呪詛は雪下に埋めて
――嫌な仕事だ。
雪片を散らす曇天を見上げながら、フリッツは独りごちた。
目の前に広がるのは果ての見えぬ雪原。春は野花の満ちる原野だが、今は命の欠片も見当たらない死の丘でしかない。
その真ん中で列車を止め、フリッツたちは下り立った。
軍靴が雪を踏み潰す。厚手のコートの隙間から冷気が忍び込む。まるで雪の精の抱擁を受けたかのような寒さに、フリッツは思わず身を震わせた。誤魔化すようにライフルを肩に背負い直す。
列車が停泊した線路に沿って、剥き出しの地面が大口を開けていた。その口内を覗き込むように一列に並んで跪く黒ずくめの集団。皆、身なりをきちんと整えた精悍な男たちである。防寒衣を与えられなかった彼らが纏うのが、色は違えど自らのものと同じ軍服であることを再確認して、フリッツは顔を顰めた。――彼らは仲間だったのだ。思想も違い、道も違えど、国に尽くさんと志したという点では、フリッツたちと何も変わらない。
穴の前で堂々と胸を張り、冷静に雪原の彼方を見つめる彼らの後ろを通り過ぎる。フリッツは列の一番前だった。つまり、黒の列の先頭に立つ人物の後ろにつくことになる。それを聴いたとき、フリッツは自らの不運を呪った。
よりによって、よりによってだ。
まさか自分が、国を揺るがした反乱軍の首謀者を、手に掛けることになるなんて。
フリッツは勲章も持たない、ただの一兵卒でしかない。いずれは出世を、と夢見てはいるが、それでも隊長くらいが関の山だと思っている。そんな、ただの凡人でしかない。
なのに何故、自分がそんな大役を担うことになったのか。
それはただ、仲間内で嫌な仕事を押し付け合った末に貧乏くじを引かされたからだとしか言いようがない。
黒い線の端が見える。堂々たる十二人の男たちの先頭に立つのは、女だった。この冬景色の中でも匂い立つような美女。反乱軍の首謀者とされた稀代の悪女、ヴェルベラ。二十代半ばの若さにして、一部の役人・軍人、そして国民を魅了し従えた彼女は、国の重鎮のご令嬢だという。
他の男たちと同様に雪の上に跪かされた彼女は、なんと曇天下でも光沢を放つ黒い絹のドレス姿。黒檀の髪は綺麗に結い上げられ、白粉を叩いた肌に、紅を引いた唇。これから処刑される罪人に対する処遇とは思えないほど整えられた姿は、決して慈悲などではなく、この場を取り仕切る司令官の理解し難い嗜好によるものだ。
とうとうフリッツが、女の背後に着く。緊張で力が入り、足元の雪が音を立てて圧縮される。彼女は微動だにしなかった。フリッツがもたつきながらライフルを肩から下ろし、いつでも撃てるよう引き金に指を掛けるまでの間もなお。ぴん、と背筋を伸ばし、胸を張り、堂々とした態度で然るべき時をじっと待っていた。
その気高さたるや、まるで玉座に居る女王の如し。
手袋に覆われたフリッツの手が、寒さとは違うもので強張った。
「これより、反逆者ヴェルベラ・マイツェルンと、彼の者が率いる反乱軍『黒耀の翼』の主幹人物十二名の処刑を行う!」
死の国の入口を覗かんとする大穴の対岸に男が立ち、口上を述べる。背が小さい分横に大きくなった司令官は、観客もいないのに大仰な仕草で、彼らの罪状と批判を長々と演説した。
そんな司令官に苛立ったのは、むしろフリッツたち政府軍だ。ただでさえ無抵抗な人間を射殺するという嫌な仕事を目前に焦らされ、その上、無駄な儀式の間ずっと凍てつく風に身を晒されているというのだから。フリッツと仲間たちは歯を食いしばりながら、ひたすらに茶番の終劇を待ち続けた。
「可怪しなこと」
ぽつり、と目の前の女が零す。その小さな鈴を転がすような声は、何故か司令官の大きな濁声よりもずっと、耳の中を通っていった。
「彼のような人物に、私たちの行いを、卑劣、残虐と評されるなんて」
「口を閉じろ」
よく考えて出た言葉ではなかった。ただ、千切れそうなほど痛む耳に、これ以上負担を掛けたくない一心だった。
