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どこへ帰ろうかと考えて、ティーゼはサーヴァン男爵家を選んだ。
ノーティック公爵家には帰りにくいし、実家にも帰りたくない。三つある選択肢の中で、サーヴァン男爵家が一番ましだった。
イアンは事前にサーヴァン男爵家の人たちにはティーゼが外泊するとでも伝えていたのか、昼前にティーゼが帰って来ても、特に何も言われなかった。
イアンは仕事で登城しているらしい。帰宅早々鉢合わせなかったことにホッとしつつも、イアンの帰宅時間が迫るにつれて緊張して、落ち着かなくなったティーゼはぐるぐると意味もなく部屋の中を歩き回った。
会ったらまず何から話そう。突然家を飛び出したことを詫びるべきだろうか。いや、ティーゼは騙されていたのだ。謝る必要はない。……でも、やっぱりあれは無作法だっただろうか。
昨日は、気を利かせたトーマスがノーティック公爵家とアリスト伯爵家に、一日ティーゼを預かると伝えてくれたそうで、おかげで大ごとにはならなかったらしいが、下手をしたら公爵権限で兵士まで駆り出しての大捜索になりかけていたそうだ。結果的に大ごとにならなくて済んだけれど、それを考えると、後先考えずに飛び出したティーゼにも非があるように思う。
ティーゼは歩き回るのをやめて、ぼすんと背中からベッドにダイブした。
よくよく思い出してみれば、サーヴァン男爵家ですごしたこの二週間、不審な点はいくつもあったのだ。
まずこの部屋。いくら何でも、ひと月だけ雇った使用人を住まわす部屋にしては豪華すぎる。ましてや必要なものは何でも用意しるなど大盤振る舞いもいいところだ。
(……こうして見ると、お姫様みたいな部屋よね)
続き部屋に浴室まである可愛らしい家具に囲まれた部屋。棚には数種類の高そうな茶葉が並び、浴室に並ぶシャボンもマッサージオイルも、明らかに高そうなものばかり。
食事は毎日、邸の主人とともにして、仕事も彼が家にいるときの話し相手だけ。
そして、騎士団長らしくないすらりとした体つきをした、『サーヴァン男爵』。
ヒントはいくつでもあったのに、生まれてはじめての仕事に舞い上がっていたティーゼは、その違和感に気がつかなかった。
イアンにしたら、年の離れた妻のおままごとにつき合ったつもりだったのだろうか。仕事をしているつもりでいたティーゼは、何の仕事もしていなかった。
「はー……、ハーノルドが考えなしって言う理由が身に染みるわ」
ティーゼは昔からそうだ。昔から空回りばっかり。何もできない。アリスト伯爵家が大変な時も、父の手助けをしたかったのに、何の役にも立たなかった。せいぜいティーゼにできたことは、母の機織りの内職を手伝うことくらいだった。
だから、結婚話が出たときは、自分にできることはそのくらいしかないと、父の勧めのままに嫁ぐことを選んだ。そのくせ、五年放置されて離婚すると騒ぐのだから、やっぱり考えなしなのかもしれない。
ハーノルドの言う通り、借金を肩代わりしてくれたのみならず、領地経営の面倒まで見てくれているイアンに離婚を突きつけるなど、恩をあだで返すようなことだろうか。でも、五年も放置したイアンも悪い。トーマスは離婚を選択する前に話をしてみろと言ったけれど、考えれば考えるほど、ティーゼは何が正解なのかがわからなくなる。
貴族の結婚など所詮は家と家とのつながりだ。父が満足しているのだから、貴族令嬢としてのティーゼの正解は、このまま何もかもを我慢して現状維持を続けることなのだろう。だけど、ティーゼだって、少しくらいは夢を見たい。せっかく結婚したのだから、恋愛感情はないにしても、きちんと向き合いたかったと思うのは間違っているだろうか。
(あーもうっ、わかんない!)
離婚したい。離婚したかった。でも、「正解」が何なのかはわからない。
イアンが何を考えているのかもわからない。
ティーゼがごろんとベッドの上で横に一回転した時だった。
「ティーゼ、私だ」
いつの間にかイアンが帰って来ていたらしい。
扉越しにイアンの声を聞いたティーゼは、思わずびくりと肩を揺らした。
メイドがティーセットを用意して去ったあと、部屋の中には気まずい沈黙が落ちていた。
ティーゼが戻ったとサーヴァン男爵家の使用人から報告を受けたイアンは、仕事を早く切り上げて帰って来たそうだ。
沈黙を誤魔化すかのようにティーカップを傾けながらイアンを盗み見れば、真っ赤な顔をしている。
(……赤面症っていうのは、嘘じゃないのよね)
自分の意思で顔を赤く染められる人間などいないだろう。というと、イアンがサーヴァン男爵のふりをしてティーゼに語った赤面症と言うのは真実だと思われた。
ちびちびと飲んでいた紅茶がなくなって、ティーゼが仕方なくティーカップを置けば、うつむいてじっとしていたイアンがちらりと顔をあげる。
「……怒っているか?」
小声で訊ねられて、ティーゼは何と答えればいいのかわからなかった。
怒っているかと聞かれたら、怒っている、のだと思う。でも、正直なところ、昨日のような感情の爆発はなく、ただ、もやもやとした澱のような何かが胸の中に広がっていて、それがただただ不快なだけだ。
ティーゼが答えられずにいると、イアンは肩を落として続けた。
「すまなかった。……その、いろいろと。だが、言い訳のように聞こえるかもしれないが、ティーゼをからかっていたわけではないんだ。信じられないかもしれないが……」
「どうしてこんなことを?」
イアンがすんなり謝ったからだろうか、喉もとにまで迫っていたもやもやが少しだけ引いて、ティーゼは彼の赤い顔を見つめて訊ねた。
イアンはまだ口をつけていなかったぬるくなった紅茶に、角砂糖を二個も三個も入れながら口を開く。
「君が働きたいと言っていると聞いて……、反対しても納得しないだろうから、ならば、と。もっと言えば他人のふりをすれば会っても平気かもしれないと思ったんだ。赤面症も……、少しは改善すればいいなという思いもあった。私たちは顔を合わせたことがないから、一か月くらいなら気づかれないだろうと……」
「赤面症は、本当だったんですね」
「……ああ」
イアンは赤い顔を隠すように顔をそむけた。今更な気もしたが、彼は自分の顔が赤くなるのがよほど恥ずかしいらしい。
「女性を見たら赤くなるんでしたね」
「……本当は少し違う」
イアンは顔をそむけたまま、ぽつりと言った。
「女性ではない。……君を見たら赤くなるんだ、ティーゼ」
「え?」
「だから、君だけだ。君を前にしたときだけ赤面症の症状が発症する。……五年間、君に会わなかった理由はそれなんだ、ティーゼ」
ティーゼは目を見開いた。





