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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【結】〜人類最初の殺人〜
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6話『殺意の咆哮』★

 水の重みが身体を捕える。


 世界が暗転する。


 暗闇に包まれる。


 何も聞こえなくなる。


 何も──

 ただ、静かに──、




 ──水の音も匂いもすべて消え失せた。








 そう、思ったのに。






 






「──おお、カイン。生きてくれて何よりだ」




 何も聞こえなくなったと思ったのは、ほんの一時の錯覚だった。漂う知らぬ声に一気に意識が引き戻される。昏迷の淵の端にはナニカの気配がして、





「ゲホッ、げっほ、!・・・だ、れ」

 



 眼を開けなきゃ、そう思うはずなのに目は開いてくれなくて、それでもなんとかその気配の正体をつかみたくて、ようやく少しかすれた視界からは赤い影が見えた。






「吾輩はサマエルだ。うぬの魂──」


「ゴッ、ゲッホ、……ぁ」


「ふむ。少々意識が混濁しておるな。これでは何を話したところで事実の記憶に残してくれるか怪しいな」


「───── 」


「まぁよい。親子の水入らずに浸るのはまたいつかの機会を待てばよかろう」




 どういう意味だろう。なんと言えばいいのだろう。そもそもこいつは何なんだ。頭の回転が遅くて、うまく言葉が浮かばない。



「だが、せっかくこうして会えたのだ。その記念にわが仔への置き土産だけでもしておこう」




 瞼の重みに負けて視界を確保できなくなり始めるカインはその瞬間、胸から伝わる冷たさの量が増した気がして、瞼がさらに重くなるのを感じる。朦朧とした意識でも確実に何かされたのは覚えているが、 その『何か』が分からないのが気になった。




「──これで()は目覚めた。次にうぬと再会するまでにどんな悪意の花が咲くか、実に楽しみだ」




 音が遠くなり始める。否、カインの意識がいよいよ現実から離れ始めたのだ。瞼はもはや開くこと叶わない頑強な意識の檻と化した。


 そのまま完全に、再び現実から思考が乖離する直前に──、




「せいぜい己の“悪意”を育んでくれたまえ。我が仔よ」



 期待と悪意に満ちたその笑いを最後に、カインの意識は闇へ落ちた。






      ◇◇◇◇◇◇◇








 それが──なんの自責も、罪悪感もない──無機質で淡々としたサマエルの自供だった。




「どうだ?しっかりと思い出してくれたか?」

 



 少しずつ霧が晴れたように、当時の記憶が朧げに浮かび上がる。



「……っ、じゃあ、あの日からオレが無性に誰かを傷つけたくてたまらなくない、この謎の衝動は……っ!」


「言ったとおりだ。吾輩と接触したがゆえにお前の中に覚醒した悪意の芽の仕業だな。言うなれば、このサマエルからの仕打ちだと認めよう」


「……っ!」


 



 ようやく取り戻せた──溺死寸前だった記憶にあるのは、触れられた悪寒の冷たさと、流れ込んできた重く澱んだものだけだ。 それでも、あれ以来カインの肉体に異常もなければ、変化もなかった。


 しかし、今思えば、その「何か」はこの五年間ずっとカインの精神、さらには魂に大きな影響を及ぼしていたに違いない。それがサマエルの言う「悪意の芽」なのだろう。




「どうだ。これで辻褄(つじつま)が合うだろう。吾輩とうぬの出会いはあの崖の下が始まりだった。そう、厳密に言えば、吾輩とうぬが接触したのは今日で()()()だな」


「……ああ、そのようだ。おかげで思い出したさ。確かに、オレはあの日お前と出会っていた」


「そうだとも。吾輩があそこでうぬを川の急流から引き上げなければ、すべてが終わっていた。いわば、命の恩人というやつだ」





 そう。そうなのだ。極めて不本意で、認めたくない事実ではあるが、五年前、あの絶望的な悲劇でカインが奇跡な生還を果せたのはサマエルのおかげでもあるのだ。


 取り戻した記憶は、カインの中の欠落を埋め、齟齬(そご)を解消した。


 しかし、新たな問題が発生した。カインが助けられた後──カインは五年前に助けてくれたサマエルの存在を今日までずっと不自然なほど綺麗に忘れていたことだ。


 

(こいつはオレの魂だけではなく、真実(記憶)までも弄ったんだ)




 あの日アベルと紅葉林で散歩したことも。誤って崖へ突き落とされたことも。それで溺れ死になりそうだったことも。アベルに追求されるまでは五年前のあの日の記憶がすべて忘れてしまった。


 初めは不自然な記憶の欠落に不可解な違和感を抱いていた。──しかし、今ならわかる。




(サマエル(こいつ)()()()んだ。オレに悪意の種を芽生えさせ、最後にすべてを忘れるように仕向けたんだ)




