11話『明けの明星』★
伝えられたガブリエルの言葉の意味を呑み込んで、全員がそれを脳に浸透するまでにかなりの時間を要した。
(ルシフェルが議長を、辞任?)
そうして脳にそれらが染み渡った直後にミカエルの心を支配したのは、形のない震え上がるような情動の波だった。
衝撃に襲われたのは、なにもミカエルに限らない。
「え...、えぇ!?」
「マジ...?」
「.............」
再び響めきが他の七大天使たちの間に広がり、全員の表情がそれぞれの強い感情に呼応して変わる。──驚愕・戸惑い・呆れ・怒りなどの様々な感情に。
誰もが二の句を継げない状況の中で、最初に口火を切ったのは、ラファエルだった。
「ふむ。なるほど。確かにこれは議会どころの話ではないな。これは今後大いに我々統御天議会の名誉に関わるのだよ」
立て続けの無断欠席に加えて、今度は独断による自らの除名行為──議長にあるまじき所業であり、何より統御天議会の品位と信頼を低落させたものだと、ラファエルは暗にルシフェルの非を難じる。
神の代理人とされている統御天議会に汚点が残されるのは、今後の運営に影響を及ぼすことは明白だった。
そして次に身を乗り出すのは、ハニエルだった。
「どうしてルシフェル様が!?もしかして無断欠席が原因で解任されちゃったとかじゃないよねぇっ!?」
「いえ、どうやらルシフェル天使長自らが議長の座を辞退した模様です」
「“自ら”......?」
ガブリエルが伝える事務的な言葉の内容に、今度はミカエルが釣り込まれるように繰り返した。声量を上げたい気持ちを抑えつつ、努めて平静に問いを重ねた。
「......理由は?」
「その、“一身上の都合”とのことです」
「えぇぇえ!?なにそれぇぇ───!!」
直後、ハニエルの慨嘆の叫びが響き渡る。
◇◇◇◇◇◇◇
しばしの混乱があったものの、しばらくしてまた全員各々自席について、議論を続けた。
ただし、今度の議題は主にルシフェルの動向についてだが、
「無断欠席の多発、挙句に果てに独断での自主辞任とは...随分と身勝手な所業の数々。さすがに天使長の意図が読めんがね」
ラファエルは己の顎に触れ、しばし瞑目。そこでラミエルが、
「それにしても、我らの偉大なる神もよくそれをお許しになられたよねぇ〜!もしかしてなんだけどさぁ、ガブリー!やっぱ天使長サマはなんのお咎めもないって感じ?」
「......だと思われます」
「フーン?さすがは天下のルシフェルサマだネ〜!これだけやりたい放題なのに、なんの罰則もないなんて!話に違わぬ神のご寵愛ぶりだネェ〜!いや〜恐れ入ったヨ!」
大袈裟な身振りで両手を広げ、讃えるとも、揶揄するとも取れる芝居がかった物言いをしていたと思えば、ラミエルはふとその場の空気に不釣り合いすぎた仰々しい態度を翻した。
そしてふとその視線を──先程から一言も発しない人物に一直線に向けていた。
「──ねぇ、君もそう思わないかい?ウリエル君」
ラミエルの双眸は、まるでウリエルの品定めでもするかのように細められていた。 自然と内心を見透かされる不愉快さに途端にウリエルは声を荒げ思いっきり睥睨した。
「あぁん?なんだッ!?」
「いや〜こりゃ失敬!」
そんな自分の不作法に気付いたのだろう。ラミエルは表面上すぐに姿勢を正すと、白々しいほどに恭しくウリエルに対して目礼し、
「でもさ〜そんな気短さで誰よりも規律を重んじるウリエル君が、どうして、そんなに冷静で、怒り狂わず平静を保っていられるのか……、ボクとしてはそれがずっと不思議でたまらないんだよね〜」
「何が言いてぇんだ。テメェは」
いまいち真意が読めないラミエルの述懐に焦ったさを感じたウリエルは鋭い目つきに剣呑さを乗せるが、ラミエルは素知らぬ顔で手を振り、
「だって〜、さっきからウリエル君、変にずっと黙ってるじゃん?ボクの知ってる君なら、もっと向こう見ずに吠え猛って怒り狂って当然の場面がこれまでに何回があったと思うけど?」
