第一章 2話「倫子。青葉島に立つ」
第2話です。
神楽坂倫子は、今にも空が飛べそうなほど幸せな気分だった。
波を疾走する高速艇の窓から見える白い雲。
青い海。
羽を広げて空を泳ぐカモメさんでさえも「りんちゃんいらっしゃい。よく来てくれたね。」と歓迎してくれているようだ。
高速艇なので、じっと座っていなければいけないのが残念なくらいだが、高速艇はフェリーよりも値段が高くつくが、青葉島には早く着ける。
『もうちょっとや。もうちょっとで着くんや。楽しみやなぁ。』
倫子は心の底から込み上げてくるワクワクを必死に押さえ込みながら、極めて冷静になろうと務めているが、気がつけば楽しげに体を左右に揺らしていた。
京都の実家を出てからずっとこの調子だ。
『そう言えばここに来るまで、誰も目を合わせてくれへんかったなぁ。なんでやろ?』
そんな思いが頭をよぎったが、倫子はすぐに思い直した。
『ええねんええねん。そんな事どうでもええねん。今が最高に幸せやねん。私、今日の日の事は一生忘れへんねん。』
倫子はここに来るまでの、苦労と努力に満ちた日々を思い出した。
倫子が高校2年になったばかりの頃、自室のベッドの上に寝ころびながら、漠然と進学か就職かを考えていた。
『就職するって言うたら店の手伝いさせられて、勝手にお婿さんを連れてこられるんやろなぁ…。そんなん嫌や!一生あんこまみれの人生なんて嫌や!』
将来、実家の和菓子屋を継がされ、朝早くから夜中まで大鍋であんこを炊いている自分の姿を想像して、倫子は心底ゾッとした。
『大学いこ。大学に行って普通の会社に入って、普通に恋愛をして幸せになりたいわ。せやけど、どこの大学がええんやろ?大学なんて関西くらいしか知らんしなぁ…。』
京都生まれ京都育ちの倫子にとって、京都以外の場所での生活は憧れであった。
別に東京にこだわっているわけではないので、京都以外ならどこでもいいのである。
倫子はしばらく考えた。
「調べてみよ。」
倫子はそう言ってベッドから飛び降りると、机の前に座りパソコンをパチパチとやり始めた。
「いっぱいあるなぁ…。どこがええのんやろか?」
ブツブツと何やら呟きながらパソコンとにらめっこをしていた倫子は、不意にマウスを動かす手を止めた。
「青葉ロボット工業大学?変わった名前やなぁ。何なんそれ?」
倫子はすぐさま大学のHPへ飛び、じっくりと目を通し始めた。
「以外と女性の方も多いんやねぇ…。」
倫子は感嘆の声を漏らした。
ロボットが本格的に実用化されてからはや10年。
確かにロボットは身近な存在にはなったが、一般家庭に普及しているはずもなく、現状のロボット普及率はかなり低い。
災害や凶悪犯罪に対応すべく、各都道府県の警察や消防署が数台所有しているくらいが現状であるが、京都市内にいたっては文化財の保護と景観の観点から、ロボットは全面乗り入れ禁止となっている。
ロボットと同じく乗用ドローンも普及し始めてはいるが、まだまだ法整備が整っていないために全国的には運用されてはいない。
しかし全国で一カ所だけ乗用ドローンが飛び、ロボットが町中を平然と歩き回っている場所がある。
それが神奈川県沖にある人工島「青葉島」である。
青葉島は正確に言えば「東京都青葉市」になる。
神奈川県沖にあるのにも関わらず、東京都になるのだ。
なぜなら青葉島を建造するのには莫大な資金が掛かっており、その資金を出したのが東京都なのだ。
