とうとう
立ち上がると、兵と侍従でわたしの前に立ち塞がる。
「あの?」
「あめのさま、いけません。馬車を用意いたしますので、急いで戻りましょう」 わたしが戻らないといけないのは戦場である。安全で、化けものからまもられている、執政官の邸ではない。
だが、侍従は本気でそう云っているらしく、近場の従僕に指示を飛ばす。「トビエくん、馬丁に、馬車を出せるようにしてほしいと伝えてくれ」
「はい」
「わたしとブライセで御者をするから、馬の体力に関しては心配ないと」
「かしこまりました、アルバン卿」
中学生くらいの従僕がお辞儀し、走っていって、防壁の内側へと降りる。わたしは抗議しようと口を開く。ランベールさんが戦っているのに、それを放っておいて逃げろと云うの? ランベールさんを置き去りにして?
そんなことできない。
しかし抗議する前に、コランタインさんからバルツェレミと呼ばれた、浅黒い肌の兵が、懇願するみたいに云った。
「あめのさま、どうぞ、執政官の邸へ。このままでは御身が危険にさらされます。聖女さまであれど、空白には無力なのですから」
空白。
わたしははっとして、コランタインさんが見ていた、マーダーウッドの群れよりも向こうを見る。その、空を。
遠く、山のような丘のような、なだらかな起伏があった。こんな情況でなかったら、いい景色だと見蕩れていたことだろう。こちらの世界は、人工的なものより自然のもののほうが断然綺麗だ。雄大で、それでいて繊細で、鮮烈で。
だがその美しい山だか丘だかに、覆い被さるみたいに、かなり濃い灰色の雲が湧き上がっていた。
それは少しずつだが、ひろがっていっている。とても大きな台風が来る前のような、いやな感じの雲だ。濁ったくらい色の、あれは、嵐になる雲だ。それも、大きな嵐で間違いない。身体強化でよくなった目には、雲のなかでぱちぱちと電気が起こっているのさえ見える。
水平線だの地平線だのは遠くに見えて案外近いのだと姉が教えてくれたのを思い出した。
つまり……空白がいよいよやってくる。そういうことだろう。
わたしはぴかぴかになった斧を右手でひっ掴んで走りだし、左手に持ったままだったゴブレットを短剣に変化させながら、防壁から飛び出した。
空気が冷たい。これだけ気温が下がっているなら、マーダーウッドをまた凍らせるのもいいかもしれない。魔力がみなぎっている今ならできる。凍りつかせてしまおう。それで討ちもらした分は叩き割ればいい。そうすれば、終わる。
もとゴブレットの短剣をホルダーへ強引に挿し、斧を両手に持ちかえ、体をひねって魔法をつかいながら防壁へ足裏をあて、膝をぐっと折り曲げる。たまたま仰向けになっていたから、侍従達が防壁から身をのりだして、落ちそうになっているのが見えた。「あめのさま!」
その声を余韻に、わたしは弾丸よろしくマーダーウッドの群れへとつっこんでいった。
空白まで時間がない。それが解る。焦りが見えた。王領警備部隊にも、聖女護衛隊にも。
聖女護衛隊は、魔力切れ覚悟で魔法を濫発している。なにがなんでも、すぐに決着をつけたいのだ。マーダーウッドは先程よりも強い炎で焼かれ、次々動きを停めている。そのまま燃え続けるものも居る。




