38話『言葉が錆びついて聞こえないや』
逃げたかった。
だから、いつもみたいにのほほんと笑って誤魔化そうとした。
──なのに、
「おい、そうやって笑ってはぐらかすな。オレは真面目に聞いている」
即座に退路を断たれる。カインはアベルに逃げ道を与える気はないようだ。
強情なその姿勢に動揺を覚えながらも、アベルは視線を端っこの崖へ移動させた。
「こんな狭い崖沿いの道。素人の目から見ても放牧の帰り道には適さないのは分かる。なのに、お前はわざわざ帰り道として選んだ。なぜだ」
遊牧民としては適切でない判断と行動。カインはそう言いたいのだろう。わざわざ危険を冒すなんて人としても正気な沙汰ではないと言ってもいい。
「・・・・・・ごめんなさい」
「謝罪が聞きたいわけではない。理由を聞いているんだ。お前の軽率な行動で羊が崖へ転落し、結果妹まで巻き込んだんだぞ」
「……、それは……」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。いよいよアベルは額を押さえて言いづらそうに言葉を濁す。その不自然なほどにはっきりしない態度も気にかかったが、カインが追及したのはそちらではなく、
「さっきからオレと目を合わそうともしないのは、その下手くそな笑い方と関係あるのか?」
「!」
何かを隠しているような、物分かりの良い子を演じたよそよそしい笑顔。──その仮面が暴かれた瞬間、柄にもないアベルの虚飾は瓦解する。
「あは、は…、なに、下手くそな笑顔って…、ぼくに笑うなってこと?いくらなんでも手厳しいなぁ」
「ちげーよ。見てらんないってことだ。らしくもねぇ笑い方をしやがって、今のお前の様子どう見てもおかしいの明らかだろ。笑うならいつものアホみてぇに笑え」
「────」
カインが先ほどから胡散臭いとすら思えたその張り付くような微笑は形もなく消え去った。
代わりに浮かび上がるのは叱られるのを待つ幼子のような、弱々しい表情だ。その表情が、カインの中の遠い過去に残されたアベルと重なる。
今でこそ想像できないが、あの頃のアベルはやんちゃでよく悪ふざけをして、カインに叱られた時なんてそれこそ今と寸分変わらない表情をしていた。
カインが成長したように、アベルもまたあの頃から随分と大人びたとはいえ、カインの中ではやはり、アベルはアベルのまま。
「なあ」
「────」
沈黙が返る。だが、それは返事を保留してのものではなく、アベルなりの拒絶だった。
「言いたいことがあんならハッキリ言え」
しかし、それをわかっていたからこそカインは敢えて沈黙を甘受するアベルを許さず、容赦なく促しの言葉を形にする。
向かい合い、互いに形の違う複雑な感情を抱えながらも、それでもこうしてあの死地から生き延びて、こうしてまた言葉を交わす機会を得られたのだから。
アベルはしばらく俯き黙り込んだ。
その沈黙の間に何を考え、何を感じているのかはわからない。次に顔を上げて前を向くアベルの瞳に影を差すのは──『猜疑』。
「どうして、」
「あん?」
「どうして、助けてくれたの?」
口を突いて漏れた言葉に驚いたのはアベル自身だった。
どうやら無意識に言葉を漏らしたようだが、今さら誤魔化すほど器用でもないので、半分投げやり気味でアベルはさらに言葉を重ねる。
「──あんなことがあったのに」
“あんなこと”とは、きっと熊襲撃の件のことだろうとカインは直感的にそう思った。
「・・・気にしてるのか」
話を変えるなとか、オレの質問に答えていないとか、色々思うところがあるものの、それでもカインがそれ以上追及せずに応じたのは、アベルの様子があまりにもいつもと違って尋常なく暗かったからだ。
「当たり前じゃないか。ボクのせいで、お父さんもカイン兄さんも酷い目に遭ってるんだから。これで平然とできる方が、どうかしてるよ」
「なら、お前はオレも親父もお前を責めていると思ってるのか」
さらりとカインが言うとアベルは虚を突かれたような顔になり、すぐにさっと顔を逸らした。
「だって、そうでしょう?それとも、まさか違うとでも言うの?」
「ああ」
カインが即答した直後、
「嘘だよッッ!!!」
アベルの感情が爆発する。なんの前触れもなかった。
穏やかで、これまでも怒ったりすることがなかったわけではなかったけれど、それでも感情的になって枷が外れることは一度もなかったはずなのに。
その枷が外れて、溢れる感情をそのまま口にするアベルは、
「なんで!そんな白々(しらじら)しい嘘を言うの!?熊からボクなんか庇ったばかりに!カイン兄さんは大怪我して!それに、お母さんから聞いたよ?その右目の傷だって、一生消えずに残るんだよね!?そんな碌な目に遭わないのに、なんでボクを責めないの!?なんでこうしてまた助けるの!?やっぱりボクなんかと関わらなければよかったって普通は思うものでしょう!?」
