8/ 明日には枯れる花のように
──獣が咆え、巨大な爪が振り上げられる。咄嗟に左に急旋回しその致死的な一撃を回避する。
草に覆われた土が舞い上がり、頭から降りかかる。
被弾した箇所は掘削したように抉れており、あと少しでも反応が遅ければそれはもう見事な加工肉の完成だったろう。
「うわあぁああぁ! 死ぬう! やっぱ帝国の連中に任せて逃げましょうよ!」
「耳元で喚くなたわけ! それで、どうするというのだ!」
「まあまあ、今からやるから落ち着いて。息を抜いてこう……ゆったりと」
キュオンの見立て通り、黒獣の挙動は力強く高速ではあるが、どことなく軽快さと精密性に欠けるものだ。
それ故にひたすら間合いから外れるか、敢えて足元に潜り込むことさえできれば回避はそう難しいものでもない。
御者であるエクオスに後者を選ぶ勇気などあるはずもなく、こうして惨めにちょろちょろと逃げ回っているわけだが、結果としてそれが寸前での緊急回避に繋がっている。
──ある兵法家曰く、戦闘状態に置かれた人間に芽生える感情は二つに腑分けさえ、それらはどちらも本能によって湧き立つものであるという。
すなわち、勇気と恐怖である。
キュオンは前者を、エクオスは後者を以って生き延びてきた人間だ。戦場という死地における適応が両者であれば、おそらくこの二人の噛み合わせは互いの旨味を生かす上で最良に近いと言える。
──しかし、ここに当てはまらない者が居る。
「わぁー、すごいすごーい。この動作、猫科なのかな? それとも犬科? いや、多分私の知る分類には当てはまらないよね? この年になってまだ知らないことがあるなんて、人生捨てたものじゃないね」
土埃を浴びながら抑揚に欠ける歪な笑いを上げるカーラは、明らかに常軌を逸している。この土壇場だというのに微塵も焦燥や恐怖、反動的に奮起する気配さえないその態度は、まさしく檻の中の猿を眺める客のそれだ。
度を越して超然としたその態度は、微笑む花のように穏やかでさえあり、側に控えるキュオンに言いようのない感覚を味わわせる。
──この女、もしや途方もない大物かもしれん。
果たしてその花は、美しい白百合なのか。はたまた仇為す姫百合なのか。
キュオンはこの死地にあってなお、一輪の歪な花に心惹かれざるを得なかった。
「まあ大したことないかもしれないけど、聞いておくれ。えーと、この槍でいいかな。ほれ」
カーラが一本の槍を取り、銛のような刀身に手を翳す。
それだけで先と同様に刀身が赤熱化し、紅い輝きと熱を煌々と放ち始める。
それを見たキュオンは瞠目する。
「──お前、よもや巫女の類か⁉ 一瞬でこれほどの熱を……。懐かしい、神通力など久方振りだ……」
「なんでもいいから早くしてくださいよォ! いい加減馬もへばっちまう!」
赤熱化した投槍を手に取るキュオン。
車上であっても寸分の狂いもなく狙いを付けるその姿は、まさに猟犬を冠するに相応しい雄姿である。
「──そこだ」
筋肉の収縮する音から一拍置いて風が啼く。
黒獣の分厚い毛皮に覆われた喉元に向かって真っ直ぐに遠投する。
砲弾のような勢いを以って撃ち出された槍は、しかしその毛皮に弾かれることが──なかった。
「──■■■!!!」
赤熱化した刀身はその毛皮を易々と焼き溶かし、強固な首の肉に食い込んでいく。
しかもその高熱は突き立ってもなお失われておらず、焼き鏝のように肉を焼き焦がしていく。
漂う肉と脂の焼ける音と臭いは、まるで窯の中に居るとさえ錯覚しそうな程だ。それを心地良いと感じるかどうかは、食文化にも依るだろうが。肉食動物故に少々アンモニア臭いのは擁護できない難点である。
「ほう! これは使える……! 巫女というのも中々良い業を使うではないか……」
「私は巫女じゃないけど、お褒めにあずかれて光栄だ。鉄の鎧には温度が足りないし、革鎧なら普通に突いた方が早いから対人では微妙だけど、こういう獣相手なら使えるね。生物である以上、高熱による蛋白質の崩壊には耐えられないから。……分かんないかな」
急所への予想外の一撃に悶え苦しむ黒獣。
しかしそれが彼の闘争本能をより刺激したのか、鼓膜を打ち鳴らすような唸り声を上げ、戦車目掛けて跳びかかってくる。
「──ちっ!」
こればかりは馬術では避けられないと判断したキュオンは、咄嗟にエクオスを抱えて戦車を飛び降りる。
遅れて背後で木が割れる轟音と馬の嘶きが響く。
獣の突進を直に受けた戦車は無惨に崩壊し、跳ねた車輪が虚しく地を転がる。
転げ回ることで何とか衝撃を和らげた二人だったが、そこにはあるべき人物の姿はなかった。
「っ──カーラ!」
「いや、団長! アレ!」
キュオンはエクオスの指差す方を見る。
なんとそこには、傷一つない平然とした表情のカーラが黒獣の首筋にしがみついていた。
「もうちょっと観察したかったけど、まあこれも摂理の一環だ。輪廻に還れ、迷える衆生よ」
樹に上る猿のように軽やかに喉元に手を回すカーラ。そこには先に刺さった一本の槍が。
その意図に気付いたのか黒獣は咄嗟に振り落とそうとするが、この状況に持ち込まれた時点で彼の運命は決していたのだ。
既に熱を失った槍の柄を強く掴む。
──刹那、二対の双眸が交錯する。
黒獣の昏い金の瞳。半ば濁ったそれに映り込んだものは──
新月のような漆黒に染まった丸く大きな瞳。そして明日には枯れる花のように儚げで──されど人形めいた絶対零度の笑みを張り付けた麗しい女がそこには在った。
「──Gi」
白い指先から刺さった槍を通じて紫電が奔る。小さな断末魔の名残が晴天の空に吸い込まれていく。
パチンと一度だけ火花を散らすと同時に、獣の心臓から脳幹まで石火のような電光が駆け抜ける。
ほんの一秒にも足らない時間。たったそれだけで彼の脳と心臓は急速に機能を失い、その暴威は見る影なく深みへと墜ち──死者の列に入り込んだ。