 そうして、カインから自分の存在を消し去った悪意の蛇は、第三者が物語を読み進めるようにカインの人生を見守り続けた。


 いや、「見守る」だなんてそんな善意的なものではない。サマエルの場合、「高みの見物」と言った方が断然しっくりくる。





「……なぜ、わざわざオレの記憶を消した」


「吾輩としてはその方が都合いいからな」


「お前に助けられた記憶だけならまだしも!!なぜ()()()()()()までも消した!?そのせいで訳分からん事になって、どれだけオレが……ッ、」




 突き落とされた記憶さえ残れば──たとえそれが妄執であったとしても──これまでカインの異常性にはまだ、「弟に突き落とされた怨み」を理由にすることで説明も言い訳もついただろう。


 失った記憶を補完するように、あの崖で起きてしまった悲劇こそが、カインの中に湧き上がる悪意の「発端」であると思い込むこともできたのだろう。


 だが、五年前の悲劇そのものをなかったことにされたせいで、家族から見ればカインは唐突に豹変して、家族からの愛をひたすらに拒絶する──理由もなく一切の情愛を欠落してしまった、そういう訳のわからない存在なのだ。




「ふむ。別に、深い意味などない」


「お前っ!いい加減なことをッ、」


「人は己に起こる異常な現象に原因や理由を求める生き物だ。記憶という手掛りがある分だけ、それを安心の糧とできる。だが、逆に手掛りとなる記憶がない場合、人は己に起こる異常をどう消化する?その至る道筋が吾輩としては大変興味深い」




 そこでサマエルの目に初めて明確な悪意が浮かぶ。




「結果が分かりきっていようとも、記憶のないうぬが、どういう立ち回りで、己の覚醒した悪意に向き合うのか。その藻がき苦しむ“過程”をじっくり鑑賞したかったのだ」




 ここで初めて牙を剥けるその態度に、カインの方は思わず思考が真っ白になる。ここまで露骨に愚弄されるとまでは予想していなかった。感情の整理ができずに押し黙るままのカインをサマエルは見下ろし、




「だから、特別な理由なんぞない。強いていえば興味本位だ」



 サマエルは恍惚に歪んだ嗤笑を浮かべた。




「──吾輩にとっては至高の余興に過ぎん」





 目の前の赤い蛇が口にした言い分を呑み込むのに時間がかかった。それほど、今の一言だけが、サマエルのこれまでの雰囲気から乖離していた。





「ククク…」



 笑い、笑い、カインを嗤う。




「──世界が狂ってるのか、自分が狂ってるのか。そんな理不尽な状況に追い込まれて、何もかもが思い通りにいかないときに、思考の袋小路に陥るうぬは実に見ものだったぞ」



 それが決して好意的な類の笑顔ではなく、凶暴な肉食獣が浮かべる類の、獲物を痛ぶり殺すときに見せる類の加虐的笑顔である。


 一方でその真っ赤な双眸に宿る、言葉にし難い感情の渦──カインへの執着。狂熱じみた暗いものが渦巻いている。




(じゃあ…やっぱり、本当にこいつが…オレがずっとおかしくなったのも、全部…こいつが()()()()()と)



 自分は今まで踊らされていたのか。どうしてこの蛇は、私利私欲のためにここまでひどいことが出来るのか。



 家族の誰かと接するたびに己の異常の有無を確かめ、悪意がにじり寄っていないか疑わなくてはならない時間が苦痛で悲しくてたまらなかった。だがその一方で心の根底で家族が大事なのもまた消えるのないカインの本音だった。


 二律背反的感情は当然互いにその存在を許容できず、カインは表面と内心でそれらを抱え込んだまま生き足掻く五年間を送っていた。それがすべて目の前のサマエルの仕業だとようやく認識すれば、カインの臓腑が徐々に怒りで煮え滾ってくる。





(こんなヤツの興味本位だけで…オレは自分の異常さにずっと無駄に怯えて、悩まされてきて…)




 それをこの蛇ははずっと陰で笑いものにして、のうのうと高みの見物していたのだ。カインの長年の苦悶を、蝕む悪意に抗う惨めな煩悶を、このサマエルには取るに足らないことで、むしろ至福の喜びとして搾取し、それを惜しみなく享受していた。


 放任的傍観よりも悪質なそれは、まさに、



       (悪意の塊)




 ──ふと、そんな一文がカインの脳裏を掠めた。




「さて、うぬが生まれ変わったあの日の内幕を語ったぞ。どうだ?己の真実を知れて少しは吹っ切れたか?それとも、ようやく吾輩を父親として認める気になったか?」


「吹っ切れる訳…..ねぇだろうがッ!!!」




 吠える。


 これまで、カイン自身にも記憶がないほど、憤怒の感情が湧き上がっていた。


 どこまでも他人事でしかないサマエルの態度に、一気に凝縮されていたものが爆発したのだ。




「全部…お前が仕組んだくせに!どの口がモノを言うんだッ!?」




 人の愛に生理的嫌悪感を抱くようになってしまった。家族の絆に亀裂が入ってしまった。弟を自害に追い詰めるほどに傷つけてしまった。唾棄(だき)すべき現実が、カインの心を蝕んでいく。





