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声がする。心配そう。でも、聴いたことのない声だ。
「はやくしろ! 白苺酒だ!」
しろいちご。なんだろう。おいしそう。
目を開けるともの凄い眩暈がした。天井がぐるぐるしている。ぎゅっときつく目を瞑る。床が冷たい。
床?
飛び起きた。四辺を見る。阿竹くん、月宮さん、如月さん日塚さん、全員居る。わたしみたいに床に座り込み、顔をしかめて辺りをうかがっている。荷物はなかった。わたしもみんなも。
外国の、大聖堂みたいなところだ。黒っぽい石造りで、天井は高く、うすぐらくて、外から光が差し込んでいる。あまり、きちんと手入れされていないみたいで、屋根や壁にはすきまがあった。その割に、ほこりっぽさやかび臭さはない。煙か湯気か、床にたまるみたいに漂っていて、幻想的だ。
そして、沢山のひと。灰色の、ローブを羽織ったひと達が居る。それから、床に、チョークかなにかで描かれた模様。
それは、模様、だ。三角や、棒。でも、どうしてなのか、見ているとそれが単なる模様ではなく、意味を持った模様に。
読める。これはセイヴ、これはビイ、というふうに。
「ねえ」日塚さんがきょろきょろした。「なんなのここ……」
ローブのひとを掻き分けて、美青年が現れた。……鎧姿。なにかのコスプレかな。それにしては、本物っぽい鎧だ。黒いマントも羽織っている。それに、腰には剣。動きに重さがある。ほんもの……?
床にはもう、湯気のようなものはない。鎧の、青い瞳の美青年は、跪いてわたしへ笑みかけた。わたしへ。
「よくぞ、影の左の王国へお越しくださいました、救世の聖女さま」
聖女。
……は?
啞然とするわたしに、美青年は頭を垂れる。「わたしは王太子のクレアル。我が国を脅威よりお救いください」
「え」声が掠れた。「わたし……?」
わたしが聖女? このわたしが。
みんなも啞然としていた。だって、そうだ。女子は三人ともわたしより美人だし、可愛いし、もっとはきはきしてて、明るくて……なのに、わたし?
美青年は完璧な微笑みを浮かべた。
「招聘の負担で混乱しておいでなのですね。暫く休んで戴きましょう」
くいと背後を見る。「なにを突っ立っているんだ、輿を持ってこぬか」
招聘? 輿?
ローブのひと達が慌ただしく動き出す。美青年はちっと舌を打った。
「つかえぬ者は要らぬ……聖女さま、失礼いたします」
「あ」
美青年はそう云って、わたしをひょいっと抱え上げた。わたし、そこそこ重いんだけど……。
美青年は微笑む。凄くかっこいい。絵みたいだ。現実感はない。
「暫し、辛抱を……すでに、最上級の馬車を用意しております。無論、快適にお過ごし戴けるよう、城には最上級の部屋を」
「あ、あの、」
「可愛いかた、お名前を伺っても?」
どんと壁の一部がふっとんだ。
今度は慥かに、わたしも悲鳴をあげた。壁がふっとんだだけでなく、腕を引っ張られて痛かったから。
「ルオ・パーズ・ルァング!」
ふっとなにかが頬を掠める。わたしは白いマントの、大柄な男性の左腕に捕まっていた。「招聘された者は全員おさえろ」
そう云って、くるっと向きをかえる。剣(本物だ!)をふる。「ルオ・ビイ・クロット」
剣が示したところにびしゃんと雷が落ちた。雷。室内で。
男性と同じマントを着けたひとが来た。
「全員確保しました」
「よし。退くぞ!」
男性はわたしを小脇に抱え、外に出た。うっすらと霧がわいている。気温は高からず低からずで、春みたい。ごつごつした岩場がひろがっていて、山水画のような切り立った岩山が目の前にあった。ふと数m先に目を遣れば、クレバスが黒々と口を開けている。吸いこまれそうなそれを目にした瞬間、ぎゅっと腎臓を握り潰されたみたいな心地がした。
筋肉質な黒い馬がいなないた。「ガエル、いい子で待っていたな」わたしはその上へ放り投げられ、男性がすぐに後ろにのって手綱を引く。霧はもうひいてしまった。山水画のような幽玄な雰囲気はなくなり、かわりにクレバスのおそろしさが際立った。
みんなは、と見える範囲をさがすと、全員似たようなものだ。困惑した様子で、荷物のように馬にのせられている。日塚さんはしきりと目をこすり、月宮さんは俯いて両手で顔を覆い、如月さんは不安そうにきょろきょろしている。阿竹くんは吃驚顔で、両手で頭を押さえていた。「あつい」
馬が走り出した。男性はわたしを片腕で抱きすくめ、もう片方の手で手綱を操る。黒髪をなびかせ、緑の目で進行方向を見据えて。
「あの」
「聖女さま、追っ手を撒くまでは静かにしていてもらえますか。気が散るとあなたを落とすかもしれません」
それはいやだ。だから、口を噤んだ。
斜面を駈け下り、霧の濃い森をぬけ、植物の乏しい丘を登り、それはそれは長い乗馬の後、漸くと馬があしを停めた。わたしの体は蝋でかためられたみたいに、がちがちにかたまっている。
きちんと整備された幅のひろい道だった。男性は先に馬を降りて、わたしを抱え降ろす。体を捻ると腰がぐきぐきと鳴った。馬が憐れっぽく鼻を鳴らし、道端の草を食む。うっすらともやが地面のすぐ上を漂っていたが、見る間に消えてなくなった。
「……ありがとうございます?」
一応お礼を云った。なにが起こったのか、よく解らないけれど。
男性は馬から目を逸らし、こちらへ歩いてきた。しっかり見ると、若いのが解る。高校生よりは上、かな。二十歳になるかならないか。
男性はひょいと、なんでもないみたいに跪き、頭を垂れる。またこれ?
「わたしは陽光の王国の兵、ランベール・ラクールレル。聖女さまを迎えにあがりました。先程無遠慮な行動をとったことは、どうぞご寛恕ください」
だから、まだそれ、云うの。
ランベールさんは顔を上げた。真顔だ。「聖女さま。まだ暫くはお付き合い戴きます。お名前をお教え戴けますか」
答える義理はない。ないのだけれど、なんだか高貴そうな男のひとに跪かれているのが居心地悪く、ついでにランベールさんの腰の剣がこわくて、わたしは素直に答えた。
「檮原あめの……です」