ウリエルは天使の中でも飛び抜けて規律や道徳に最も厳しい熾天使だ。
ところがどうしたわけか、今日までの著しいルシフェルの傍若無人ぶりを彼はただ静観するだけに留まっていた。
「さすがにね〜不自然だよ?今の君」
元よりウリエルには融通性なんてものは持ち合わせておらず、たとえ神の贔屓による黙認であっても、自分よりも上位の立場にある者に対してでも、つまるところ、彼の生粋な厳格さは終始一貫していた。
そんなウリエルだからこそ──どんな理由があるにせよ──度が過ぎる程のルシフェルの独断専行に目を瞑るのは、これまで問答無用で懲罰を与えてきた「断罪の天使」の名が廃るに値する行為なのだ。
「だからさ、ボク思うんだよネ〜!ウリエル。君はさ、天使長が議会の無断欠席をすることも、議長を自主辞任した件についても、言うて特に衝撃を受けていないんじゃない?」
そこで「そうだなぁ〜」とわざとらしく口にしつつも、ラミエルの視線はまっすぐウリエルを貫く。純粋にウリエルの思惑を探るようにじろじろと覗かれて嫌な心地。
「例えば──実は、既に知ってたとか?」
「............」
ラミエルのどこか懐疑的な指摘に、ウリエルは押し黙る。
その他の七大天使たちまでも僅かにそれを含んだ視線をウリエルに向け始める。
「えぇ〜!?そうなのぉ〜!?」
「......ラミエルの言うことは本当の事なの?ウリエル」
「ふむ。確かにウリエルが、天使長の話になってからヤケに大人しかったのは多少なりとも気掛かりではあったがね」
それら視線を一斉に浴びたウリエルは──、
「.....フン!普段テメェらが俺のことをどういう認識してんのかこの際よくわかったぜ。それはさておき、別にやましい事がある訳でもねーからはっきり答えるが、俺は天使長の所業を端っから知っていた訳ではねぇ。大して驚いていないのは事実だがな──ただそれだけの話だ」
意外にもウリエルはあっさりと言い繕いをやめて、肩を竦めて応じてみせる。
「えー、驚かないって、君さぁ......天界のトップが無責任に職務放棄だなんて、他の誰でもないウリエル君なら真っ先にお飛びついてお灸を据えそうじゃないの〜?たとえ相手があのルシフェル天使長でもさ」
しかし、それだけでは納得がいかないラミエルの追求に、いつもなら怒鳴って切り捨てるもウリエルはしばし視線を落として沈黙を選ぶ。
これまで、踏み込んだ会話に対しては強い拒絶の態度を示すウリエルが、今回に限ってはラミエルに食って掛かってこなかった。
その違いは、真意は、どこにあるのか。
「......チッ、テメェらが天使長の行動を不審に思うよりもずっと前に、俺は早くも奴に目をつけていたんだよ。今更奴が無作法を発揮した程度なんぞに驚きなんぞしないわ。ただ、まだそれを問責するにはまだ頃合いではない──そう判断したからだ」
「頃合い〜?」
あの直情径行なウリエルがあまりにもらしくない思慮深げな発言に、ラミエルは露骨に怪訝そうに鸚鵡返しをした。
それに対しウリエルは苛立たしげに立ち上がり、その場にいる全員に背を向けた。
「本来なら天使長がいる議会の場で突き詰めようと時機を見計らっていたものの、奴は立て続けに議会に姿を見せない上に、その末に辞任ときた。本人がいないこの場で言及するのも不本意だが、これ以上俺への下手な詮索もうんざりなのでな、」
思い通りに事が進まないことに深々と嘆息をつき、次に大きく舌打ちしてからウリエルは応じるべき答えを決めたようだ。そして向き直り、
「──最初に言っておく。俺は他の天使と違って、天使長は好かん。はっきり言って気に入らんと言ってもいい。この際だ。俺はここで奴について洗いざらい追及する所存ですぜ」
なんの前触れもなく吐き捨てられた誹謗は、水面に小石を投げ入れたように、その場の騒めきの輪は次第に大きく広がっていく。そして、
「え、ウリエルちゃん!急になにをッ」
それが首領、少なくともそう呼べる天使長への侮辱にしか思えず、ハニエルは歯を剥いてそれを咎めようと動きかけた。
