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百七十一話

「取り敢えずエリクは生きてるんで、準備が出来たらこのまま部屋へと運びますねぇ」

「どうやら気絶しているだけのようです。あれだけのことをしておきながらそれで済んだのは幸いかと。……毛布を持ってきましょうか。そろそろ初夏とは言え、明け方はまだまだ冷えるでしょう」


 くーくーと寝息を立てているカーマイン。その腕の中にいる私に、ラセットもクーノも何事もないかのように話しかけている。二人とも助ける気配は微塵もない。

 後ろから抱きしめるような形でがっしりとホールドされていて、動かそうとしてもびくともしない。

 エリクの部屋の支度を終えたベルタが来たので、目で訴える。ベルタはニッコリと笑いながら、首を振った。


「目を覚ましたエリクが再び襲わないとも限りません。絶対に安全と言えますので朝までそこでお休みください」

「お休みくださいって……」


 クーノが持ってきた毛布をふわりと掛ける。カーマインの肩を包みつつ私が息苦しくないように調整した後、「お休みなさいませ」と一言だけかけて玄関脇の小部屋へと入っていった。


 しん、と静まり返った玄関ホール。明り取り用の小窓から月の光が漏れている。

 カーマインの顔は私からは見えない。寝ぼけていたのだから不可抗力だと言えども、もう少しこう……「ノアは渡さない!」だとか言って盛り上がったりするものじゃないの?


 そのまま寝てしまったのもちょっと不服だ。


 私はこんなに心臓をばくばくさせているのに。

 色気が足りないのだろうか。それとも安心してくれてると喜ぶべきだろうか。

 もしかしたら無意識に焼きもちを焼いてくれたのかもしれない。この行動は独占欲の現れ?だとしたらこのままでいるのも、悪くないかも。


 男の人特有の匂いみたいなものがする。清潔にしているからそんなに臭くはないけど、フェロモンみたいな感じかな。香水にはあまり詳しくないから、もしかしたらそういった類のものをつけているのかもしれない。


 こればかりは絵に表せない。


 視覚でカーマインを捉えられないから気づけた。観察は何も目に頼るばかりではないんだ。これからたくさん絵に描いてカーマインの姿を残せば後世の人々に姿を見られるかもしれない。でも、この匂いと温もりを見る者に伝えるのはきっと不可能だ。


「我ながらちょっと変態臭いわ……」


 思わず口に出していたけれど、後ろのカーマインが起きる気配は無い。少しだけ力を抜いて、体を後ろに預ける。緊張は徐々にほぐれ、人肌と毛布のぬくもりには勝てずにいつの間にか眠ってしまった。



 目を覚ますといつの間にか自分のベッドにいて、窓から差し込む光は昼近くを示していた。一連の出来事が夢だったのかとの思いを持ちながら、起き上がる。

 軽くノックをしてから入ってきたのはベルタではなくアルマだった。


「お目覚めになられましたか」

「アルマ?ベルタは?」

「エリクやカーマイン様と一緒にフォーンの元へ参りました。本日は森への同行が出来ないので、お暇であるなら工房に顔を出してくださいとのことです」


 完全に眠ったのがかなり遅い時間だったのか寝過ごしてしまったようだ。事態の結末が気になっていたのに、置いてきぼりを食らってしまった。


「エリクとフォーンがどうなるのか知りたいかったのに……」

「エリクを巡ってフォーンとノア様が三角関係の修羅場になりますから、カーマイン様の判断は正しいと言えます。それに……」


 アルマが言い淀むなんて珍しい。


「寝ぼけていたとは言え……ええと、あのような眠り方をしたので顔を合わせずらいのかと」


 そんなに恥ずかしい事だろうか。だってまだなにもされてない。


「寝ている間に私、何かした?それともされた?いびきとか、寝言とか、歯ぎしりとかっ」

「口止めされておりますので……」


 困ったように微笑むアルマに、私は血の気が引く。口止めまでするなんて、何かとんでもない事があったに違いない。でも、ベルタのようにアルマが揶揄っている可能性だってある。


 細かいことは本人に聞くこととして、今日の予定をどうしようか考える。


 部屋に籠って湖の絵の続きを描きたい。でも工房がどんな状態なのかも知りたくて、昼食の後に顔を出すことにした。


 一人で町中を歩くのは久しぶりだった。馬車屋敷から工房は目と鼻の先だけど、誰かと一緒でないと心もとない。何だか転生した直後のような不安に駆られる。

 けれど、工房の軒先に走りトカゲが繋いであったのですぐに消えた。おそらくリラが乗っている子なんだろう。


 工房には入らずに、念入りに観察を始める。


「描きたいな~スケッチブック持ってくれば良かった」


 間近で見るのは初めてだ。きゅるんとした瞳に滑らかな肌。ジーっと見ていると戸惑うように目をぱちくりとする。そんな仕草がとても可愛い。

 工房の扉が開き、トープが笑いながら顔を出した。


「そんなに描きたいんだったら、ろうけつ染めのデザインにでもするか?今ちょうど準備をしているところだ」

「いいの?」

「ああ。ジーナとアザリアに商品として頼まれた。他の工房で扱わないような、奇抜なデザインが欲しいらしい」


 ファッション関係で走りトカゲをモチーフにするなんて、確かに奇抜だ。私はすぐにTシャツに使うようなイラストっぽいものを想像する。けれど、ろうけつ染めでどのように仕上がるのかは想像できない。


 工房に入ると、作業をしている職人たちはちらりと見ただけだが、リラがこちらへやってきた。


「事情はトープから聞いたよ。何だか巻き込んだみたいでごめん」

「リラさんが謝る事ではないですよ。悪いのは全部エリクですから」


 誘惑されたフォーンも悪いけれど、エーリカがリラに似ていたと言う証言で少しだけ同情してしまう。色々拗らせてる人なんだなぁ。そこを付け込まれたんだなぁと思うとちょっと憎めない。


「私は勝負の方を仕上げているから、ノアはトープが見てあげて」

「了解っす」


 リラに言われてトープは私を作業台の方へと連れていく。ろうけつ染めの見本や下書き用の紙を準備しながら、全く別の事を話し始めた。


「あんなところで寝て風邪ひかなかったか?」

「み、見たの?」

「今朝カーマインが運ぼうとしているところに立ち会った。エーリカだかエリクだかに襲われたんだってな。助けられなくてごめん」


 昨夜の騒動をベルタから聞いたらしい。アルマたちも起きなかったのだから、寝ていた部屋によってはまったく聞こえなかったのかもしれない。

 けれどベルタやクーノも太刀打ちできなかったのだから、トープがいたところで何もできなかっただろう。寧ろ、男女構わず精気を吸うなら犠牲になっていたかもしれない。


 正直にそれを言うとトープは一瞬苦い顔をしたが、すぐに頷いてベルタがもたらした情報をくれた。


「リャナン・シーは人間の無意識に働きかけることで、芸術の才能を開花させたりするそうだ。幻覚を見せるのも同じらしい」

「……あ、だから居酒屋でカーマインがバルドの手を引きはがせなかったり、逆に不意打ちに弱かったりするんだね」

「そう言えばそうだな。カーマインでも無理なんてどんだけ馬鹿力なんだとあの時は思ってたけど、そんなからくりがあったのか」


 使い方によってはとても恐ろしい能力だ。



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