41話『悪夢の檻。記憶にない過去』
まさに、カインは呆然自失とするしかない。
五年前自分と弟の間に何が起きたのか、それでようやく鮮明に思い出したからだ。
記憶を探るように目をつむり、語られるのアベルの回想。それが引き金となって、カインもその記憶に辿りつくことができたのだろう。
「──────・・・・・・」
ゆっくりと、目覚め始めた記憶をなぞるように繰り広げられた過去の悲惨な光景。
今までそんな悲劇を忘れていられたのは、年月と共に風化しただけなのか。
あるいは、忘れたいと願っていた自分の心の防衛反応がそれを意識の奥底に封じ込んだのか。
「あの時カイン兄さんは確かにここの崖から落ちて、下の川に流されたんだ。どう見たって助かる見込みなんてあるはずがなかった。だから、あの時は死ぬほど後悔したよ。......自分のやってしまったことが怖くて怖くて、たまらなかったんだ...っ」
既に幼きアベルの中には答えが出ていた。兄を死なせてしまったのだ、と。
「だから、気がついた頃には、」
──兄が落された崖に背を向けてそのままアベルは家へ逃げた。
逃げて、しまったのだ。
「それからね、家に着いてからもぼくは自分の行いを家族に白状できないままだったんだ」
“カイン兄さんが川に落ちた”としか言えなかった。
自分が突き落としたのが原因だという事をアベルは言わなかった。罪の意識に押し潰されそうになりながらに、それだけは怖くて言えない。
そのため父も母も非難の言葉を口にしに来る訳でもなく、逆に労われる。兄を救う事が出来なかったにも拘わらず、だ。
それが逆に辛くて、苦しくて仕方がなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
「ここでちゃんと待っているのだぞ。いいな?」
有無を言わせないような強い口調で念押しすれば、父は家を後にした。一人で兄の捜索に出かけたのだ。
「カイン兄ちゃん......」
何もできないもどかしさと、不安から小さく兄を呼ぶ。
夜になっても、帰ってきてない。
しかし、アベルたちに思いもしなかった吉報が訪れたのは、まだ日が登りきっていない頃だった。
「アベル!母さんを呼んできなさい!カインを連れて帰ったぞ!」
ああ。奇跡が起こったのだ。
◇◇◇◇◇◇◇
「......オレは、助かったのか、」
「そうだね。お父さんがここの崖の付近を探し回って、それで瀕死状態のカイン兄さんが岸辺で見つかったんだよね。だから結果だけを見たら、ボクの兄弟殺しも未遂に終わったんだけどね」
カインは呆然と、薄く唇を開いてアベルを見つめた。色を失っていた顔が、次第に信じられない、という色に染まっていく。
「信じられん。この崖から落ちて助かるなんて到底思えない」
「──うん。ぼくも驚いたよ。正直ね、兄さんが生きているとは思わなかったから。だって、そうでしょう?今日だってもしぼくも同じようにあのまま崖へ落ちたら、助かる自信全然ないよ」
ここの崖から川に落ちて溺れ死んだら、明日の朝には水流の関係で近くの岸辺で水死体が一つ発見されていただろう。
そう言うアベルはどこか他人事で、カインはさらに追及したくなったが、彼の絶望したかのような瞳に口ごもる。
「でもそんなこと、その後に待ち受ける“罰”と比べてれば、全然大した問題じゃなんだけどね」
消え入りそうな声で、そう言い放つアベルの頬からは一筋の涙が流れ落ちた。
◇◇◇◇◇◇◇
「......お父さん!おかえり!」
カインを背負うアダムを視界に入れて、今、アベルは自分が出る限りの声を出しただろう。
「・・・・・・兄ちゃんっ!」
ずっと座り込んでいたせいで痺れた足を引き攣りながらも、床に寝かされるカインへ走り寄る。
「ぼく、ぼくっ、本当に良かった、よかった...!!」
ポロポロと勝手にこぼれ落ちる幼き涙。最初にできたのは兄の無事に心から喜び、安堵する声。
そして次は心からの謝罪をするつもりだった。到底謝って済むようなことではないが、こんな時でもアベルは兄の優しさに甘えきっていた。
かわいい弟がちゃんと誠心誠意謝れば、きっといつもの兄なら、呆れつつもそれを優しく受け入れてくれるはず────、
バシッ!!
