって、家族との関わりを極力避ける傾向が見られる。


 そして、頭を抱えることがもう一つ。




「アベルのこと、ですよね」


「どう接したらいいのか、またわからなくなっちゃったのかもしれないわね」




 殊更(ことさら)に弟のアベルに対して、カインはここ数ヶ月間は徹底的に避けていた──その既視感のある排他的行動は、またかつてのような兄弟間の軋轢(あつれき)を想起させる。




「なんだか、あのお二人また逆戻りしてしまった感じがしますね」




 頭の中は十年前の記憶と当時以上のやるせ無い思いでいっぱいだった。あの時アワンに見せたアベルの悲しみと嘆きが今でも脳裏に過ぎる。




「カインも今の自分と向き合うことに、精一杯なのよ」




 なかなか作物が実らない焦燥。


 実っても、すぐにやせ細っていく作物を見るたびの絶望。


 そんな置かれる苦境に苛まれる一方で、めでたく神の祝福を授かり順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な生活を享受するアベルがさぞかし妬ましいのだろう。




 

「つまりは、その、カイン兄様は今.....、アベル兄様に対して.....、」


「嫉妬と、強い敵対心を持っていても、おかしくはないでしょうね」




 己の胸の手を当てて、俯くエバの言葉がアワンの鼓膜を震わせる。

 

 悲しいなあ、とアワンは誰ともなしに胸の内で何度も呟く。きっと、とても悲しい。カインも、アベルも。こんなもの、誰も報われない。誰も救われない。




「私にも何ができればいいのですが、」


「こればかりは二人の問題ね」




 端的な母の結論に、アワンは肩を落とす。




「なんだが、一緒に生まれ育ったのに、二人の兄たちがすごく遠い存在に思えてきます......」




 今年で成人ととなる長男、カインは、威圧感のある仏頂面がすっかり板についてきて、声もうんと低くなった。次男のアベルの方は、性格の穏やかさや鈍さこそ健在だが、かつてアワンが手を伸ばせば頭に届くほどだった身長も、今やぐんぐんと伸びて、一歳差しかないアワンとは並べば頭一個分くらいの差が生まれていた。


 男の人は、何だか別人みたいに変わるものだと、アワンは兄たちの成長を一番近くで見守っていた。





「女の私が置いて行かれるのは慣れているはずなのに、」




 今では、カインとアベルは互いを強く意識している。そこにアワンはどうしても入れないのだ。とはいえ、同じ血をかけたキョウダイなのに、仲間外れにされているとは微塵(みじん)にも思わない。




「それでも、何もできないことが、......すごく、もどかしいです」




 アワンがどれだけ強い想いを抱こうとも、アワンが二人を仲裁(ちゅうさい)する事は叶わず、長男と次男の緩衝材(かんしょうざい)にもなれはしない。


 カインの心は既に他人がどうにかできるものではないのだから。それができるのは、本人たちのみであるということを、アワンは悟っていた。


 ましてや、カインとアベルの二人は男で、アワンは女だから自然とそういう図になってしまうのは仕方がないことだとも割り切ってはいる。今となってはかつてのような幼きヤキモチこそはしないものの、やはり少々の寂しさは否めない。






「うふふ。アワンはお兄さんたちのことが、特にカインが大好きで仕方ないのね、だから何かしてあげたい。そうよね?」




 くすくすと微笑ましいと言わんばかりにエバは穏やかに笑えば、アワンは自分の頬が熱くなるのを感じた。


 火がついたように熱い。つい反射的に両手で手で咄嗟に顔を隠した。到底隠し切れるものではなかったが、この顔を見せるのはとても恥ずかしかった。




「我が娘ながらとっても可愛らしいわ〜そんな健気なアワンにも、少なからずにできることもあると思うわよ」


「私にも?」




 茶めっぽくも少し意味深げな声で言われたアワンは思い当たることがなく首を傾げる。


 しかし、次に発せられる母の提案に虚を突かれた様子で何度も瞬きを繰り返し、やがて尻すぼみに消えていく内気な言葉を漏らす。





「そんなことで、いいのでしょうか......」


「もうただ見守るだけでは、そろそろ物足りなくなっちゃったのでしょう?」





 エバが「ね?」と優しく微笑みかける。

するとアワンは「……はい」と小さくとも頷き、不意に窓越しの空を見上げた。





「......戻れる.....のかな」





 小さな呟き。


 それに答えられる者は誰もいない。



 アワンは早速にも支度(したく)をしようと、エバと一緒に台所へ向かった。




 ──先ほどまで確かに差していた日の光が、徐々に陰に侵食されていく。

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