1話『人の名はアダム』★
──すべての始まりは「闇」にあった。
まだこの世界が「無」に支配されていた時、初めに神は天と地を創造された。
大地は形なく、空しく、闇が淵に澱む。
神の御霊が水面の表を覆っていた。
神は〈光 あれ〉と言われた。
言霊と共に散った目映い聖なる光が、闇を侵食し、迸る。すべてを呑み込んでいた漆黒の闇はするりと静かに身を引いた。
神はそれらを良しとし、【光】と【闇】へと分けられた。
光の目覚めを【昼】。
闇の微睡みを【夜】と名付けた。
そして夕となり、また朝になった。
──それが第一日目である──
◇◆◇◆◇
次に、神は言われた。
〈水の中に大空あれ
水と水を分けよ〉
世界は【水】を知る。
無限に包み込む水は浸ればまるでかつての闇のようであった。
神はさらに【空】を創り、空の上下にそれぞれ水を分けられた。それを【天】と名付けた。
そして、夕となり、また朝となった。
──第二日目である──
◇◆◇◆◇
また、神は言われた。
〈天下の水よ 一つ所に集まれ〉
〈乾き大地現れよ〉
水の揺蕩う海が現れた。
光に照らされキラキラと光るそれは、世界には眩し過ぎるからこそ、乾いた大地と調和していた。
神は乾いた大地を【陸】、
水が集いし所を【海】と名付けられた。
さらに、神は言われた。
〈地は種を持つ草と
種ある実を結ぶ果樹を芽生えさせよ〉
世界は緑に彩る。
生まれたばかりの草や花、果実の芳香は世界を活力に満ち溢れさせる。
そして、夕となり、また朝になった。
──第三日目である──
◇◆◇◆◇
神は言われた。
〈天の空に光ありて 昼と夜を分けよ〉
〈しるしの為 季節の為〉
〈日の為 年の為になり〉
〈天の空にありて
地を照らす太陽となれ〉
神は二つの光を創った。
大きい光は昼を司る【太陽】、
小さな光は夜を司る【月】と【星】となった。
そして、夕となり、朝となった。
──第四日目である──
◇◆◇◆◇
神は言われた。
〈水が生き物の群れに満ち〉
〈鳥は地の上 大空を飛べ〉
海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物たちは光に照らされ輝く。その中の一部は光を遠ざけ、暗い水の底の闇に生きた。
神はそれを見て良しとされ、祝福した。
〈生めよ 増えよ〉
〈海たる水に満ちよ 鳥は地に増えよ〉
鳥は光の中を舞い、風を運んだ。疲れたものは羽を休め、水に潜り、地を駆けた。
そして、夕となり、また朝となった。
──第五日目である──
◇◆◇◆◇
神は言われた。
〈地はそれぞれの生き物を産み出せ〉
〈家畜 這うもの 地の獣を〉
〈それぞれに産み出せ〉
忽ち大地には様々な動物で溢れかえった。
強い動物も、弱い動物も、
大きい動物も、小さき動物も、
あらゆる動物が平和共生していた。
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──これで、終わるはずだった。
神は、彼は生命に満ち溢れる蒼い球体を見つめ、この先どうあっても、己が孤独であることを知る。
孤独の中で悲しみ、苦しみ、悩み、
退屈を持て余し、
絶望の果てに全てを滅ぼす事を。
──きっと、これが最期の別れとなる。
終焉の先に心震える瞬間を知らぬ彼が、それでも数多なる命の誕生を祈るのは、これから永く永く眠るまでの憂さ晴らしに過ぎない。
これが、単なる気まぐれでもよい。それがいつか【希望】となれば、それもまた一興。
嗚呼、願くば、
彼の子に幸あらんことを。
──さて、
〈我に似せて、【人】を造ろう〉
◇◆◇◆◇
神は御自身の姿を象って、
地面の土の塵で【人】の形を創り、それに命の息を吹き入れる。
〈人よ
海の魚 空の鳥 家畜 地の獣
地を這うものすべてを支配せよ〉
生命を司る音が鳴り響く。
人の形は神の特性を宿り、
──“生きる者”となった。
その音を最後に、神光が霧散する。
そして、
何もかもが消えてなくなって──。
呪いの影が蠢く。
◇◆◇◆◇
「ん…ここ、は……?」
白銀の髪。
瞼に影を落とす長い睫毛。
通った鼻筋。薄くて横に伸びる唇。
「わたし、は、……だれだ?」
何よりその鍛えられた筋肉質の巨躰と、どこか儚げで無防備な表情がアンバランスさを強調している。
これこそ、神が創造されし最初の【人】──人類の元祖である。
神はそれをこう名付けた。
〈“アダム”〉
スッと、声の主の呼び掛けに応じて、人は重い瞼をようやくゆっくりと開けた。──そこからは黄金の輝きを放つ瞳を覗かせる。
「アダム…?それは、わたしのことか?」
〈左様〉
再びアダムの脳内に響く、無機質な声。
「また…、音がきこえた。一体どこから?」
〈我は汝を創造せし者
汝が我が姿形を見出す事はない〉
人──アダムは周囲を見渡したが、声の主は依然として姿を見せない。いや、姿を見せるつもりがないようだ。
〈汝 人とありし者
使命を以て生まれし者〉
〈アダムよ
汝に役目を授けよう〉
「わたしの、やくめ…?」
目覚めてから未だ完全に覚醒しきっていない人間の脳が、怒濤のように与えられる情報の内容を処理しきれない。
〈頭を上げ よく見よ〉
「これは……」
一面の緑の世界。
大自然の姿が遠くアダムの眼の前に広がっていた。
豊かな木々。大小の渓流。
巨大な岩や切り立った崖。
さらに、その壮絶な風景には様々な生き物たちが溶け込んでいる。
「すごい……!」
思わずアダムは感嘆が漏れる。
まさに、森羅万象の象徴がそこにあった。
それらすべてがアダムの視界を彩る。
〈生めよ 増えよ
地に満ちよ 地を従わせよ〉
〈海の魚〉 〈空の鳥〉 〈地の獣〉
〈全ての生物を 汝が治めよ〉
「わたし、が?」
アダムの戸惑いの声に呼応するように、一筋の風が通り過ぎた──まるで歓迎するかのように彼を包み込んだ。
「ふむ。つまり、ここの統治者になってほしい。そのためにわたしがつくられた、ということだな?」
〈左様 それが汝の生まれながらにしての定めなり〉
「……」
しばしの逡巡。
アダムは惚けるように目の前に広がる未知なる大きな世界を眺めた。
「さだめ……、」
己の創造主と思われる声の命令を反芻した彼は、そこでふと頬を緩ませる。
「生まれたばかりのわたしに、あなたのご期待にどこまでこたえ、どこまでやれるかわからないが──」
今まで無表情だった人はそこで初めて感情というものを表し、人情味溢れる表情を見せた。
「──我が創造主の仰せのままに」
こうして、万物の頂点として人が創造された。ついに全世界の完成を果たし、神は大変満足するのであった。
──六日目が終わった──
◇◆◇◆◇
七日目。
天地創造の働きを終えた神は休まれた。
この日を祝福して、「安息日」とされた。
神は勿論、人を含むすべての生き物たちも例外なくその日は何もせずに休むのであった。
このように、神は七日を掛けて、
この世界を創り上げたのだ。
それは始まりの終わりなのか。
それとも、終わりの始まりなのか。
──神のみぞ知る。