37話『いつもと違う君』★
訪れるはずの終わりを待ち構えるアベルだったが、訪れるはずのそれがいっこうにやってこない。
「・・・・・・?」
訝しげに眉を寄せて、アベルは「死」がタイミングを外してきていることに内心で不安を覚える。
(なにが、起こって......?)
恐る恐るそっと瞼を開いてみる。
(縄......?)
目の前に、真っ直ぐに伸びた縄みたいなものが映る。
いや、よく見ればそれは鞭のような形状をした木の枝だった。どこか既視感を覚えるそれがアベルの体に纏わりついているのだ。
(これでぼくは助かったんだ)
おかげでアベルは崖下の湖に落ちることなく、あと少しで急斜面へ真っ逆さまになろうとしている体勢で動きが止まっていた。
そうしてアベルが置かれた自分の今の状況をうまく掴めずにいれば、
「相変わらずお前は手の掛かるやつだ」
「......!」
突然訪れた懐かしいとした感じさせる声に、アベルが視線で伝っていけば、
「カイン、兄さん......、」
その先には、崖の近くに生える大樹に手を添え、仁王立ちするカインの姿があった。
(助けが、きたんだ......)
きっとアズラが頑張って、呼びに行ってくれたのだろう。
今アベルを捉えるこの縄のようなものは、よく見れば崖付近に生えた大樹の枝の一部をムチに変形したもの。
これもきっとカインの《神の豊穣》の力だろう。カリスマ特有の金色のオーラをまとっているのがその証拠だ。
いや、そんなことよりも、
(なんで、カイン兄さんが...)
予想外の相手に恐怖、焦り、喜び、とは別に戸惑いも大きく、さまざまな感情の昂ぶりが混ざり合い、雫となって頬を伝っていく。
一粒の涙は、全身に流れる汗よりずっと熱かった。
カインは木の枝を操り、アベルをゆっくり地上へ上げる。
地面に下ろされるアベルは立ち上がろうとしたが、脱力してすぐに地面に倒れ込んでしまう。
「家畜の方は助けられなかった、か。まぁいい。おい、無事か」
歩み寄ったカインは、アベルを見下ろした。
お互いに目が合う瞬間、今更ながらの死ぬ瞬間の恐怖がアベルを襲った。持て余す恐怖の余韻のせいか、アベルは涙を溢れさせ、カインにしがみついた。
「兄さん......!」
「......っ、おい、」
あのカインに対して縋りつくなんて平常時には到底できない行動。弱音なんて本当に恐怖で追い詰められていたからこそ、言えた言葉だ。
そんなアベルにカインは特に慰める訳でもなく、しばらく静かに見下ろしたあと、
「......もう、お前の命を脅かすものは何もない」
──それだけを告げた。
◇◇◇◇◇◇◇
それから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
アベルを無事に救出したにもかかわらず、カインはずっと静かに佇んでいた。アルマジロのように身体を丸めて縮こまったアベルに話しかけることもなく、沈黙を保ったままアベルのそばにいた。アベルから一歩も離れようとはしなかった。
(今までだったら、すぐにぼくを置いて一人でスタスタ帰るのに)
どうして立ち去ろうとしないのか、アベルは理解に苦しんだ。そして、カインと視線と合わせないように、少し目を伏せた。
兄の目を見るのが───怖い。
そんなことを考えながら、アベルは涙で腫れた顔を両膝の間に深く埋めて過ごした。少しでも平静を取り戻したくて。
(兄さんに泣きついてしまった。まるで助かったことを安心したみたいに)
罪を償う覚悟をしたはずなのに、今もアベルの体の震えが止まらない。覚悟と現実は相違無いと思っていたけど、実際に対峙すると臆してしまうのは弱さ故にか。
沈黙を破ってカインの溜息が聞こえ、思わず掌を握り締める。
「少しは落ち着いたか?」
何も言われることが無ければそのまま流そうとした、少し卑怯だと思ったがこれが精一杯の抵抗。きつく唇を噛締めて伏せた目を泳がせる。
「うん...付き添ってもらっちゃってごめんね」
「別に。謝ることではないだろ」
また迷惑を掛けてしまったアベルをカインは爆発的に怒ると思っていた。
