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「……本当に行くんですか、奥様」
「もちろんよ!」
玄関先に見送りに出た、心底不安そうな表情のフィルマに元気いっぱいに返したティーゼは、大きなトランクを抱えていた。
借金返済のために――執事のマイアンには社会勉強だと言ったが――働きたいと言い出したティーゼの要望は、拍子抜けするくらいにあっさりと許可が下りた。大抵はいつも大反対されるティーゼの要望がこんなにすんなり通ったのははじめてのことである。久々にマイアン相手に一戦するつもりでいたのに、妙なこともあるものだ。
せっかく許可を得たのだから、「やっぱり……」と覆される前にと、ティーゼは意気揚々と荷造りをしたのだが、ティーゼが向かおうとする職場にフィルマは乗り気でない様子。
「奥様、住み込みですよ? 働くにしたってほかに何かあったでしょう。どこの誰とも知らない男の家に住み込み……どうして旦那様は許可を出したのでしょうか」
「どこの誰とも知らなくはないわ。サーヴァン男爵よ」
「お会いになったことがあるんですか?」
「あるはずないじゃない」
ティーゼが答えると、フィルマがあからさまなため息を吐いた。
ティーゼは十五歳の年に一応社交デビューを果たしたが、実家が貧乏すぎてデビュタントボール以外のパーティーには参加したことがない。そしてその年にすぐに結婚が決まって公爵家に閉じこもったので、サーヴァン男爵どころか、顔見知りの貴族はほとんどいなかった。知り合いと言えばせいぜい、隣の領地のクライスラー伯爵家のトーマスくらいである。三つ年上の幼馴染だ。そのトーマスとも、結婚してから一度も会っていない。
「サーヴァン男爵ってあれでしょ? お城で第三騎士団長をされている方よね? 確か旦那様と同じ年らしいわ」
「そして未婚の男性です。……奥様、ほんっとーに、行くんですか?」
「だから、もちろんよ」
大きく頷けば、フィルマはとうとう顔を覆った。
「ああ……、本当に、どうして旦那様はお許しになったのでしょうか……」
ティーゼにしてみれば、フィルマがどうしてこれほどに嘆くのかがわからない。なぜならティーゼの働き先を提案したのはイアンその人なのだ。マイアンによれば、公爵夫人が労働階級の人間のように仕事をするなど外聞が悪すぎるので、決してばれない勤め先を探したのだとか。イアンとサーヴァン男爵は仲がいいらしい。
「やっぱりわたくしもついて行きます」
「だめよ。サーヴァン男爵は、わたし一人で来るようにとおっしゃったそうじゃない」
「……未婚の男性のもとに年頃の奥様が一人で向かうなんて、おかしくありませんか?」
「おかしくないわよ。仕事をするときに侍女を連れていく使用人がどこにいるの?」
「それは……まあそうですけど。でも、奥様は公爵夫人で……」
フィルマはまだ納得がいかない様子でぶつぶつ言っているが、ここでいつまでも彼女の相手をしていたら約束の時間に遅れてしまう。
ティーゼはフィルマの方にポンと手を置いて笑った。
「大丈夫よ! わたし、度胸と根性だけはあるから!」
「……むしろ、その度胸と根性が一番厄介なんですがね……」
こうして、ものすごく心配そうなフィルマに見送られて、ティーゼは意気揚々と迎えの馬車に乗り込んだのだった。
☆
サーヴァン男爵の邸は、城の近くにあった。
邸はそれほど大きくはない。高い塀に囲まれた中にある庭は飾り気がなくすっきりしていて、いかにも独り身の騎士の邸宅という感じがした。
玄関の前で馬車を降りると、四十前後の姿勢のいい男性が出迎えてくれる。彼はポールという名前で、サーヴァン男爵家の執事だそうだ。
「ようこそいらっしゃいました、ノーティック公爵夫人。旦那様がお待ちでございます。さ、どうぞこちらへ」
優しそうなポールに案内されて、ティーゼは中央階段から二階に上がる。同じ執事いつも硬い表情のマイアンとはえらい違いだ。
サーヴァン男爵の書斎に通されると、キラキラと輝く銀色の髪の男が、窓の方を向いて立っている。入口からは後姿しか見えないが、騎士という割には細い人だと思った。身長は高いが、こう――、剣を握る様子が想像できないくらいに、すらりとしている。
ポールが部屋を出ていくと、男爵がティーゼに背中を向けたまま口を開いた。
「……君が、ティーゼ・ノーティック公爵夫人かい?」
「はい」
ティーゼが頷くと、サーヴィス男爵はそれきり黙り込んでしまった。そのまま一分近くが経過して、ティーゼがさすがに不審に思いはじめたとき、「よし」と小さな掛け声のようなものが聞こえてくる。
(……よし? なにが、よし?)