そういった事情から青葉島は東京都の飛び地となったのだが、青葉島にはロボット関連の企業が集中しており、大企業からベンチャー企業までの大小さまざまな企業が軒を連ねている。
一言でロボット関連企業と言っても業種は多彩で、ロボット開発会社やアニメショップ。
果てはアニメの製作会社まである。
ゆえに青葉島は「ロボット工業地帯」ではなく「ロボット産業地帯」などと呼ばれており、サブカルチャーのメッカとも言われている。
「ロボットかぁ…。おしゃれかも…。」
倫子はロボット工学を学んでいる自分を想像してみた。
おしゃれなインテリメガネをかけて白衣に袖を通し、小脇にノートパソコンを抱えて清潔感のある綺麗な大学の廊下を笑顔で歩く自分。
研究室には、よくわからないロボットがギッチョンギッチョンと音を立てて動いている。
「なかなかええや~ん。」
倫子は思わずにんまりとしてしまった。
おしゃれである。
間違いなくおしゃれだ。
「ここがええなぁ。いっぺん東京にも住んでみたかったしここや。ここにしよ。」
ろくに調べもせず、極めて不純な動機かつ安易に進路を決めてしまった倫子は、この先高野山の修行僧も真っ青の2年間を送る事になる。
次の日。学校で担任のしばやんこと、柴田先生に進路相談をすると
「神楽坂~。夢は寝てから見なあかんで~。寝言は寝てから言えっちゅーやっちゃ。」
「へ?」
倫子はあっけにとられた。
「今のお前やったら絶対無理や。無理無理。」
しばやんは手を振りながら言った。
「そんなに難しいのん?」
「難しいも何もあるかいな。これ見てみ?」
しばやんはそう言うと机の上に置いてあった「偏差値一覧表」と書かれた紙を倫子に手渡した。
倫子は恭しく両手で受け取ったが、おもむろに紙を読んだ後、倫子の全身の毛という毛が逆立った。
「こ、こんなに偏差値高いのん!」
紙を持つ手が小刻みに震える。
「俺らの頃はまだ入りやすかったんやけどなぁ…。」
しばやんは実に残念そうだ。
「生まれてくる時代を間違ごうたわ…。」
「ちゃうちゃう。まちごうてるんはお前の考え方や!」
「先生わかった!私頑張るわ!」
倫子は熱い瞳でそう言った。
「頑張れ。それしかないわ。」
倫子は決意した。
「入試まで2年もないんやし、恋なんかしてられへんでぇ~。恋なんて大学受かってから東京でしたらええねん。そのためにも今日から勉強や。」
もとよりこうと決めたら猪突猛進の倫子である。
倫子はこの日からフルスロットルで入試までの2年を走り抜けた。
一日10時間以上の勉強をし、倫子の偏差値はぐんぐんと伸びていき、青葉ロボット工業大学も射程圏内に入ってきたのだ。
しかし、倫子の「夢のキャンパスライフ」の前に立ち塞がる最大の敵は最も身近にいたのだ。
それが倫子の父、神楽坂万寿夫である。
倫子と妹の美姫を溺愛している万寿夫が、倫子の上京を許すはずなどなかった。
「行く!」
「行かせへん!」
「行く!」
「行かせへん!」
の問答が幾度となく繰り返されたが、最終的には母の美智子からの
「理由がなんであれ、倫子が一生懸命頑張るて言うてますんやさかい。やるだけやらしてあげるのんが親いうもんとちゃいますのんか?」という後押しもあり
「受かったら行く。受からなかったら家業を継ぐ。」で話がついた。
究極の選択を迫られた倫子のハートは燃えに燃え。いや、萌えに萌え上がった!