でも、何処かで肯定もしていた。人を一列に並べ、順番に撃ち殺して。自らの死が迫る恐怖を数えさせながら墓穴を覗かせるのは、残酷とは言えまいか。
「貴方たちも可哀想に。このような茶番に付き合わされて」
「頼むから黙っていてくれ」
今度は懇願だった。本当に今、何一つ、思考することをしたくない。ただこの嫌な仕事を早く終え、暖かいところへと逃げ帰りたかった。
彼女がこれから殺されようとしている自分たちのことではなく、手を下す側のフリッツたちの身を案じていることなど、どうでもいい。
ただ早く司令官が満足するのを、ひたすら祈るばかりだった。
「何故貴方たちは、あのような方に従うのですか? 今も、とても、うんざりしていらっしゃるのに」
「俺たちは……」
寒さに舌が縺れるのを、必死で動かす。
「ただ、平和に暮らしたいだけなんだ」
「私たちだって、そうですよ」
女は非難するでもなく、淡々と言った。
「穏やかに、健やかに。安心して生活できるようにしたかっただけ。私たちだけではない。この国に住む限りなく多くの人が、平穏を享受できるよう、声を上げただけ」
フリッツは、彼女たちの〝活動〟を振り返った。確かに彼女たちは、声を上げただけだった。集会で、或いは新聞で、自らの思想を説くだけだった。武器はほとんど使われない。鎮圧に向かった軍隊から活動家の人々を守るために振りかざされただけだった。
「なのに結局、貴方たちは、私たちの声に耳さえ貸してはくれなかった。私はそのことをとても悲しく思います」
「この国を乱しておいて、何を……っ!」
「では、貴方たちは、ずっと息を潜めたままで良かったというのですか?」
低い問いかけに、フリッツの背筋が凍った。女は相変わらず地平を見つめたまま。だというのに、まるでその眼がこちらに向き心の内を見透かしているような、そんな気分に陥った。
「これが、貴方たちの望む、平和なのですか?」
フリッツの身を震わせる問いかけとほぼ同時に、司令官が処刑の執行開始を宣言した。
思えば、彼らは最初から、恐ろしいほどに冷静だった。自らが埋葬される墓穴を覗き込んでおきながら、銃口を後頭部に突きつけられてもなお、啜り泣くどころか身動ぎ一つしなかった。胸を張り、黙して雪原の彼方を見つめている。その眼差しは祈るように穏やかだった。
これから理不尽な死を齎されようとしているのに、誰一人、恐怖に、絶望に、泣き叫ぶことをしなかった。
銃声が一つ鳴る。
死体が穴に放り込まれる音がする。
フリッツは身を硬直させた。音は列の一番端から轟いた。まるで自分が撃たれたような気分になって、緊張の糸を張り詰めさせる。
女の頭に突きつけた銃口が振れる。引き金に掛けた指が強張る。そのときが来るまで間違っても撃ってはいけない。そうと分かっていても、指先が震えるのを止められない。
だというのに。
「ああ……ひとつ、私の翼がもげてしまったわ」
仲間の死を嘆く女の声は、ひどく平坦だった。
それが、とてつもなく恐ろしい。フリッツは喉が引き攣るのを抑えることができなかった。
銃声が一つ鳴る。
死体が穴に放り込まれる音がする。
「またひとつ」
またひとつ。
発砲音が静寂を割る度に、女が数を数える声に、フリッツは気が狂いそうになった。
銃声が一つ鳴る。
死体が穴に放り込まれる音がする。
女はただ、残念そうに吐息を零す。
「もうやめてくれ!」
堪らなくなって、フリッツは叫ぶ。耳を塞ぎたくて堪らなかった。実際、銃を持っていなかったらそうしていただろう。それでも銃を手放せなかったのは――この女が怖いからだ。撃ちたくはない。殺したくはない。けれど、銃を突きつけていないと安心できない。そんな彼女に対する矛盾した想いに、フリッツは苛まれていた。
喧しいぞ軟弱者め、と対岸から怒鳴り声が聞こえるが、とても気にしてはいられなかった。ただ早くこのときが終わることを祈るので精一杯。