怒涛の如く心の内を吐くほど、ますます感情が制御できない。
「ぼくを憎んでいないなんて、そんな虚しい慰めなんていらないよっ!!」
一度爆発したそれは堰を切ったように溢れ出し、微笑の仮面をかぶった臆病者の顔を涙で盛大に汚していく。
それが目に焼き付けられても、カインは平静にその感情の波を受け止める。
「嘘でも慰めでもない。オレは事実を言ったまでだ。熊からお前を庇ったのはオレの勝手に過ぎない。それでオレとお前を逃すために熊と闘ったのも親父の適正な判断」
自分と父の行動は正しかったと、カインは面と向かって言い切った。
「────、」
言外アベルを憎む理由はないという発言に即座に言い返そうと、アベルは口を開いた。だが、何かに胸を突かれたように声が喉から発されない。
それを見て、カインは言葉を続ける。
「最悪の状況を回避するために、熊を仕留め、後始末したのはお前だろう。そんなお前の覚悟を、なぜオレらが責める必要がある?それこそお前を責めるのはお門違いだろうが。オレはそこまで性悪に成り下がった覚えはない」
「最悪の状況を、回避……?これのどこが……!?」
「みんなにとっての最悪の状況は回避されただろう?」
「……っ」
確かに全員は助かった。
アベルにとっての最悪の状況は間違いなくアダム、あるいはカイン、家族の誰かを喪うこと。
「“最善”と“最良”は違う。そうだろ?」
分かってる。分かってる、そんなことは。
『最良』とは──何事も起こらず、家族全員がいつも通り無事に家へ戻ってくることだったはずだ。
それなのにアベルは早く家へ帰るようにという父の言いつけを破り、熊がまだ徘徊しているかもしれない森の中──いくら兄の身を案じたとはいえ──独断行動で足手纏いの結果、アダムとカインは重傷を負い、命まで脅かされた。
「確かにお前は“最悪”の可能性を引き起こしたが、最後にはちゃんと“最善”に変えた。それでいいだろう」
あのままアベルが勇気を振り絞って、決死の覚悟で父を探しに行かなかったら──『最善』を取らなかったら、家族みんなが揃う未来はそこで永遠に閉ざされるという『最悪』が待ち受けていたのだろう。
けれど、それでも、
「だからって……!お父さんも兄さんも傷つけられた結果の最善なんてボクは“それでいい”って納得できない!」
こんな終わり方で良かった、まだマシだなんて言えない。言えるわけがない。
「最悪じゃないから、責めなくてもいいってことじゃないでしょう!?“終わりが良ければすべてが良し”なんて済まされないっ!」
そう言い放ったアベルの視線は今度こそまっすぐにカインの右目の傷跡に留まる。その傷跡は相変わらず原因であるアベルを強く非難しているようだった。
そうだ。『不幸中の幸い』という理由に、こんな結末を誰も手放しで喜べはしない。
(そんなこと、本当は兄さんにだって分かっているはずじゃないか…)
眉をかすかに寄せ、唇を噛み、アベルはカインを睨む。睨んでいるのだが、まるでそれが今にも泣き出しそうな顔にカインには見えた。
「やっぱり、わからない。どうしてカイン兄さんが今こうしてぼくの前にいるのがわからないよ……」
その瞳が再び猜疑と悲嘆に潤むのを、カインは確かに捉えた。 未だかつてないアベルの否定的な態度に息を呑み、カインは彼の次なる反応を無言で待つ。
「……最初はね、助けに来るとしたらお母さんか、アワンあたりだと思ってたよ。お父さんはこの時間は狩りに遠出してるはずだし、だから、」
一呼吸置いてから続ける。
「ボクなんかを助けに来てくれたのがよりにもよってどうしてカイン兄さんなのが、どうしても理解できない」
「・・・それだけオレはお前にとって信用に値しないってことか」
カインが漏らすそれはあまりにも身勝手で、自分本位で、独りよがりな言葉だった。
言ってはならない言葉だった。それは長年弟を拒絶してきた人間が口にしていい言葉ではなかった。
「だって…、」
アベルを庇って血染めになったカインの無惨な姿が脳内にまた再び過ぎる。
そのまま自分の内側で起きた感情の波を落ち着かせるように時間を置き、アベルは瞑目したまま静かに、
「迷惑しか掛けない大嫌いな弟を、わざわざ助けに駆けつけくれるって信じれるほど、」
顔を背けたままどこか諦めたような、静かな声音がカインの耳に届く。
「さすがのボクもめでたい頭なんかしてないよ」
アベルには珍しすぎる負の感情を込められた皮肉に、さすがのカインもついには言葉を失った。




