43話『赦す、許す、ゆるす』★
「......そっか。ちゃんと思い出せてくれたんだね。五年前のこと、」
カインの視界の端で、アベルが身を硬くするのが分かった。
きっと今から、カインから、兄からありったけの罵詈雑言を浴びさせられるとでも思ったのだろう。そしてその身でまたすべてを受け止めるつもりなのだろう。
「じゃあ......ぼくに言うことは、決まってるよ、ね」
今回、カインとの確執が生まれた日の記憶をはっきりと開示したアベル。そうなった以上、もうカインの未来の中にきっとアベルが残るはずもないだろう。
「ああ。そうだな、オレがお前に告げるのはただ一つ、だ」
だから、これから告げられる言葉が、カインからアベルへの本当の決別で───、
「だからどうしたってんだよ」
「・・・・・・え?」
どこか他人事のように吐き捨てられた言葉に、アベルの喉が激情に塞がる。
「──今のオレはこうして五体満足に生きてる。それにお前はわざとやったわけじゃないんだろ。そもそもが不幸な事故だったんだろ」
どうして今さら、カインは覚悟を決めたアベルの心を掻き乱すのか。
この兄弟の関係に終止符を打つのだと、疑わなかった。
目の前まで接近した兄を見て、今度こそ彼の恨み言で終わらせるのだと、そんな期待を抱いていた、なのに、
「だから、もういいだろ」
「もういいって、そんな......」
それなのにカインは、アベルの抱いた歪んだ希望とは違う形の未来を見せようとする。
(そんなこと──)
そんなことは、望んでいない。
決して望んではいけない。
そんなものをかつて望んでいたアベルの心は、この五年間中でとっくに擦り切れた。
「それでいいって...っ、そんなの結果論だよ...!」
「終わりよければすべて良しとでも思っとけ。だから、“赦す”。お前を苦しめる五年前のすべての罪を」
カインの言葉にアベルは一瞬だけ動きを止めて、それから脱力するかにように俯いだ。そうして顔を伏せたまま、
「ゆる、す...」
「言っておくが、これは本心だ。表面上の和解なものほど無意味なものはないからな。はっきり言って、あの日の事を気にしてるのは、今となってはもうお前だけだ」
親指でアベルを示しながら、カインは彼の罪悪感を消そうと口調を強くした。
嘘でもなんでもない。もしもカインの心があの日の事を根に持っていたのならば、こうして弟と向き合う状況など迎えることはできなかった。
そもそもアベルにとって、どうもカインの「異変」は──「突き落とされたことへの恨み」の名残なのだと思い込んでいるふしがあるが、実際は違う。大きな勘違いだ。
現にアベルの回想を聞くまではカインはその日の記憶をなぜか失くしていたし、記憶を思い出した今でも、幼い頃のアベルの過ちについてはなんの呵責も湧いてこなかったのだから。
「それは、でも、こればかりはっ、そんな簡単にゆるしてもらっていい事じゃないよ!」
「アホ。逆だろ。簡単なんかじゃなかったはずだろ」
これまでカインがどれほどのひどい言葉を叩き付けても、どれだけ拒絶を示しても、アベルはを決してカインを孤独にしなかった。カインの身を案じてくれた。
その実情がたとえ途方もない罪悪感からくるものだとしても、カインのことを諦めようと思えば簡単にそう出来たはずなのだ。むしろそのほうが気持ちはずっと楽だっただろう。
けれど、アベルはそうしなかった。愛もやさしさも喪ったカインに寄り添ってくれた。それはこの五年間だけではない。今この瞬間もそうだ。
「お前は今までたくさん苦しんだ。だから、“ようやく”赦されるべきとでも考えておけ」
手を広げて、カインはそうやって話を締めくくり、「そうだろう?」と肩を竦めてアベルに答えを求める。
そういうものだろうか。そうなんだろうな。
でも。
だけど。
だって。
アベルはしばし返答を躊躇い、それから困惑した顔で一歩後ずさると、首を横に振った。困ったように眉を下げて、
「そんな、・・・やっぱり信じられない」
糾弾しないのは、カインらしくないと思った。全てを聞いてなおアベルを責めない兄の心理が分からなかった。
いつもの兄なら、そう、五年前から変わってしまった兄ならアベルをひどく責めてくれるはずなのに。
「カイン兄さんがぼくをゆるしてくれるなんて、そんな、どうして・・・今になってっ」
あの日のカインの拒絶を、アベルは今でも忘れられない。
目を閉じれば、穢れた者を見るような目つきで手を払い除けるカインの姿が責め立てるように鮮明に思い浮かぶ。
『オレに、触るなっ!汚らわしい』
アベルの中に蒔かれた五年前のカインの言葉が、今でも彼を決して赦さなかった。やさしかった兄が変わってしまったのはどう考えてもアベルのせいなのだ、と。
「だって、ぼくは、カイン兄さんを助けられなかったんだよ!?あの時崖から落ちた兄さんを見捨てて無様に逃げちゃったんだよ!?」
「自惚れんなよ。今のお前にだって助けられたか怪しいのに、ましてや五才だったお前に何ができたよ」
突き放したような客観的な意見だと思った。カインの決して優しい言葉ではない。なのにそこに縋りたくなるような不透明な憐れみのある、深い真心を確かに感じたのだ。
だからアベルの押し込めていた感情が浅く呼吸を始めたのが分かる。
(ああ、いけない)
アベルは自分の心がほんの少しだけ揺らぎ始めているのを感じる。思い通りに、動かない。
「ボクは、.......ボクはっ、」
「オレが崖から落ちたあと、お前はすぐに帰って親父たちに助けを求めた。それが最善だったのは確かだ」
自責のループから抜け出せないアベルに、カインは指を突きつけてさらに正論を突きつける。
「お前はいつも“最良”にこだわるから自分を追い詰めるんだよ」
「っ、」
「過ぎたことをいつまでも気にすんな。後ろばっか見てるんじゃねぇ」
「気に、するな、って、」
カインの言葉にアベルは喉を引き攣らせるような呻き声をあげた。それから彼は背を向けて、カインにその表情を見せないまま、
「......無理言わないでよ。気にするに決まってるよ。たとえカイン兄さんがそう納得できても、ぼくは、納得できない......!
