5話『絵空事だと嗤えばいい 』
全身を貫いた衝撃を何と呼べばいいのか。頭のてっぺんから足の爪先まで、稲光が突き抜けたような錯覚がカインを襲った。
「オレが?・・・は?」
全身の毛穴が開いたような肌の粟立つ感覚に、体中の血管の中の血が沸騰するように沸き立つ感覚。高い胸の鼓動に朱色が首から上を染めてゆき、荒い呼気を漏らしてカインは後ずさる。
「カイン。アダムはお主の親だ。それは間違いない。だが、それはあくまで“器”の生みの親としてだ。お主のは肉体こそ人間のものだが、その魂は我ら魔に魅入られたもの」
気付くな。気付くな。
知らなくていい。
高鳴る心臓と、血の流れる音が聞こえるほどの集中。拒絶、理解、拒絶、理解。
だが、その抵抗も虚しく───、
「つまり!お主の“魂”の親は正真正銘!この【悪意の蛇】なのだ!倅であるお主が尽きぬ悪意の感情に侵されているのは、むしろ必然である」
魂に直接囁きかけるような響きが紡ぎ出す告白が、一心に耳を傾けるカインに与えたのは絶望だった。
衝撃なる真実。
なんていうことだ。
カインが五年間も正体不明な悪意に苛まれ続けていた根本的な理由──元凶はこのサマエルと名の蛇だというのか。
「……そんなの、信じない」
にわかに信じ難いその現実。そうだ。謎の蛇の戯言なんて信憑性に欠ける。ゆえに、決して鵜呑みにしてはいけないのに、カインの存在を構成するすべてがそれを『真実』だと激しく訴えている。
「信じない?うぬの魂が一番よく存じているはずだ。その証拠に今こうして吾輩の前に佇んでいるも、うぬの心が、血が、親であるこのサマエルに強く傾倒し、服従を求めている。すべてお前の悪しき魂がそうさせているのだ」
奇しくも、その通りだった。姿を現した瞬間からカインはこの赤い蛇に陶酔していた。目を奪われていた。意識を絡め取られていた。無意識のうちに五感の全てを、目の前の赤い蛇にただ一つに注ぎ込んでいた。
(まさか本当に、こいつが、この蛇が、オレの魂の生みの親だというのか?)
固く閉じていた蓋が、封印を破って開いたような感じがした。肋骨の内側で、とてつもなく不吉な影が蠢いている。
己の何もかもがその赤い蛇の手中にあるような錯覚を覚えるほどのそれが、サマエルの言葉の信憑性を裏付けるようでカインは内心冷や汗が止まらない。
(ダメだ!信じるな!全部っ!全部こいつの言うデタラメだ!嘘に決まってる!)
しかし、魂がその事実を肯定しても、脳がそれをやはり荒唐無稽なものに思えて、カインはすぐに首を振って忘れようとする。
理解してはいけない。理解しようとしてはいけない。
ましてや、そんな風に考えることなど今の自分にはできない。できてはいけない。それを理解してしまえば、それこそ後戻りはできなくなってしまうのだから。
しかし、一度生じたその思考は、まるで呪いみたいにカインを掴んで放そうとしない。
「カインよ。うぬは我が悪意の分身そのものなのだ。すべての嫌悪を許容し、すべての悪意を賛美し、すべての負の感情を集約した忌まわしい概念の権現。それがうぬの存在意義である」
サマエルの静かな語りと裏腹に、激しく打つカインの心臓の音が弱まる気配がない。
「…なんだよ、それ。なにが、言いたいんだ」
たどたどしいカインの追及に、サマエルは首を傾げて双眸を三日月へ変形した。その瞬間、周囲の空気がぐらりと揺れる。
「つまりだ、カイン。──うぬは生まれつきの悪なのだ」
ただその一言にも関わらず、蛇の言葉はカインの鼓膜を通り抜けて、脳内を侵食する。
「一度その悪意の片鱗が顕現してしまえば、うぬが他者の愛も、優しさも、温もりも受け付けられない体質に成り果てるのは至極当然の原理であろう」
いったい、こいつはなにを言っているのだろうか。一から十まで、サマエルの口にする言葉はなにひとつカインの理解に届かない。
それにも関わらず、サマエルの方はまるでカインの全てを掌握しているかのように、理解者のように振舞う。
「……さっきから、大人しく聞いてりゃ好き勝手言いやがってっ!!オレに何かを仕組んだだって!?オレの心を操る何かを仕組んでいるっていうのか!?」
「そうだ。うぬの母親が身篭った時、胎児だったうぬの肉体に吾輩が悪意の魂を宿したのだ」
「そんな、そんなばかげた話を信じろってんのかよ!?」
自分の意思に従わない矛盾な心。そのありったけの不信感をカインは思いっきりサマエルにぶつけた。
ここへきて、唐突なまでに理解を越えた反応を見せ始めた自分の心。超常の力を持つこの赤い蛇が、自分の持つ強い感情にまで干渉しているのだとしたら、それはあまりにもおぞましい。
人の魂を歪め、人の心を意のままに捻じ曲げるなど──それは、人でなしの最低の行いだ。
「バカげたとは……、これはまた随分と酷い言い草だな。せっかく遥々参って、うぬが求める真実を快く授けたというのに」
