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川の水はティーゼの想像よりも冷たかった。
生まれてこの方泳いだことのないティーゼはあっという間に水中に引きずり込まれて、水を吸って重たくなったドレスのせいで、どんどん下へ沈んでいく。
慌ててもがくけれど、水面に近づくどころか遠ざかって、口からぶくぶくと空気の泡が漏れた。
口から水が勢いよく流れ込んできて、意識が朦朧としかけた時、誰かがティーゼの手を掴んだのがわかった。下へ引っ張られるように沈んでいたティーゼの体が一気に浮上して、水面に引き上げられる。
けほっと咳き込みながら顔を上げれば、サーヴァン男爵の焦った顔がすぐそばにあった。
「だ、んしゃく、さま……?」
サーヴァン男爵に船の上にあげられる。彼もそのあと船の上に上がると、ぺたぺたとティーゼの頬に触れて、ティーゼが小さく微笑むと、ほっと息を吐き出した。
「急に乗り出したりしたら危ないだろう? びっくりした……!」
普段真っ赤な顔のサーヴァン男爵の顔が、見たこともないほどに強張っている。驚いたからだろうか、顔が赤くない。驚いたのと、助かって安心したことと、サーヴァン男爵の怒っているのか安心しているのかわからないような顔に、ティーゼはぱちぱちと目をしばたたきながら「ごめんなさい」と謝罪する。
船の上でそんなやり取りをしている間にも、船着場から管理人が船に乗って慌ててやって来た。とにかく川岸へと言われて、舟を移動させる。
陸地に下りると、先ほどまで舟に揺られていたからか、足元がふわふわする感じがした。
濡れて重たいドレスの裾を持ち上げて、管理人が案内する川の近くの小屋まで移動する。
小屋に到着すると、サーヴァン男爵が邸に人をやってほしいと管理人に伝えて、男爵家から迎えの馬車が来るまで小屋で休ませてもらうことになった。
着替えがないので、ティーゼもサーヴァン男爵もぐっしょり濡れた服のままだ。
ティーゼが小さくくしゃみをすると、上着を脱いで絞ったサーヴァン男爵が、それをティーゼの肩にかけてくれた。
「濡れていてたいして役に立たないかもしれないけれど、ひとまず羽織っているといい」
「ありがとうございます」
ティーゼはお礼を言いつつ、男爵の顔を見上げる、まだ、男爵の顔は赤くない。いつも赤いから、赤くない男爵の顔が不思議だった。
「どこも苦しくない?」
サーヴァン男爵がティーゼの隣に座って訊ねる。
距離が近いのに、やっぱり顔は赤くならなくて、ティーゼはどうしてだろうと内心で首を傾げながらも、こくんと頷く。
「大丈夫です。ご迷惑をおかけして本当にすみませんでした」
不安定な舟の上で身を乗り出せば落ちるのは当然だ。父や弟からは昔から考えなしと言われる理由が今更ながらに身に染みる。
「いや、君が無事ならそれでいい」
愛おしそうに頬を撫でられながら言われて、ティーゼの心臓がどきりと跳ねる。どうしてそんな目をするのだろう。赤面症なのはサーヴァン男爵の方なのに、ティーゼの方が顔が赤くなりそうだ。
ティーゼが恥ずかしくなってうつむいたとき、管理人が男爵家から馬車が到着したと呼びに来た。
ティーゼと男爵は管理人にお礼とお詫びを述べて馬車に乗り込む。
馬車が動き出すとティーゼはちらりと窓の外に視線を投げて、小さくため息を吐く。窓の外は、まだ明るい。本当ならば、まだ舟遊びを続けている時間だ。
(……わたしのせいで、とんだ一日になっちゃったわ……)
自分が誘ったのに、ただ迷惑をかけて終わってしまった。ティーゼはしょんぼりと肩を落とした。
サーヴァン男爵家に戻ったティーゼは、冷えた体を温めるために湯に入ることにした。
有能なサーヴァン男爵家の使用人たちはすでに風呂の準備を整えてくれていて、ティーゼは借りている部屋の浴室に入ると、ローズの香りのシャボンが浮かぶ浴槽に入って、ふーっと息を吐き出す。
返す返す、ティーゼのせいで散々な一日になってしまった。猛省だ。
(でも……、男爵の顔、赤くならなかったわよね?)
川に落ちたティーゼを助けたときから帰宅するときまで、サーヴァン男爵の顔は赤くならなかった。どうして赤くならなかったのだろう。
ティーゼはシャボンを両手にすくって、ふっと息を吐く。
(赤面症、治りはじめたのかしら?)
何がきっかけなのかはわからないが、赤くならなかったのだから、治りはじめていると考えていいのではないだろうか。
(いい兆候よね? こういうのを、災い転じてなんとやらって言うのかしら?)
こういう考え方をするから「考えなしだ」と言われるのに、ティーゼは自分に失態を都合よく解釈して、ふふふと笑う。
(この勢いで赤面症が治れば、給金十倍!)
反省はどこへやら、ティーゼはすっかり気分がよくなって、ふんふんと鼻歌を歌う。
そして上機嫌で風呂から上がってティーゼは、サーヴァン男爵から言われて部屋で温かいお茶を用意してくれていたメイドから「お手紙ですよ」と言われて首を傾げた。
「手紙?」
誰からだろうか。ハーノルドは筆不精なので手紙を書くとは思えないし、貧乏生活ですっかりケチになった母もティーゼと同じく「紙がもったいない」と言って手紙などはかかない。残るは父だがーーうん、娘に手紙を書くような人ではないので、これもない。
首をひねりながら手紙をひっくり返したティーゼは、あまりに驚いてあんぐりと口を開けた。
「え……なんで?」
思わず疑問が口をついて出る。
なぜなら手紙の裏に書かれていた差出人は、結婚して五年もの間ティーゼを放置し続けた、夫、イアン・ノーティック公爵だったからだ。