それでもなお、受け入れられないアベルに、カインはため息を吐いた。
人を納得させるのはとにかく難しい。アベルの場合、それこそ長年にわたってその感情を持て余し続けてきたのだろうから、心のしこりの固さも筋金入りだ。
「ボクは......っ」
ふいに、うっすらとアベルの瞳に滴が浮かぶ。
「どうしても、自分が許せないんだよ.......」
言葉は尻すぼみに消えていった。
自嘲するも口の端を持ち上げるのもひどく億劫で、ともすれば息をすることさえ投げ出してしまいそうだった。
やがて、アベルは己の頭を抱えて、
「ぼくはねっ!どうしようもなく!──自分が大嫌いなんだっ!!!」
不意に、それが悲鳴的咆哮に変わる。
自分が嫌い。自分が赦せない。自分が憎い──途方もない自己嫌悪が強烈な破壊衝動となって自らの首に輪をかけている。
「どうしてっ、」
アベルの瞳に水がたまる。揺れる水面のように、陽の明かりが反射して不規則にその瞳の中できらめいた。
「......今更許すの?」
言うだけ虚むなしかった。
切実に思っているはずなのに、カインの瞳を見ているとアベルは自分の中さえも空っぽのような気がしてくる。そんな虚無感とは裏腹に、身の内に収まりきらない思いが猛り狂う一方だ。
「もう、絶対ゆるされないと思ってた。過去の過ちは一生背負って行かないといけないって、覚悟してたのに!!一生背負ったまま終えることだって覚悟もした!」
押し留めきれなかった言葉が音になって叫びに変換される。その叫びには疑念と諦念、扱いづらい複雑なものが入り混じっていた。
「なのに!こんなあっさり赦してもらえるのなら、この五年間のぼくの苦しみは一体なんだったの!?」
涙が滲んだ。悲しかったからじゃない。絶望したからだ。
欲しいのは兄からの一生分の赦しや慰めではない。兄からの一生分の呵責なのに──それがこの五年間で摩耗したアベルの心が行き着いた成れの果てだった。
「もう何もかもが遅いよ...たとえ本当に兄さんに赦しをもらっても、ぼくは、もう自分をゆるせそうにできない......!」
どこまでも頑なに罪の精算を受け入れようとしないアベルに、カインは自分がいかに、傲慢なのか思い知った。
後ろを向いたまま、過ぎ去ってしまった罪に囚われているアベル。自責の念が押し寄せて今にも潰れてしまいそうなそんな弟を唯一救えるのは自分だけなのだと、カインは驕っていた。
(そもそも今までオレの勝手で遠ざけてきたのに、今更救いの手を差し伸ばそうだなんて都合がいいにも程があるな)
自分はどれほどアベルを傷付けて生きているのだろう、どれほどの苦痛を与え続けているのだろう。
本当は気付いていた筈なのに、見ないふりをしてのうのうと生きてきた。ずっと素知らぬ顔をして空惚けた。アベルと向き合う前に、散々傷つけた割にはあまりにもアベルを憎らしく思う“理由”が無さすぎたからだ。
(それで五年も、遠回りしてしまった)
──その付が今、回ってきたのだ。
「この期に及んでっ、ぼくなんかをゆるさないでよ!」
握った拳を胸の前に押し付けて、アベルは必死に叫ぶ。
「拒むならちゃんと最後まで拒んで、それですべて終わらせてよ!」
自分の中に生まれた迷いを掻き消すように、迷う自分を叩き潰すように、今にも泣きそうな顔で。
牧畜の仕事以外で、アベルは生まれて初めてこんな大声を出した。声が枯れるほど出した。
「そうすればっ!今度こそぼくも罪を償って、やっと心置きなく消えていなくなれるのにっ!!」
アベル自身が長くひそやかに願い続けてきた終焉は、彼にとって抗しがたい力で彼を捕らえている。
そんな悲痛な弟の叫びを聞き、カインはますます自分の今までの所業がどれほど弟を傷つけたか、嫌でも思い知らされた。
(ほんと、傑作だな)
自分の行動を、考えを、落ち着いて振り返ってはっきりと痛感できる──ああしてアベルに言わせたくないことまで言わせてしまうほど、独りよがりに固まり切っていた自分の愚かしさを。
(オレは、とんでもない勘違いをしていた・・・)
母から諭され、カインはアベルにこれまでの事を、今の自分の気持ちを告白する決意はあった。