現にそれを予感させるほど空気が張りつめた気がして身をすくめたのだが、意外にもカインはアベルを気に掛ける短い言葉を投げるだけだった。
「怪我はないのか?」
そう言葉をかけられて、アベルはようやく顔をあげる。こちらへと歩いてきていたカインの表情は、覚えている限り以前までの兄のものとさして変わりはないが、まるで心配するようなカインの発言は大いにアベルを驚かせた。
お互い顔を合わせていないこの数ヶ月、しかもカインが昏睡生活をするうちに、彼の中にも情のような何かが芽生えたのだろうか。
……あまり、現実味のない想像だ。というよりも、今となってはどうでもいいことだった。
「うん......、もう、大丈夫だよ!」
「......、そうかよ」
アベルの小さな笑みは、いつも彼が浮かべるお愛想のような微笑に似ていて、けれどもなにかが決定的に違った。カインはそれを即座に気づきながらもあえて触れなかった。
二人の間に不自然な沈黙が訪れた。
気まずい。とにかく気まずい。
だから、アベルは下手くそなほど白々しく話題転換をした。
「そういえば、カイン兄さんが目覚めて、本当によかった.....!みんなずっと心配してたから」
「ああ。今朝に意識を取り戻した。そんでお前はしばらく見ないくせに、また人騒がせしてるな。病み上がりに手間掛けさせやがって」
「うぅ...、返す言葉がないよ」
この無頓着な態度。辛辣な言い返し。
なんだか無性に懐かしい。
もう二度と訪れないこのやりとりが、またこうしてできる日が来たことを喜ぶべきなのに、アベルはどこか複雑な心境だった。
「助けてもらったぼくが言うのもなんだけど、カイン兄さん病み上がりなのに動いて大丈夫なの?もうしばらく安静にしたほうがいいんじゃ...」
「問題ない。母さんの治療で熊にやられた右目の傷もほぼ塞がっている」
「熊」──以前自分たちの命を脅かした単語が出された瞬間、にわかに空気がぴんと張りつめた一本の糸のように、緊張で満たされる。
カインの言葉に心の底から安堵しながらも、お世辞にも綺麗に残ったとは言えないカインの右目の大きな傷跡──それに、アベルの目が無意識に移る。
「右目は、大丈夫なの?」
思わず零れ出た言葉を、アベルはすぐに後悔した。できればすぐにそのまま捕まえて、遠く投げ捨ててしまいたいような気持ちになった。
しばしの逡巡。
一瞬本当のことを正直に言うか迷ったカインは、しばらく額を押さえると、
「......、失明は免れなかったらしい」
「────」
他人事のような口振り。静かに、しかし揺るがしようがないほどに重々しく響いた。
告げれた瞬間、アベルの瞳には確かに後悔や罪悪感が強くと滲んでいて、兄に消えない傷跡を残させた後ろめたさがあるのだろうと思った。罪の意識が今アベルを容赦なく蹂躙しているのだろう、とも。
「言っておくが、お前を責めているわけじゃないからな」
「......ごめん」
「だから、謝るんじゃねぇ。謝罪が欲しくて事実を言ったわけではない」
案の定沈痛した面持ちで謝罪が投げられた。だからカインもすかさず釘を刺すように牽制すれば、アベルも努めて平静を装いながら視線を逸らた。そして、消えそうなほどの声を漏らす。
「もう、あんな無茶は、しないでほしいな」
「それは、お前次第だろ」
「うん......そうだね。ボクがいつもドジするから、昔からカイン兄さんにいつも助けもらってばかりだったね」
努めて明るく振舞うアベル。何でもないと言われればそうかもしれないと思うくらいに声音だけは明るい。
けれど表情がどこか影を背負っている気がする、それはきっと僅かな人しか気付かない程度のものだけれども、カインにはそう感じ取った。
「確かに、そういう意味ではお前は昔と何も変わっていないな......」
「そこ限定?......さすがに他にも変わられたところ結構あると思うけど」
「強いて言えば、我儘ばかり言う生意気なクソガキじゃなくなったぐらいだろ」
「え〜それってなんだか微妙......。だって、ぼくって今十才だよ?さすがに昔と比べて精神的に成長するし、いつまでもあの頃みたいにわがままを言う幼子じゃないんだよ?」
