39話『疼く傷口を、僕はただ見ていた』★
──自業自得。
そんな言葉がカインの脳裏を過ぎる。
いつだって、アベルは手を差し伸べてくれた。「あの頃のように戻りたい」とチャンスを与えてくれた。
(それなのに、)
事情はどうであれ、そんな健気な弟をこれまで露骨に嫌悪感を示し、散々傷つけて遠ざけたは他でもないカインなのだ。
「・・・お前が、オレという人間をどう認識してるのか、この際よくわかった」
カインは踏みにじってきた。アベルの心を、つまり「愛」を。自分の中に潜む悪意に振り回されて、弟を真っ直ぐに受け入れる事が出来なかったから。
弟の優しさに甘えて、好意を無碍にするカインの冷たい言葉の刃の数々がどれほど影響を及ぼしたのかは定かではないが、それが徐々にアベルの心を閉ざし、歪ませていった。
(それらの積み重ねがこの結果だ)
最終的にアベルの心を支配していたのは、ある種の諦観と納得になってしまったのだ。
(お前をそんな風にしたのはきっとオレだ)
そんな微かな自責の念が、躊躇いを含んだ重たい唇を動かしていた。
「なぜ、お前を助けたの理由なんて正直、オレ自身もよくわからない。目覚めて後に、アズラが家に駆け込んで助けを求めてたんだよ。お前が崖っぷちで一大ピンチだと。オレは、それを聞いた途端───気がついたら、ここに来てた。家から一番近い崖と言ったらここしかないからな」
そして、カインは一拍おいて、また語り始める。
「だから、深い理由なんてのはない。あえて言えば、お前を助けなきゃいけない衝動に駆られた、からだ」
答えは至ってシンプルなもので、「自分がそうしたかったから」だという。
だが結局はそこ到達する理由が分からず、いまだにアベルはいまいち納得しきれていない様子だった。
(それってなりふり構わずにぼくのことを助けに来た、とでもいうの......?)
むしろ、そうだとしか聞こえない。
そんなはずはない、と頭の片隅で叫び続ける自分を抑えきれなくて、アベルはぐっと拳を握った。
「......兄さん、それは矛盾しているよ」
一瞬でもこの期に及んでまだ兄の善意に期待しようとする自分に嫌気すらさす。これまでの日々、兄からの拒絶を浴びせられることばかりだったはずなのに。
(そう...もうこれで最後。今日で何もかも終わるんだから...)
そう強く自分自身に言い聞かせ、アベルはそれ以上の追及を諦めたのだった。期待して勝手に傷つくのはもうやめたのだから。
「あんなにボクのこと、嫌ってたじゃないか。眼中にもなかったじゃないか。なら、.......どうして今更そうやって兄さんからボクに歩み寄ってくれるの?」
崖から落ちる寸前までもうダメだと死を覚悟していた。だが、結果的にアベルが命拾いしたのは事実。奇跡とすらも思う。そしてその奇跡をくれたのか、間違いなくカインなのだと。
だからこそ、尚更カインがアベルを助けてくれる理由なんて到底思い付かない──今までのカインの態度や行いもそうだが、拭い去れないある過去のトラウマの記憶が、そう強く刷り込ませる。
「せっかく...諦めそうなのに...もう、カイン兄さんに近づかないって、離れようって、ようやくその決心がついたのに...」
「諦めるって、なんだよ......」
「──ぼくね、もう疲れちゃったんだ」
期待して、期待して、期待して、その積み重ねたものがまた崩されるとき、アベルは今度こそ立ち直れないし、誰かを信じる心を喪失してしまうそうでならない──それを恐れる気持ちが、ついにアベルに再びカインと向かい合い続ける時間を諦めさせた。
「どうしたら兄さんに許してもらえるのか、もう悩むのやめることにしたんだ」
いつか遠ざけられるぐらいなら、自分から遠ざかってしまった方がいい。
だから、
「丁度さっき、その簡単な償い方を見つけたし」
そう言ってアベルは、ぎゅっと強く目をつぶって下を向き、
「ほんと、神様は意地悪だよ...。よりにもよってこの場所で助かっちゃうなんてね、それも助けてくれた相手が、カイン兄さんだなんて... あ、はは・・・本当参ったなぁ...、」
弱々しい微笑み。それは微妙に気に入らない。カインは内心でふつふつと感じ入るものがありながらも、
「・・・さっきから聞いてれば、なんかオレには助けてもらいたくない言い方だな。ハッ!なんだお前、死にたいのか?」
「────」
不意に押し黙るアベルの返事を、カインはじっと構えて待つ。
アベルの瞳の揺らめきが、彼の中で起こる激しい葛藤の様子を伝えてくる。
迷いと戸惑い、罪悪感と自己嫌悪。
様々な感情がアベルの細い体の中で荒れ狂い、食い破ろうと暴れ回っている。
やがて、小さな声で、
「そうだね。死のうと、思った」
まさか肯定の相槌のみならず、はっきりとした意思を返されるとは思わず、カインは目を見開いた。
「あのままあの崖から助からなくても、それを罰だと甘んじようと思ったよ」
次いで紡がれた言葉のその響きに、カインは絶句するより他になかった。
混乱を押しのけて無理解が押し寄せ、言葉が浮かぶより感情がわき立つより、なによりも先に心が空虚な痛みに翻弄される。
「だって、ボクはカイン兄さんに助けてもらう資格なんて、ないから」