それをしっかりとやり遂げて、カインは長年の蟠りをようやく溶かして、これからは晴れやかな気持ちで家族みんなに向き合えるのだと思っていた。
そう。これまでの自分の全てを話して──、
(そんなすんなり綺麗に終わらせられるなんて、それこそ虫のいい話だったな)
当然のことだと思った。
あの不幸な事故が起きた日。事実の結果だけを見ればカインは被害者で、アベルは加害者だった。
アベルの嫌な記憶を思い起こさせ、いつまでも彼を罪責感に苦しめる。
死をもって贖罪することを決意した矢先にカインから免罪符言い渡されるのは迷惑以外の何物でもないだろう。
(本当にめでたい頭してんのは、オレの方、か)
アベルを縛っていたのはカインだと思い込んでいたが、実際アベルを縛りつけていたのは彼自身なのだ。
カインさえ赦せば、アベルの過ちはすべて綺麗に帳消しだなんてどうして思えたのか。
「──もう、ぼくのことは放っておいてよ」
気づけば、アベルは再び崖の端へと近づき始めた。
「今度は、ぼくが報いを受ける番」
一歩、二歩。
カインを見つめたまま、アベルは崖へと後ずさる。カラリと音を立てて小石が急流の川へと落ちていく。
──いつ飛び込んでもおかしくはない状況だ。
(まずい...)
このままアベルを下手に刺激し続ければ、最善どころか最悪な未来が迎えるだろう。それでは本末転倒もいいところだ。
それでも、事態を収束させる方法が全く思い浮かばない。アベルをさらに追い詰めるつもりなんてなかったのに。混乱する思考はずぶずぶと底なしの泥沼へと沈んでいく。
しかしそうして嘆いたところで、事態がまるで好転しないのもまた事実だった。
「────」
カインは遠ざかる弟の細い背中を見つめる。
あぁ、伝えられていない。まだ弟に言うべきことを言い切れていない。
カインの背中を押すように風が吹いた。
「────、」
一瞬弟の名を呼ぼうとした。
しかし、すぐに口を閉じた。
自暴自棄になった弟になおも縋ろうとする自分の弱さと浅ましさに気づいたからだ。
あれだけ自分の行いのために弟を傷付けて消えない傷を残し、心まで抉って遠ざけておきながら、どうして自分が弟の名を呼べよう。
今のカインにアベルの名前を呼ぶ資格があるとすれば、弟の名前を呼ぶことが許される場面があるとするならばそれは──、
「最後に、」
呼び止めるようにその背中に声をかけるとアベルは小さく振り返る。カインの声は大きくはなかったがアベルの耳にも届いたようだ。
「......これだけは言わせてくれ」
「別にっ、もう兄さんの口から聞くことなんて......っ」
兄が考えていることは分かっているつもりだ。だからこそあえて避けている。いくら自分の罪を許されようと、アベルは賛同できない。
しかしこれだけ避けて回って、アベルから拒絶の空気を匂わせているにもかかわらず、カインはめげなかった。
「いいから聞け。オレからの最後の言葉を聞いて、その後どうするかはお前の勝手だ。その時はオレもありにままの結果をすべて受け入れる」
「……」
アベルは迷ったが、そのうち詰め寄ってきそうな勢いのカインを見て、それ以上の拒絶を諦めた。
こうと決めたら一直線で押しの強いカインから逃げ切る体力も、精神的な余裕もないのだから。
「っ、..................なに?」
「......」
「......」
「......、」
「......、兄さん......?」
珍しく、カインが言葉に詰まっていた。彼のそんな、どこか揺らぐ姿を見るのは珍しい。黙れと誤魔化すことはあれど、言葉に迷う、なんて今までに見たことのない素振りだったから。
だから、そんな兄をアベルも思わず訝しげに見つめる。その反応を見てカインも覚悟を決めたのか、すべてを置き去りにするように、大きく一歩踏み出した。
「っ!?こ、こないでぇ......!」
「逃げんな」
怯えるように後ずさるアベルをすかさず牽制する。やがてアベルの眼前で歩みを止める。
その距離は、一歩分。あと一歩、たったそれだけ進めば、互いに触れられる距離───。
カインは、背筋をぴんと伸ばす。
「兄さ、」
弟と目が合うより早く、言葉を紡いだ。
「すまなかった」




