7/ 親愛なる死の星
「おー、終わったか。こりゃ私の出番なさそうだなあ」
高みから網に掛かった首領を抑える四人を見て、彼女は残念そうに嘆息する。
──ここにおいて、彼女は二つの選択肢を念頭に置いていた。
一つは誰にも気づかれぬようにこの場を脱し、腰を置いてエゼキエルと念話すること。
もう一つはここで優勢な方に手を貸し、しばらく身を置ける場を手にすること。
しかし何の理由からか、先からエゼキエルからの通信が途絶え、こちらからの通信も阻害されてしまっている。
そこで後者の択を採り、交信が可能になるまでどこかに身を置くことを選択した彼女であるが、肝心の機を逃してしまったようだ。
既に戦闘は終わり、傭兵団の圧勝という形となった。
彼女としては傭兵団の危機に颯爽と現れた謎の人物──という形にしてこの村落に腰を置きたかったのだが、その狙いも外れてしまった。
さて、ではこの非常識な恰好で如何に現れたものか──思考を張り巡らそうとした時。
「──わーお、何だあれ」
大きさにしておよそ六メートル。黒い毛皮を纏った猪と狼を合わせたような屈強な肉食獣。
その眼は煌々と金の輝きを放ち、涎の垂れる口からは鋸のような刃がついた牙がギラりと覗いている。
「すごい……あんなの初めて見た」
まるで博物館に飾られているような巨体を持つ獣。
彼女が生まれた時代にはとうに姿を消していた、人類が誕生する以前に生息していたであろうその雄大さは、彼女自身の探求者としての好奇心を否応なく励起させる。
「──Garrrrhhhhh!」
獣が汽笛もかくやという咆哮を上げると同時に、彼女は丘を駆け降りる。
あんな未知の存在を見せられて黙っているようでは魔術師の名折れ。是非とも近くで観察しなければ。あわよくば味も確認したい。
そんな衝動的な好奇心に突き動かされ、平生の思慮深さをかなぐり捨てて猛然と駆ける。
これまでの二千年、世界というものに飽いていた彼女の心を埋め合わせるに足るものがここにはある。
どうせ今回は当てのない長旅になる。目新しい体験で乾いた心を潤したところで罪にはならないだろう。仮に罪があったとしても、成果で洗い流せばいいのだから。保釈金や賠償金で懲役を逃れることと同じこと。何を犯そうと、手を尽くせば逃げ道は見えてくるものだ。
「……!」
ガサガサと草を揺らす音に獣が反応する。
唐突に振り向いた獣に釣られて四人もつい左を向く。
その場に居た全員が、姿を現した人物に瞠目する。
「貴様、何者」
黒いクローク一枚に身を包んだ、全身に文様が刻まれた妙齢の女。
湧き立つ好奇心を表現しているような赤紫の瞳は、風に揺れる栗色の短髪と相まってどこか浮世離れした気配を放つ。
そしてほぼ全裸に近い奇怪な恰好。彼女自身としては単に大きさの合う服がなかっただけなのだが、全身の文様がまるでそれが正装である辺境の部族のように演出している。
──何だこいつは。
おそらく獣を含めた誰もが、その異様に目を奪われる。
明らかに場に合わない、ともすれば獣以上に危険な"何か"。
ほんの数瞬、時が止まったような静寂と緊張が一帯に張り詰める。
「初めまして。私はカーラ・アステリオン。ある言葉では『親愛と喜び』を。またある言葉では『時と死』を。はたまた『自由な女』を意味する名前さ。知り合い達と一緒に考えたんだ。とても気に入っているよ。アステリオンは対になる猟犬さ。カーラとアステリオンを合わせて猟犬座という星座になるんだ」
カーラと名乗った女はまるで何事もないように、四人と縛られた首領に向けて滔々と挨拶する。
とても信じがたい常軌を逸した学習速度によって、この短時間で現地の言語を最低限習得した彼女は、訛りが混じった独特の口調で鷹揚に話し始めた。
眼前の出来事に唖然とする四人だが、それを置いて黒い獣が再び吼える。
「──っ‼ いかん、突っ立っとる場合か! こいつを村に近づけては食い扶持が危ない! 俺とエクオスが引き付ける、ナフィーサとムルミッロは首領を連れて戻り、増援を呼べ! そろそろ都市の兵が来るはずだ!」
「ええっ⁉ 何でおれまで……アンタがやればいいじゃないスか!」
「つべこべ言うな! ここでくたばるのもつまらんだろうが!」
ムルミッロと入れ替わる形で戦車に乗り、全速力で馬を走らせる。
ひたすら汗を搔きながらではあるが、エクオスは凄まじい技量を以って縦横無尽に獣の間合いから外れている。
実際、彼は臆病ではあるがその馬術の手腕は傭兵団の中でも傑出している。帝国兵にもこれほどの者はそうざらにはいないだろう。
だからこそキュオンは彼を重用し、馬車馬のように使いつつも深い信頼を寄せているのだ。……それが彼自身の幸福に繋がっているのかは定かではないが。
「おい、そこの女! 色々聞きたいことはあるが、何か考えはないか? まさかただの人間ではなかろう!」
「そうだねえ、なんとかしてやりたいのは山々だけど……もっと見たいなあの子。やっぱ殺すしかない感じ?」
「なに悠長なこと言っとるか! あれは死肉漁りに来た黒獣……獅子より厄介な手合いだ。あの図体だ、力は象並みだが足は馬ほど速くはない。だがあの固い毛皮……ただの武器では難しいか」
──毛皮、毛皮ね。
彼女──カーラは瞳を思索の瑠璃色に染めて熟慮する。
現在黒獣は左右に動き回りながら槍を投げる戦車を追っており、一人佇む彼女を殆ど無視している。今ならいくらか思考する時間が確保できるだろう。
発火の魔術、電撃の魔術、幾らかアイデアが浮かぶが、そういった一般的な自然干渉魔術は彼女の得手ではないし、あの毛皮に対して弱い魔力では燃焼を起こすのも通電させるのも困難だ。
それに今の彼女がこの世界でどれほど再現されているか判らない以上、迂闊に超自然的能力に頼りすぎるのは悪手だろう。彼女の知っている世界と再構成された世界では物理法則が異なるかもしれないのだから。実際に眼前の獣がそれを証明してしまっている。
取り敢えずベルトから短剣を抜き、左手で包み込む。そうすると、ものの数秒で刀身が赤熱化を起こす。発火の代わりに一点に魔力を集め、熱エネルギーに変換することで疑似的な属性付与を行ったのだ。どうやらこの程度ならここでも使用可能らしい。
──これだ。
「おーい、犬頭の人ー。私にいい考えがある。取り敢えず一緒に乗せてよ」
「分かった。ほれ、もたもたするな!」
一応三人が乗れるだけの戦車に飛び乗る。
時間稼ぎとしてはもう十分。そろそろ傭兵団と都市兵が増援に来る頃だろう。
さあ、反撃の時間だ。