眉を下げてふにゃりと苦笑するアベル。──こうして弟と何気ない会話を交わしている間、カインは自分の心の流れが予想外に穏やかに進んでいることに内心ひどく驚いていた。
執拗にカインの心に蔓延った曇り空も徐々に消えていく。
今アベルと交わす何気ない言葉が静かに波打っている。大気を震わせる音ではなく、頭蓋の内側に直接言葉が染み入ってくる不可思議な感覚。
カインをイラつかせるばかりであったアベルの笑顔を見ていれば、カインの中にもうかつての黒い気持ちは浮かばなかった。
そして、そんな自分の心に起きる好転をカインは不思議と素直に受け入れられた。
(そういえば──、)
カインはここへ駆けつける前、家に飛び出す瞬間母に引き留められたことを思い出す。
◇◇◇◇◇◇◇
「カイン!あなたまだ病み上がりなのよ!」
「それでも、行く。行かなきゃならない」
「・・・そう。それがあなたの答えなのね」
不意に、カイン額に何かが触れる。ゆっくりと、撫でる。それは母の慈愛に満ちた指先。
「何を、」
「──《神の愛》」
エバがカインの額に添えた手に力を込める。不思議そうにカインが母を呼ぶのと、カインの体が光に包まれるのは同時だった。
「これが母のカリスマなのか......?」
「うふふ、まぁそうね。無事仲直りできる“おまじない”よ。頑張ってね。いってらっしゃい。アベルのこと頼んだわよ」
◇◇◇◇◇◇◇
(これも母さんの・・・おかげなのか?)
触れられた額から暖かな力が流れ込んできて、まるで浄化したかのように、これまでずっとカインを苛み続けた、不可解な「悪意」は影も形もない。
これが《神の愛》の力なのか。
おかげで今のカインは自分の感情に余裕を持てるようになった分、今度は相手の僅かな異変にも目敏く気付けるようになれたのだ。まずは、
「おい、」
「え?」
カインはアベルの仕草の違和感に気づいた。
──手の動きが、いつもと違ってぎこちない。
自分の両方の手のひらを庇うかのように交互に握ったり離したり忙しなかった。
「見せてみろ」
有無言わさない口調で若干強引にアベルの手を取って、掌へと裏返す。
「──!」
アベルの左右の手のひらの皮はパックリと裂けていて、血が滲んでいた。
「こ、これは、えっと、」
「お前・・・、大丈夫って言ったのに、やっぱり怪我してんじゃねーか」
アベルは返す言葉がなかったのか、バツが悪そうにしょぼんとするばかりだ。
「チッ、止血になってないな」
カインは携帯する織物で作った袋から取り出したのは、アベルにはあまり馴染みのない綿の布。
それを石刃で裂き、包帯を作る。正方形に折った綿布を当て、その上から包帯を巻いた。
「本当は切り傷は綺麗に洗って放置が一番だが、今は、血が出ている上しょうがない。痛いと思うが我慢しろ」
「・・・・・・うん。・・・あの、カイン兄さん」
「なんだ」
「ぼくを、怒らないの?」
「なんで」
「迷惑、掛けたから・・・」
「・・・別にそれはいつものことだし、今更なんとも思わん」
すっと、アベルの表情がいつもと違う色を帯びたような気がしたが、アベルがすぐに顔を俯いたために、カインには判断する暇がなかった。
「そもそもお前一人でどうにかできる問題でもなかっただろ。むしろ、お前もアズラも無事なら上々なもんだ」
それは、珍しいことにカインなりの慰めだったりしたのだろうか。その時に載せられた手の感触はあたたかくて、優しくて。
(なんで)
普段、そんなこと全然しないくせに、こういう時に限って変に気を回せるの、やはり兄は狡い。これではまるで昔に戻ったみたいではないか。そう思ったら、アベルは無意識に傷の手当てをされた掌を握った。
「...まさか、兄さんに励まされるなんて思わなかったな。どうしたの?なんだか、らしくないね。明日は雪が降ったりして...なんてね、あはは」
「・・・らしくないのはどっちなんだか」
「え?」
「お前とアズラは放牧の帰りだったんだろう。なぜよりにもよってこんな狭い道を選んだ?」
忽ち、アベルの笑顔が凍った。
カインが疑惑を向ける事実が、アベルにとっては後ろめたさに値するものだったからだ。
「お前、何を考えている」
初めて見るアベルの様子に、カインの疑惑はますます強まったのだった。




