13話『戸口の罪は恋慕う』
───ああ、もう後には戻れない。
そんな、始まりの音がした。
カイン側の岩の祭壇の周囲には、甘い香りのするよりどりみどりな野菜と果実などの作物が置かれていた。
すべてが光沢と鮮度を保ち、思わず息を吐いてしまうほど立派な農作物だ。どれだけカインの真心が込められているかがよくわかる。
カインは自分の収穫物の中で、手にしたいずれかを持って籠へ放り込む。
(厳選なんて必要ない)
汗と血と涙を流すほどの犠牲を払ったのだ。そんな自分の育てた作物はきっとどれを選んでも絶品で、神を満足させるに違いない──そんな絶対的自信がカインにはあったからだ。
祭壇の目の前へ辿り着いたカインは恭しく犠牲を供えた。
祭壇の左には「生命の息吹を表す野菜」。
そして、祭壇の右には「自然の実りを祝う果実」。
最後に、祭壇の中央には「成功を象徴する堆く積まれた麦束」をお供えした。
「それですべてか?」
「ああ」
まるで最終通牒のように問うアダムに、カインは迷うことなく頷く。
「......それが、お前の答えなんだな」
カインの供物を見るアダムの瞳に刹那だけ過った感情がカインにはきっと気づかない。複雑なその感情は、もしかすれば普段は見せないアダムの迷いなのかもしれない。
その最終確認が同時に、浅慮な愚かさへの警告なのだと知ったら、カインはどう思うだろうか。こればかりは、素直に「そうか」と一言で納得してはくれないのだろう。
──だから、あえて見送ることにした。
「では、カイン。祭壇に祈りを」
父に促され、カインは祭壇の前へと進む。膝を折り、手を組むと軽く目を伏せ祈りを捧げる。
「豊かなる実りの年が来る事を願い、ここに我が願いの対価あり」
神に祈る。少年だった時代にはそんなことをする余裕すらなかった。余裕がないということは、きっと当時はまだ家族で人間らしい暮らしができないということだ。
目先の生きていくことだけ。家族を餓死させないために土を耕す──それだけが幼きカインの心を占めていた。神に祈るなんてことをする暇があったらどうやって明日の食糧を調達するか。頭とカリスマを無駄に使えない。
(だが、この祭祀で俺も礼拝を成功させれば、)
カインの働きと努力をもってして、ここで神の好意を買うことができれば、神の恵みによりカインのカリスマは強化されるはずだ。
そうすれば、恩恵を強化された《神の豊穣》でさらに作物の品種を増やせるし、家族にもっと美味しい野菜や果実をたくさん提供できるといいと、そう心から望んだ。
だから、今のこの瞬間、自分の礼拝がこれから家族の日々の食事に反映されるのなら、いくらでも大切な作物を神に奉納しても構わない。
そんなことを考えながら、カインは顔を上げ、閉じていた視界を明ける。
「ここに大地の実りを捧げん。願わくば、我が祈りが届くことを」
跪いたまま背筋を伸ばし、想いが伝わるよう真っ直ぐに天を見上げる。
────。
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────────────。
なのに、
天上より火の柱はいつまでたっても降りてこなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
どれだけ待っても、神に顧みられた証が、神に祝福される未来が、いつまでたってもやってこない。
神の審決を待つ間、カインの心臓は不安で激しく胸を叩いていた。が、長引く沈黙にその音も次第に遠ざかり、
未知を待ち続ける不安は、容易く人の心を蝕む。沈黙が長引くにつれ、カインの時間は凍りついていく。
「カイン。もう立ち上がってよいぞ」
求めていた栄光が見つからず、愕然とするカインの横顔にアダムが静かに告げる。気遣わしげなアダムは息子の胸中を知っているのか、その表情は痛ましげだ。
「祭祀は、終わった」
その一言にありとあらゆる意味を内包する。カインはそんな父にゆっくりと視線を合わせると、
「終わった......?」
終わり?
