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「久しぶりね、ティーゼ。フィルマ、わたくしにもお茶を入れてくれる? ティーゼと話があるの」
「かしこまりました『奥様』。奥様、お茶菓子はクッキーとマカロンを用意しました」
「……フィルマ、紛らわしいから名前で呼んでくれない?」
「かしこまりました、ティーゼ様」
絶対に遊んでいたのだろう。涼しい顔で頷くフィルマを見て、ティーゼはため息をつきたくなる。
フィルマがティーゼと母テレサの紅茶を用意して退出すると、対面に座ったテレサがティーカップを傾けて軽く目を見張った。
「あら、美味しい」
それはそうだろう。用意された紅茶は王都でもそれなりに有名な店で買ったものだ。
テレサはゆっくりと紅茶の香りを楽しんだ後で、しみじみと言った。
「……本当に、こんな贅沢ができるなんて思わなかったわね」
「確かにそうね」
ティーゼは手元のティーカップを見つめて小さく頷いた。それこそ、借金で首が回らなかったときは、紅茶など買う余裕はどこにもなかった。飲み物と言えば白湯か、庭に勝手に自生していたミントを使ったミントティーくらいだったので、紅茶とお菓子を目当てにトーマスの家によく遊びに行ったものだ。
「これもあなたとあなたの旦那様のおかげね」
もしかして母は、ティーゼに離婚を考え直すように言いに来たのだろうか。確かに今ある贅沢はすべてイアンに与えられたものだ。
ティーゼがちょっぴり身構えると、テレサは顔を上げて、薄く笑った。
「でも、我慢しなくていいのよ」
「……え?」
「旦那様がおろおろしていたから聞き出したの。あなた、離婚を考えているんですって? 結婚して五年もの間、公爵様と生活を共にしていなかったって言うじゃない。そんなものは夫婦とは言えないわ」
ティーゼはぱちぱちと目をしばたたいた。てっきり説得しに来たと思ったのに。まさか味方されるとは思ってもみなかった。
驚きのあまりぼんやりするティーゼを見てくすりと笑ったテレサは、テーブルの上に金色の鍵をおいた。
「これは貸金庫の鍵よ。旦那様は根は悪い人じゃないんだけど、どうにもお金を稼ぐことが苦手でしょう? 領地に何かあった時に、また同じことが起きないように、あなたが結婚した時からこつこつお金を貯めていたの。公爵様が代わりに返済してくださった借金をお返しできるくらいにはたまっているはずよ。公爵様は返済不要と言ったみたいだけど、離婚するならきっちりお返ししないといけないでしょう?」
「でも……」
「旦那様……お父様なら大丈夫よ。文句あるならわたくしも離婚するわよって脅したら大人しくなったから。だから、あなたの好きにしていいのよ」
テレサはティーゼの手に鍵を握らせて、それから少しだけ淋しそうに笑った。
「でも……、できれば、こうなる前に相談してほしかったわね。あなたは昔から一人で頑張ろうとする傾向にあるけれど、母親としては娘の苦悩を知らなかったのは、悲しいわ」
ティーゼは鍵と母を交互に見て、それからただ黙ってうつむいた。
☆
ティーゼは自室の窓から小さな庭を見下ろして、何度目なのかわからないため息を吐きだした。
庭では、しばらく王都の邸に滞在すると言ったテレサが、花壇に水を上げている。借金は返済したけれど、テレサの意向で最低限の使用人しか雇っていない伯爵家には、専属の庭師はいない。花壇の花はテレサが植え替えているので、ノーティック公爵家の庭のように洗練されてはいなけれど、季節の花が咲き誇る何とも温かみのある庭である。
ティーゼの手には、テレサから受け取った貸金庫の鍵がある。
母はイアンにお金を返して離婚していいと言った。でも、本当にいいのだろうか。さほど重くない鍵が、ティーゼの手には大きな鉛の塊のように重たく感じる。
(わたし……間違っていたのかしら)
五年間、家族に何も言わずにいたティーゼ。母が言ったように、悩んだ時に母に相談していれば、もっと違った結果になっていたかもしれない。
誰にも相談せずに、自分一人で抱え込んで、そして暴走して――、このまま離婚して。ティーゼは本当にこれでいいのだろうか。
お飾りの妻はもう嫌だ。あわない公爵家の生活もつらい。……でも、この五年、ティーゼは一度もイアンに会いたいと伝えなかったし、公爵家のしきたりにあわせようともしなかった。
公爵家で公爵夫人らしい振る舞いをしなくても許されていたのは、きっとイアンが何も言わなかったからだ。
思うところはあるけれど、ティーゼだって悪かった。
「これで……終わりにして、本当にいいのかしら」
鍵を見つめて、またため息を吐く。
この鍵を使えばすべてが精算できる。ティーゼは自由だ。でも、ほしかったのは本当にこれだろうか。
自由になりたいと思った。慣れない公爵家で、一度も会ったことのない公爵の妻として生活するのは嫌だと思った。
けれども、念願だった自由が今まさに手に入ろうとしているのに、ティーゼの心はまったく晴れない。
――相談してほしかったわね。
そう告げた母の顔を思い出す。
相談するのはちょっと苦手だ。なんだか弱音を吐いているみたいで、自分が弱くなった気になる。……でも。
ティーゼはぐっと鍵を握り締めると、くるりと踵を返した。