視界が滲む中、兄に触れようとしたアベルの両手はハッキリと拒否されるように弾かれた。
「カイン、兄ちゃん......?」
「オレに、触るな!」
──汚らわしい。
明らかに今までの兄とは違う、冷たい表情に戸惑いながらも、アベルは行き場の無くなった手を下ろした。
痛む手を反対の手で押さえて愕然とするアベル。言い様のない自己嫌悪感がじわりじわりと彼を蝕む。
「アベル。辛いとは思うが、今はそっとしてやってくれないか。カインは少し混乱しているようなんだ」
アベルの肩に手を置いてアダムは優しく宥めた。
どうやらカインは生死の淵から目覚めてからは極度に人の優しさを拒絶し、触れられるのを嫌うようになったと聞かされる。
(カイン兄ちゃんは、変わってしまった)
崖から突き落とされたトラウマのせいなのか、自分を突き落としたアベルへの怒りがまだ深く奥底に根付いているからなのか。
とにかくカインはそれまでが嘘だったかのように性格が一変し、寡黙ながらも優しかった態度は見る影もなく、冷たさだけが取り残された。
やがてカインはだんだんとアベルから離れ始め、いつしかアベルが理解できない存在になった。
(ぼくのせいだ)
きっとカインが崖から突き落とされたあの瞬間、あの場所がすべての分岐点だったのだ。
あの日あの場所からアベルは逃げ出すべきではなかった。
罪に耐えしのぶ覚悟がなかったとしても、アベルがすぐにでも救助に駆けつけていれば、カインの変貌もなかったかもしれない──そんなより「最善」の結末を迎えられたかもしれない。
しかし。後悔先立たず。
一度、手の中をすり抜けてしまったそれが戻ってくることなど、二度とあり得ない。兄弟の間に開いてしまった溝は、それほど深く大きいものなのだ。
自分の手を強く払い退ける兄の姿が瞼に焼き付いて離れない。兄の発した呪いの言葉が耳にこびり付いて離れない。自分を拒絶したその現実が頭から離れない。
(泣いちゃ、だめだ)
アベルに悲しむ権利なんてない。今一番辛いのは誰でもないカインなのだ。
結果的に生きてくれたとはいえ、肉体的ダメージは大きく、精神面なんてそれ以上のものだろう。
激しい後悔の念が延々とアベルを苛む。
もしも、余計な悪戯心に芽生えなければ、もしも兄を見捨てなければ、と。今更考えても仕方ないことをつらつらと考える。
けれど、今更どう足掻いたって現実は変わらない。臆病で卑怯で情けないアベルには、もう兄の愛なんて何も残されていない。
それが分かっているのに、「もしも」という考えは留まることを知らない。
「・・・ぁ、あっ・・」
漏れそうになる叫びを必死に飲み込んで、唇を強く噛む。
ああ、きっとこれは報いなのだと、アベルは思った。
だから、
「......ごめんなさい。カイン、兄さん......」
それは幼さを捨てたアベルなりのけじめだった。
無理やり作った笑顔も、きっと誰もが見抜いていただろう。それでも、家族の中でそれに触れる者はいなかった。
もっと、痛い思いができればいいのに。
そうすればこの胸を刺す痛みに、きっと負けずに、気にしないフリができる。
もっともっと強い痛み。
拳を握るだけじゃ足りない。
唇を噛むだけじゃ足りない。
それでも、世界中のどんな痛みだって今は、この痛み代わりになってはくれない。
──その日から、アベルの罪滅ぼしが始まった。