まだ神からは何もお言葉を頂戴をしていないのに。
聞き間違いか。と瞬時に反芻するのは、きっとカインの奥底の願望、そして抵抗が反映したのだろう。
「ああ。──お前も、本当はわかっているだろう」
その表情には哀切の情が滲んでいて、カインに同情にも似た配慮をしているのがわかった。それが痛感できるだけに、より一層カインにみじめな思いをさせる。
「残念ながら、カイン。お前の供物を我が主は受け入れてはくださらなかった」
────。
────────。
────────────。
ああ。やはりか。
「────」
ずっしりと、肩に重いものが圧し掛かるような疲労感が襲いかかった。
そのままその場に崩れ落ちてしまいそうな脱力感、かろうじてその無様だけはどうにか堪えて、カインは自分の顔を掌で覆いながら絶望する。
カインは聡い。うすうす勘付いてはいたのだろう。嫌な予感が的中しただけなのだ。だからアダムの宣告を聞いて失望こそ浮かべるが、それほどの衝撃はなかった。
「お前自身がどうであれ、結果は変わらない」
さらに、父の頑なな態度が、カインの悪あがきという名の期待を固く禁じているのもわかった。
つまり、カインの礼拝は──完全に“失敗”に終わったということだ。
今の今まで、認められていなかったそれをようやく認めて、受け入れ難いそれをようやっと呑み込んで、心と体に溶け込むように理解した。
──神は、カインを拒絶したのだ。
カインの信仰を、信念を、行動を、過去を、未来を、否定されたのだ。それはつまり、それまでカインを取り巻いていたもの、信じていたものが一転するということだ。
世界が変わる。
アイデンティティの崩壊、などという言葉では追いつかない。喪失だ。
むしろそれまでの己の尊厳(そんげんhを踏みにじられたと言い表すほうが、感情的には近いのではないだろうか。
たとえば最高の供物を捧げようと、この十年間カリスマに頼らずに自分の手で一から作り上げた成果を、そういったものは全てなかったことにされる。
自分の供物が神に喜ばれるために励んで、並ならぬ努力で精進してきたことのすべてが無駄になる。
その理解に達した瞬間、カインは勢いよく顔を伏せた。
無力さが、空虚さが、世界の理不尽さが、カインに重く圧し掛かっていた。押し潰されそうな心の奥底の源泉からは、激情が湧き上がる。
それは、人間の原始的な感情──「憤怒」だ。
〈何故 汝は憤る〉
「なぜ......、」
カインは口ごもり、胸中で自問した。
なぜ、自分は今、怒っているのだろうか。一体、何に対して怒りを抱くのか。
不公平と見える「神」に対してか。
栄誉を失った不甲斐ない「自分自身」に対してか。
不釣合いな称賛を博している「自分よりも劣るはずの弟」に対してか。
自分でさえも見失った本心。ない交ぜになる感情の奔流に巻かれるカインはもうわからない。だから、答えられなかった。
〈何故 顔を伏せる
正しい事をせば
頭を上げればよい〉
カインは二の句が告げずに、今度は口を虚しく開閉させた。神の指摘を聞かされても、頭は俯いたままだった。
(俺は、正しくなかったのか)
怒りを通り越して、今度は冷たいものがカインの心を覆っている。
罪悪感、だろうか。
後悔、だろうか。
(違う──!!)
彼は必死に己の非を否定をする。それを認めてしまえば、自分もまたアベルと同様に咎ある罪人であることを受け入れるということだ。
(俺は……!身に覚えのない贖罪のために生きられるほど、おめでたい人間ではない!)
自問自答していくうちに、内心の怒りがいつしか八つ当たりのようなに不信と反逆に変わっていることをカインは気づいているのだろうか。
俺は、間違っていない。
間違っているのは──、
自分は間違っていないのだと主張を通したがる虚栄心。
自分は間違っていないのに、と悲観してしまう自己憐憫。
そんな自分を正当化する道を、今のカインはそれと自覚せぬまま選び取る。だってカインは今までもずっとそうやって生きてきたはずだ。自分の中に抱えている異常性を浄化するために必要な選択を、いわば自分を正当化するための選択を、彼はいつも無意識に選んできたのだから。
怒涛な憤怒は、ひたひたと冷たい水が深さを増してゆくように静かな怒りへと昇華していく。
〈 カインよ
汝が正しいなら
頭を上げ 受け入れられる 〉
そんなカインの罪深き感情も、傲慢な思考も、何もかもお見通しだと言わんばかりに神は次のお言葉を告げる。
〈 正しくないなら
罪は戸口で待ち伏せており
汝を求める 〉
カインの心臓が、今度は別の意味で、強く動いた。
──罪が、自分を求めている?
違う、違う、違う、違う、違う。
そんなはずはない!!
断じて、神のお言葉はカインの本質を捉えてなどいない。
断じて、断じて、断じて、罪に心を奪われてなど──、
「─────────」
それでも、カインは顔をあげない。
そして神のお告げには反論も同調もしない。依然と沈黙を貫き通す。
それは決して他者に良い印象を与える類のものでないことは彼も自覚していた。しかし、そんなものでも今はカインの正気を保つために必要な感情なのだ。
〈 汝 それを支配せよ 〉
他人事のように遠く聞こえる神の戒めは、カインの心に晴れることのない影を落とし、──魂を削る。
(こんな、はずでは......、)
やがて、白い終焉が、黒い絶望を入り混じりながらカインの目の前を埋め尽くした。