2年近くに及ぶ猛勉強の末、倫子は「青葉ロボット工業大学 ロボット工学部」を受験。
見事に合格し、晴れて今日という日を迎えたのだ。
朝から浮かれまくっても仕方が無いだろう。
それにしても倫子が合格したのを知った時の、しばやんと父の態度が対照的過ぎて今思い出しても笑ってしまう。
しばやんは「よかったな!よかったな神楽坂!お前はよう頑張ったもんな!」と言って涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして喜び、父は父でこの世の終わりが来たかのような顔で背中を向けると、無言のまま店に戻っていった。
がっくりと肩を落として…。
高速艇が青葉港に着き、倫子は青葉島の地に足を踏み入れた。
入試以来2度目の来島ではあるが、この一歩は新たなる生活を送るための記念すべき第一歩である。
倫子はこれからの新しい生活の事を考えると、今すぐ大声で叫びたくなるほど感情が昂ぶっている。
「カモン!ひとり暮らし!ウェルカム!夢のおしゃれシティライフ!」
倫子は思わずそう叫びそうになるのを必死で堪えた。
『落ち着いて。落ち着くのよ私。私は今日から東京の女…。郷に入っては郷に従うのよ。ここは東京。関西弁は使っちゃダメなんだから。』
倫子は両手を大きく広げ深く深呼吸を一つすると、入居予定のアパートへ向かう為に軽快な足取りで港を後にした。
タクシー乗り場に着いた倫子は急いでタクシーに乗り込むと、運転手さんに行き先を告げゆっくりとシートに腰を下ろした。
『荷物は昨日運び終わっているはずだし、アパートに着いたらまずはお掃除からね。古い木造建築のアパートだけど今日からは私のお城なんだから、今日はめいいっぱい綺麗にしてあげなくちゃ。』
走行中のタクシーでずっとそんな事を考えている倫子は、満面に笑みを浮かべていた。
そう言えばタクシーに乗ってから、人懐っこそうな運転手さんが倫子に一言も話かけてこない。
理由はわからないが別に気にもならなかった。
べつにええねん。
「着きましたよお客さん。」
運転手さんがそう言うとタクシーのドアが開いた。
「ありがとうございました。少ないですけどお釣りは結構です。」
倫子は財布から千円札を2枚取り出し、運転手さんに差し出した。
「ありがとうございます。」
運転手さんのお礼を聞きながら、倫子はタクシーを降りた。
「あれ?」
夢のお城に着いた倫子は、我が目を疑った。
木造建築の古いアパートと、バイト先になるはずの味のある木造建築の和菓子屋が見当たらない。
目の前には無惨にも瓦礫の山が広がっているだけだ。
「え?え?え?」
倫子は何度も目を擦ったあと、何度も辺りを見回した。
「あれ?あれぇ?あれれれれ?場所を間違えたんかな?こことちゃうかったっけ?」
早速関西弁が出た。
「あぁ!倫子ちゃん!」
一心不乱に辺りを見回す倫子の背中に向かって、誰かが声をかけてきた。
倫子が慌てて声の方を振り返ると、中年の和菓子職人が倫子に向かって走ってきている。
「将太おじちゃん!」
倫子は思わず声を上げた。
「探したで倫子ちゃん!無事かいな!」
和菓子職人はそう叫んだ。
「無事ってどういう意味?それより将太おじちゃんのお店は?私のアパートはどこなん?」
呆けた声で倫子が尋ねた。
「実はな倫子ちゃん…。えらい迷惑な話なんやけど、一時間ほど前に産業スパイがここまで逃げてきよってな。商店街のガーディアンとドンパチやりよったんや。そん時に産業スパイのロボットが派手にこけよってなぁ。うちの店とアパートを壊しよったんや。ほんまめちゃくちゃな話やで。」
将太おじちゃんは気まずそうに言った。
「へ?産業スパイ?ガーディアン?ドンパチ?」
倫子は素っ頓狂な声を出した。
「僕らは前もって逃げとったさかい無事やったんやけどな。産業スパイのアホタレのせいで、店とアパートはこの有様や。それより倫子ちゃんの事が心配でなぁ。いやぁ。ほんまに無事でよかったわ~。」
「荷物…。」
「え?」
将太おじちゃんの顔が急に引きつり、右の眉がピクピクと動いている。
「おじちゃん私の荷物は?」
将太おじさんは黙って俯くと、目の前の瓦礫をスッと指さした。
「昨日引っ越し屋さんが運んできたさかい、倫子ちゃんの言うてた通りの場所にみんなで運び込んでんけど…。」
小さな声でそう言う将太おじちゃんは、俯いたまま倫子と目を合わそうとしない。
将太おじちゃんの言葉を聞いた途端、倫子はその場にペタリと座り込んだ。
そして蚊の鳴くような声で一言呟いた。
「うそやん…。」
倫子の目の前が一気に真っ暗になった。
新生活の初日に住む場所とバイト先を一度に無くした倫子は、宣言通りこの日の事を生涯忘れる事はなかった。
不幸って、ラッシュでくる時がありますよね…。