「──お前のせいでッ!何もかもが狂ってしまった!!」





 今、わかった。


 全て、わかった。


 熊の襲撃だけではない。これまでカインが背負った苦悩も。全部が全部、この悪意の蛇のせいだ。その結論に至った途端、カインの中で何かが弾けた。


 しばらく引っ込んでいた例の感情を飼い殺す心の檻は、プツンと音を立て壊れてしまった。まだ僅かに残っていた理性が完全に消え果てた瞬間でもあった。


 今、カインの胸中を支配していた感情はただひとつ。

挿絵(By みてみん)


  「──殺してやる!!!」



 その毒を吐き出す口を二度ときけなくしてやろうか。


 突き刺し、引き裂き、叩き潰し、捩り切り、命乞いをさせて殺す。その目障りな赤い凶相を自らの手で歪めてやる。


 それは、殺意を包含した最上級の悪意だった。


 自分でも信じられない程残酷な感情が沸々と湧き、必死に抑えようとするカインを見て、サマエルはうっとりと目を細める。


 美しいものを愛でるように、壊れていく儚いものを(なぶ)るように。




「─────あァ、やっぱり、お前にはそういう表情が一番似合ってる」




 幸福が詰まった愛情の色なんて似合わないのだ、というサマエルの言葉を切り裂くように、カインが腕を一閃させる。そうすれば、サマエルは耳に障る笑い声を残しながら悠々と回避する。




「カインよ。何をそんなに怒っている。吾輩への全面的な責任転嫁は感心しないな。確かにきっかけを作ったのは吾輩だ。だが最終的に感化され、行動に移したのはうぬ自身であろう。たかがこちらの仕組んだ悪意のせいで壊れてしまうなら、うぬの大事な家族の絆も所詮はその程度だったってことだ」


「てめぇェエ──っっ!!!」




 カインの咆哮が炸裂し、大地が吹き飛ぶような蹴り足でカインの体が飛ぶ。胸に蓄積した殺意を今度こそ実行に移そうとしていたのだ。





 ──だが、それは見事に空振りに終わる。


 先程カインが捉えたのは残像ではないかと思わざるおえないほど、いつの間にかサマエルはカインの背後にいた。




「やれやれ、周りを見てみろ。先程からそいつらがうぬの悪意の感情に惹かれて、寄って来ているではないか」


「そいつら……?なんのことだッ!誰のことを言っている!」


「……ふむ。そうだったな。今のうぬでは()()見えぬか。誠に残念だ」



 周囲に神経を研ぎ澄ますも、サマエルが嬉々として指摘するそれらしきものはどこにも見当たらない。それに対しまたなにやら意味深に漏らすサマエルのセリフにカインが食って掛かる。


 しかし、その問いには答えず、サマエルは一人で納得して頷く。それがさらにカインの激情を逆撫し、再度攻撃を繰り出すが、ことごとく(かわ)されてしまう。





「クソッ、逃げんな!逃げるんじゃねぇ!全部てめぇの仕業なら!てめぇをぶっ殺せばオレの中にあるおかしいやつも消えるはずだ!そうすればすべてが元通りに、」


「ハハハハハッ!!」




 啖呵が途切れる。サマエルが突然哄笑したからだ。嗤笑によく似たそれにカインの身体が反射的に緊張する。サマエルは、笑みを孕んだ淫靡な声で彼を謗った。




「このサマエルを屠ればこれまで培ったうぬの悪意は消えると?そんな顔をしておいて、どの口でそれを言うのだ?」


「なんだと……ッ!!」


「ああ。カインよ。直に見せてやりたいものだ。うぬ自身のその凄まじい邪悪なる形相を!これではまるで我々魔族そのものではないか!」


「っ、」




 荒い息のまま、カインは目の前のサマエルの瞳を覗き込む。その爛々と赤く煌めく瞳に映る、醜く歪む自分の表情。


 ──まさに、悪意そのもの。


 そこから目を逸らしたいのに、サマエルの視線が決してそれを許さない。





「どうだ?心が完全なる悪意に支配される気分は?」

 



 優しい甘言を囁くかのような声音で問いかけた言葉は、カインの内側を深々と抉る。全身から血の気が引いた。硬直して瞬きひとつできないカインの姿を見ただけでサマエルは今までの溜飲が下ったような気がした。




(これは……想定以上の収穫だな)




 思わず愉悦な笑みを浮かべて、息の根を止めるようにカインを深く穿(うが)つ。


 弟と和解してからのカインの悪意が、その後の穏やかな日常に埋もれていくことがサマエルは大層気に食わなかった。


 己の長年仕組んだ業績が水の泡に帰すのではないかと懸念もしたが、どうやらそれも杞憂のようだ。




「これは傑作だ!ようやく…ようやく!後少しで我が念願が叶いそうではないか!」




 ──サマエルは、赤き悪魔はこれまでに無いほど上機嫌で笑った。

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