「第一、父も母もそんなこと一言も言ってなかった!」
「当然だ。うぬの両親さえも知らないことになっている真実だからな。バレずにそつなくこなすなど吾輩には造作もないことだ。もっとも、知ったところでうぬにはあえて伝えない可能性のが高いだろう。まぁ、それ以前に知ればまず間違いなくあやつらは卒倒するだろうがな。知らぬ方が幸せなことも世の中にはある」
赤い蛇は満腔の悪意に満ちた嘲弄の響きを寄越した。
「残念だが、カイン。これからも少しずつ“悪意”の魂はじわじわとうぬ自身を喰らい続けることになる。気づいているか?すでにうぬはもう半分が人間でなくなっているのだ」
「ッ、だまれ!」
「ショックなのはわかる。だが、すべて本当のことだ」
「うるさい!うるさい!オレは絶対に信じないぞ!!」
頭を抱え込んで、カインは聞こえる音の何もかもを拒絶して絶叫する。
「そもそもの話!このオレが生まれつきの悪と言うのなら、お前の言う事は辻褄が合わない!オレの中の悪意はあの日から感じ始めたものだ!お前とは関係ない!だって、それまではなんともなかった!むしろ家族兄弟とうまくやってこれたんだ!誰かを悪意で傷つけたくなることもなかった!全部が全部!お前のでまかせに過ぎないんだっ!」
これほど否定して、これだけ拒絶を露わにして、こんなにも嫌悪感を隠さずに振舞っているのに、カインの心はサマエルを『受け入れよう』と訴えかけ続けていた。
それに屈服しそうになるのを意識的に抑え込み、必死に声を上げ、血を吐くように拒絶を突きつけることで、カインは自分自身の心根を保ち続けていた。
文字通り、そうして意識を保とうと努力し続けない限り、自分という存在の根本が歪められる確信があるのだ。それはあまりにも、おぞましい想像だった。
「消えろっ!!これ以上惑わされるのはもうたくさんだ!」
気付けば、いつの間にか地面にへたり込んでいた。サマエルから離れることすら忘れて自分の殻に逃げ込み、小さくなってカインはサマエルの説諭を否定する。
毒だ。猛毒だ。
カインにとって、サマエルの存在は彼のすべての意思を溶かそうとする毒なのだ。
「何を言い出すのかと思えば、そんなたわいもないことか」
「なにを!!」
カインの予想に反し、サマエルは実に愉快そうだった。言い返されたことに更に愉悦を感じているようだった。ククク、と喉を鳴らしてまた笑う。
「そうかそうか」と目をさらに弓なりにする。そして、実に親しそうに話しかける。「一つ、いいことを教えてやろう。我が子よ……」と。
「うぬの中の悪意を後天的に感じるのは、それまでの間、うぬの魂が完全に覚醒していないからだ。そう。うぬはこの世に誕生してからもう一度吾輩と接触しない限り、我が子に眠る悪意の種が芽吹く事はないからな」
『悪意の種』。──そんな詩的な言い回しに、カインは不愉快そうに眉根を寄せる。
「ハッ!自分で墓穴を掘ったな!なら尚更お生憎様だ。お前とオレはあの森が初対面だ。だが、その時にはすでに俺はこの異常な体質に悩まされていた。ああ、そうさ!お前の言葉で言う悪意の種とやらも、オレはお前と出会うずっと前からとっくに順調に芽吹いているとも!その時点でお前の話が食い違っているじゃないか!」
ありったけの皮肉を込めて、カインは早口にサマエルの持論の矛盾点を並べ立てて、その理論の破綻を指摘する。
「やはりお前の言うことなんて信用できないっ!オレの魂がお前が創り出した悪意の分身だの、すべて妄言だったんだな。このウソツキめ、」
「哀れな」
間髪入れず飛んできたサマエルの憐憫含んだ揶揄に、カインは半ば反射的に胡乱げな瞳を返した。
「不完全な記憶の癖して、ここまで威勢のいい反駁されると流石に哀れすら思う」
「どういう意味だ」
「うぬの記憶に欠落がある事、気づいていない訳ではあるまい?」
「──!」
目を見開いて動揺するカインを諭すように、サマエルは悠々とした口調で続ける。
「なのに、だ。本当に吾輩と接触したのがあの森が初めてなのだと、言い切れるのか?」
「そ、れは……、」
「その不自然な程綺麗に切り取った記憶の中に、吾輩の存在を想定するに値しないか?」
淀みない無感情な言葉に耳を疑った。隠し切れない狼狽を含んだ声音が、カインの乾いた唇から声にならない音がこぼれ落ちる。
「一つの真実を教えたついでに、もう一つの真実を教えてやろう。五年前、あの崖から落ちて溺死するはずだったお前を助けたのは、この吾輩だ」
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───────────────────あ。
「預かっているその記憶を今、うぬに返そう」
サマエルの嘲りが、扉の向こうの最後の記憶を運んでくる。開いてしまった扉はもう閉じることはできない。
冷たい悪意の風と共に吹き込んでくる。