「・・・おい、冗談も休み休み言えよ。アズラに助けを呼びに行かせたのはお前だろうが」
「うん...。初めはそうだったかな。でも、あの崖から落ちる瞬間、思い出したんだ」
「思い出したって、......なにを?」
「......なにって、決まっているじゃない」
言葉を切り、アベルは弱々しい光を瞳に宿してカインを見る。
「──ぼくの、罪を」
瞳に浮かべるのは涙ではない。ただただ空虚で、諦観に満ちた絶望だった。
「それはずっとぼくのことを責め立てて、ここから助かることを許さないんだ。だから死んで償おうと思ったんだ」
「おい!さっきから何を訳のわからんことを言ってんだ!罪だの、償うなの!全然話が見えてこねぇよ!」
「急じゃないよ。長い間ずっとその罪はぼくの心の奥に巣食っていたんだ。卑怯なぼくが今日までそれにずっと気づかないフリをしていただけなんだ」
「じゃあ言えよ、お前の罪。それが一体なんだってんだよ」
「......カイン兄さんは一番わかっていると思うんだけど」
そこでアベルはゆっくりを頭を上げ、意味ありげに周囲を見渡した。
「ここってさ、懐かしいよね」
質問には答えず、まったくの藪から棒にそう呟いたアベルにカインは胡乱げな視線を投げずにはいられない。
そんな彼をアベルは無意識に見ようとせず、話を続ける。
「......カイン兄さんは覚えている?」
まるで試されているかのように尋ねられたカインは視線を彷徨わせて逡巡し、十秒ほどの時間をかけてから答えを導き出す。
「......知らん」
「.............、本当に?よく忘れていられるね」
否定の言葉を吐くカインを見つめるアベル瞳に、チラリと剣呑な色が過ぎった。
だがそれも一瞬のことで、アベルは、自分でもおかしいと思うほどゆっくりとした口調で、カインに尋ねた。
「......それとも、カイン兄さんも忘れたフリをしているの?」
その口調とは裏腹に、壊れそうなほどの感情がアベルの心の中で暴れまくっている。
兄の両肩を掴んで、揺さぶりたかった。揺さぶって、兄に向かって大声で叫んでやりたかった。忘れるはずがあるものか、と。
「忘れたフリもなにも、オレがここへきたのは今日が初めてだ」
はっきりと言い切るカインに、アベルの瞳は揺れた。
覚えていないカインに失望したのとは違う、どうしてか、ひどい言葉を投げつけられたかのように傷ついた顔をした。あのときと、同じ──、
(あのときって、いつの時だ......?)
刹那に浮かび上がる自分の記憶の違和感にカインは「おい、」と口を開きかけた。けれど、アベルがそれを遮るように言葉を発した。
「ここはね、......ぼくとカイン兄さんが昔一度だけ遊んだ場所なんだよ」
「・・・こんな危険な場所でか?」
「うん。そうだよね。ここって遊び場には向いてないよね。でもね、秋の季節になるとここはすごく綺麗な紅葉林になるんだよ。だからあの頃のぼくはわがままを言って、兄さんに連れてきてもらったんだよね。あの時はすごくワクワクしたなぁ」
顔を俯いて、アベルが淡々と語るたびに、記憶の奥で蝕むように何かかが疼くのを感じて、カインは目を伏せて表情を誤魔化す。
「秋の季節だったから、紅葉もひらひらで、とっても綺麗で、勝手に先に進んじゃって、隠れん坊して、ぼくを探して回る兄さんを困らせてたよね」
聞きたくない。
聞きたくないのに、耳を閉ざすことはできない。
「やめろ・・・今はそんなの話してる場合じゃないだろ?本題から逸らすなよ」
「うん?別に、逸らしてないよ」
「逸らしてるだろ!じゃあ、昔の遊び場だったこの場所と、お前が助けられる資格はないってほざくの、なんの関係があると言うんだよ」
いい加減に話の趣旨が見えず、カインはやっぱりと露骨に苦々しい顔をした。しかし、それに対してアベルが示したのは「当惑」だった。
「びっくりだな・・・・・・もしかして・・・まさか、本当に忘れちゃったの?」
どういう、意味なのだろう。分からない。アベルの真意が分からない。
耳鳴りがガンガン聞こえる。じりじりとカインの後ろから得体の知れない恐怖が追いかけてきているような気がする。
「そう......忘れられたんだ......」
「でも、ぼくは思い出したよ」
アベルはゆっくりと顔を上げる。
すべてがスローモーションに見えた。
「全部、思い出したんだ。いや......少し違うかな」
思い出したのではない。
目を逸らし続ける事をやめただけ。
気づかないフリをするのをやめただけなのだ。
「──ここ」
それだけ言って、その目を動かし、アベルの視線は先程自分が落ちた崖の一点へ。
「......そこが、なんだってんだよ......」
掠れたカインの問いかけに、アベルはゆっくりと崖際まで近づき、カインに示すように眼下を指差す。
「──ここから、カイン兄さんが落ちたんだよね」
一瞬、沈黙が走り去る。
アベルの言葉に理解が追いつく前に、次に発せられる言葉の続きが、カインの脳内を空白で支配した。
「ボクに、後ろから押されてさ」
ああ、とうとうカインは背後から迫る悪夢に追いつかれてしまったのだ。