首をひねっていると、まるで気合を入れるように大きく息を吸い込んだサーヴァン男爵が、勢いよく振り返った。
ティーゼは目を見開いた。
綺麗な銀色の髪をしているなと思ったけれど、振り返った顔はさらに綺麗だった。青灰色の切れ長な理知的な瞳に、無駄な肉のないすっきりとした逆三角形の輪郭。きりりとした眉。高い鼻に、薄い唇。……彼は本当に、第三騎士団の団長職にある男だろうか。
ぼーっと見つめていると、ティーゼを見つめ返したサーヴァン男爵の顔が、まるで熟れたリンゴのように真っ赤に染まった。
(……へ?)
白い肌が、びっくりするくらいに真っ赤になった。大道芸人の見せる手品のようだ。どうなっているのだろう。ぱちくりと目をしばたたかせていると、サーヴァン男爵が両手で顔を覆って俯いた。
「す……、すまない。その、見ての通り私は赤面症で……」
「赤面症⁉」
なんだそれは。はじめて聞いた。目を丸くしていると、顔を覆ったままサーヴァン男爵がごにょごにょと言う。
「この通り、すぐに顔が赤くなってしまうんだ。女性がそばにいるとどうしてもだめで……」
「そう、なんですか……」
それならばどうしてティーゼを雇ってくれたのだろうか。ますます不思議に思っていると、赤い顔のままのサーヴァン男爵が、立ったままのティーゼに気づき、慌てたようにソファをすすめた。
ティーゼが座ると、男爵もその前に腰を下ろす。……それにしても、本当に真っ赤だ。
サーヴァン男爵はこほんと咳ばらいを一つして、ティーゼと視線を合わそうとしないまま言った。
「それで、だ。君にはその、私のこの赤面症をなおすために協力してほしいんだ」
「協力、ですか?」
「ああ。それが君に頼みたい仕事だ」
「ええっと、具体的に何をすればいいんでしょう」
「何、簡単なことだ。私と一緒に食事をして、話し相手を務めてくれればいい。私にも仕事があるから四六時中邸にいるわけではないから、邸にいるときにはそばにいてくれ」
(え、それだけ?)
ティーゼは唖然とした。掃除洗濯皿洗い、なんでもどーんと来いと息巻いて来たのに、まさかの「話し相手」。それは果たして、仕事だろうか。
「もちろん、給金は弾む。もしもこの赤面症が治ったならば、約束している給金の十倍を払おう」
「十倍ですって⁉」
なんて言うことだろう。契約期間は一か月間だったが、もしも提示されている給金の十倍がもらえれば、借金返済への大きな一歩を踏み出せる。
ティーゼは拳を握りしめて、顔を紅潮させて叫んだ。
「やります! なんとしても、男爵様の赤面症をなおして見せますから!」
目指せ給金十倍! 借金返済! 金に釣られたティーゼは、今にも踊り出しそうな彼女のことを、愛おしそうに目を細めて見やる男爵の様子に気がつかなかった。