なのに。
「どうして?」
黒曜石の瞳が、フリッツのほうを向いていた。憎悪も懇願もそこにはなく、ただ水面のように穏やかで透明な眼差しが、フリッツに向けられている。
心が、見透かされている。
「あなたたちが望んでいることなのに」
胸を氷柱で穿かれたような、そんな心地がした。心臓の辺りから冷たさが身体中に拡がって、ついには脳の髄まで凍りつく。
司令官が処刑の続きを促す声が聴こえたが、何処か遠く、夢の中の出来事のように思えた。
代わりに耳鳴りがする。
誰かの命を奪う銃声も、遠く。
死体が放り込まれる音も、また遠い。
そんな非現実的な音を、耳鳴りが掻き消していく。
いくつ音を聴いただろうか。
「それではベラ様」
突然飛び込んできた声に、フリッツは我に返った。最後に残った男が、誇らしげな笑みを浮かべながら、恭しく女に言うのだ。
「お先に失礼します」
フリッツは、心臓を握られたような想いがした。
だというのに、フリッツが銃を突きつけている女は、隣の男に向けて、艷然と微笑んでいる。
「ええ。すぐに行くわ」
まるで、逢瀬を約束する恋人たちのようなやり取りの後。
すぐ隣で、銃声がまた一つ轟いた。
流れる血。飛び散る脳漿。
死体が穴に落ちていく光景は、コマ割りのように断続的で。
その男の身体が頭から斜面を滑り落ち、滑稽な体勢で止まったのを見たときは、何の冗談かと思った。
すぐ隣で起きた死は、ひどく現実味が感じられなかった。
けれど。
「さあ」
全ての仲間の死を数え上げてきた女は、冷静に残酷に度し難い事実を告げた。
「次は、私の番」
引き金は引いた。だが、音はなかった。
吹き飛ぶ鮮血と脳漿。女の身体が傾いで穴の中へ落ちていく。
土の上に弾んだ女の身体は、血の跡を残しながら頭から斜面を滑っていって。
擦れて汚れた顔に構わず安らかな眠りの横顔をフリッツに見せつけた。
――これが、貴方たちの望む、平和なのですか?
聴こえるはずのない女の声に、フリッツは今しがた火を吹いた凶器を放り捨てて耳を塞いだ。
「――ッツ、フリッツ!」
肩を揺さぶられ、我に返る。
ぼんやりと仲間の顔を見つめていると、本当に大丈夫か、と案じられた。
「あ……ああ、大丈夫だよ」
「それじゃ、さっさと帰るぞ」
――帰る?
列車へと促す仲間の言葉を疑問に感じて、己の手を見下ろせば、いつの間にか銃ではなくスコップが握られていた。
辺りを見回せば、雪原の中に剥き出しの土の色。
処刑した者たちを埋めたのだ。だが、その間のことは全く記憶にない。女を撃ち殺したあとは、雪のようにぽっかりと白い記憶があるだけだった。
茫然自失の中、自分は律儀にも埋葬の作業をしていたというのか。
奇妙な感覚にふらふらとした足取りで、フリッツは列車に向かう。冷気が全身を包んでいた。早く風のないところで温まりたかった。
ブーツが雪を踏みしめる隣で、土塊の上に雪花が落ちる。
先程よりも舞い落ちる雪の数が増えていた。本格的に降りそうだ。きっと反逆者たちの墓場も、すぐに雪下に埋もれてしまうことだろう。
そして春には野花に埋もれ、彼らの墓の位置など分からなくなるに違いない。
そうであって欲しい、とフリッツは願った。
――ひとつ。またひとつ。
女は恨み言を零さなかった。ただ、フリッツに問いかけ、仲間の死を数えていただけ。
だが、耳の奥に残っているその声は、まるで呪詛だった。今もこうしてフリッツを蝕みつつあり、また、国を蝕むのではないかと錯覚させられた。
革命の先導者たる女の居ない国は、これからどうなっていくことだろう。またしても女の問いかけが脳裏に浮かび上がったのを、フリッツは頭を振って振り払おうとした。
「……どうか、成仏してくれよ」
呟きを風に乗せて、フリッツは逃げるように列車に乗り込んだ。
その願いが地中に届いたかは、列車が発車した現在、定かではない。