「待ってくれ。ウリエル」
そこでだが、その挙動は寸前で割り込むミカエルの声に遮られた。
「──それは、今話さなければならないことか?」
「......と言いますと?」
「確かにルシフェルの無責任ぶりは本来野放しにして良いものではない。だが、他の誰でもない我ら主がそれを不問とした以上、もはや我々がとやかく言う筋合いはないのだ。それに、議長が辞任されたと判明したからには、役員の再編成や空いた人員の確保を優先すべきだと私は主張する」
「何をおっしゃいます!副司令!むしろ、逆ですよ!天使長が議長を辞任された今だからこそきちんと「副司令の言う通りなのだよ。ウリエル」
そのまま口から飛び出す予定だったウリエルの反論も、被さるような諫言に上書きされて広間に響いた。
「今我々がなすべきことは他にある。悪いが個人的な苦情はあとにしてくれたまえ。──それに、“公私混同はやめろ”と先ほど私がハニエル君に注意したばかりなのを、聞こえなかったのかね?」
ウリエルの短慮を遮ったのはラファエルだった。
彼は広間中の視線を一身に浴びながらも、前に踏み出し、怒号を放ちかけたウリエルを意外にも逞しい腕で遮って止める。
これ以上個人的な感情を持ち込んでさらに議会を揉めてどうする、とそんな呆れた様子が見て取れる。
「さっきから聞いてりゃッ!このウリエルが私的感情でわざわざ議会と無関係な話を不必要に持ち込むと思うか!?だとしたら実に心外だッ!」
しかし、当然それで大人しく自重するウリエルではない。むしろ火に油と言ってもいい。
「──そもそも!この場で公私混同なのは果たして誰なのでしょうね?今はあえてそれに触れませんが」
違和感のある、言い方だった。
どこに違和感がある、と聞かれると判然としない。しかし、どこかに確実に違和感があったのだ。
そんな浮かないミカエルの気持ちを置き去りにして、ウリエルは何事もなかったかのように気を取り直しつつも話を続けた。
「俺とて、神がお許しになった以上天使長を責め立てても何の意味もないことは重々承知している。先程の批判的な導入で齟齬が生じたが、俺は至って真剣だ!──何せ、これから俺が語ることは、今後の天界の安寧に関わる極めて重要な事項だ。どうだ?本日の議題にはもってこいだろ」
「ほう?それは興味深いな。君が執拗に天使長を糾弾することと、現在の天界の治安回復に一体どういう関連性があると言うのだね?」
「ラファエルよ。俺が私怨で天使長に難癖つけているとテメェは思っているようだが、見縊るでないわ!確かに奴の事が気に食わないのは事実だが、これでも俺は天使長の実力、そして存在そのものを認めているつもりだぜ」
ルシフェルの異様なカリスマも強さも、指導力も間違いなく本物であると──滅多に他者を評価しないウリエルでさえもかつてはルシフェルに一目を置いていた。
それだけウリエルの中では、これまで天界に絶対的安寧を齎し、天使に希望を与えたルシフェルの功績が高かったからだ。
「天使たちがこうして天使としての存在意義を保てるのも【明けの明星】の恩恵のおかげだということにも、恩情は少なからずある」
天界は光の国である。
生命の発祥の根源であり、天使が生まれ落ちた故郷。その光の源は神の「栄光」と、そして「希望」から出来ている。
──暗黒の世を知る神にとっての最初の希望の光は正しく【明けの明星】であった。
いつだって迷える天使たちを導く光の道標となり、すべての希望の星──そうなるべくして創造されたのだから。
明星の光こそが神にとってのすべての始まり。故に、神の特別だった。
そして、これからも、ルシフェルは天界の柱になるべき唯一無二の存在として君臨する。今この瞬間でさえも、天界の誰しもがそれを信じていて、望んでいる。
「だからこそ!!俺は断言する──!」
しかし、
いつしかウリエルは──、
「天使長ルシフェルは、いつか必ずこの天界を脅かす者となる」
闇すらも飲み込む──その眩しすぎる破壊の光を危惧していた。




