百六十九話 ノアvsエーリカ3
前話ラスト エーリカの言葉
『あなたがフォーンの代わりに精気を提供してくれるのなら、話に乗りますよ?』
まるで赤の他人のためにそこまで出来るはずが無いと、言われているようだった。悔しいけれど、その通りだ。これがカーマインやトープ等、大切な人の為だったら即決で話に乗ってしまっただろう。それくらい『大切』の度合いに差がある。
けれど、それならここでエーリカを描いている私は何?
フォーンもエーリカも、それからケット・シーたちも助けたいと思うからこそエーリカと対峙している。見捨てるつもりは無く、自分の命を危険に晒さずにとれる手段があるからだ。
エーリカの誘惑に乗らない事。ただそれだけなのだけど、腕輪がある以上は身体的な接触は避けられるし、私の気持ち一つさえしっかりとしていれば解決できる。
揺さぶっているのだろうが、揺らぐつもりは無い。
「私に憑りつける自信がないから、取り引きですか」
エーリカはピクリと弾かれるようにこちらを見た。
ああ、いい表情だ。本人がやっと出てきた。カーマインやリラとは全く違う顔が、完全に表に出てきて固定されている。
笑っても泣いても怒っても、人間とは少し違う部分。馬車妖精たちやガガエにもみられるような、どれだけ仲が良くなっても幽かに感じられる得体の知れなさ。神秘性と言っても良いかもしれない。
描きたい妖精が、そこにいる。自分の奥底に眠る狂気にも似た欲求は、もしかしたらリャナン・シーが精気に対して感じるものと同じなのかもしれない。
私は嬉しくなってそれ以上会話をせず、彼を描くことだけに没頭した。
「ノア、そろそろ帰ろう」
木陰から姿を現したカーマインに声を掛けられて、はっと気づくと日は沈みかけて空は真っ赤に染まっていた。エーリカを改めて見やるとかなり疲れたのか、呆けた顔をしている。休憩も取らずにずっと同じ姿勢をしていたのだ、無理もない。
「ごめんなさい。私ったら、モデルさんへの気遣いも忘れて」
「立てるか?エリク」
バルドがエーリカに手を差し出す。……うん。面倒臭いからもうエリクでいいか。エリクの顔が長時間、太陽にさらされたせいか赤くなっている。日に焼けて黒くなってしまったら申し訳ないなあ。
「バルド、エリクを送ってあげて。ここからだと遠回りしなければカゼルトリに入れないでしょう?」
「ああ、了解した。カーマインはノアールを頼む」
「言われなくても」
妖精であるガガエもバルド達と共に遠回りをしなければならない。ついーっと飛んで行ってバルドの肩に乗った。
画材を片付けてカゼルトリへ向かおうとする私の顔を、カーマインがのぞき込む。
「どうしたの?」
「うん?うーん。うん、大丈夫そうだ」
「何が」
「今日の帰りはゆっくり歩こうか。イーゼルと荷物を貸して」
まとめた画材をカーマインに持ってもらう。それらを片手で持ち、更に手を出すカーマイン。辺りを見回したけれど持ってもらう荷物は他にはない。
不思議に思ってカーマインを見ると、くすくすと笑いながら私の手を取った。
「あ、そう言う事でしたか」
「そう言う事です」
目の前に長く伸びた二人の影の一部が繋がっている。背中に夕日が当たってぽかぽかと暖かく、なんだかほのぼのとした空気が心地いい。
ゆっくりと歩きながら話すのは久しぶりだ。
「ノアがあそこまで挑発的な言葉を言うなんて思ってなかったよ」
「挑発的?」
「えーと、『私に憑りつける自信がないから取引ですか』ってヤツ。ちょっと色っぽかった」
「ああ、あれは話に乗ったら負けな気がして……って、色っぽかった?普通に言ったつもりなのに」
挑発するつもりも色っぽく言ったつもりもない。でも、離れたところから見ているカーマインからそう見えたのなら、エリクからはもっとそのように感じたかもしれない。
無意識な自分が怖くて冷や汗が出てくる。
「エリクはどうするかな。そろそろ行動を起こすかもしれないね」
「え、そこまでな感じはしなかったけれど。明日も絵を続けて描くなら別の画材を持ってこないと」
私がそう言うと、カーマインは残念なものを見るような目を私に向けた。次いで拗ねるような声で
「全く、人の気も知らないで」
「え?えーと?」
「大人げなく病んでもいいかな。赤だから中途半端なことはしないよ」
一応、嫉妬をしているらしいと言う事だけはわかった。してくれるんだ、こんな美人局みたいなことしてるのに。
確かに自分が選んだことだけど、一度も止めようとしないのは何故だろうと思ってた。
「分かった、明日はエリクを描かない。カーマインが嫌ならやめる」
「ノア、今のは冗談で……」
「フォーンが憑り殺されようが構わない。妖精と人間が対立するのは困るけれど、犯人はエリク一人なんだから捕まえて怒る町の人に差し出せばいいよ。あ、何なら売れ行きを考えず私自身の為だけにカーマインだけを描いてもいいかも。食事も睡眠もとらずに延々と描き続けてあげる」
私が声を低くして言うと、カーマインが喉をごくりと鳴らす。
人が死ぬのは怖いけれど、大切なものを手放してまで救うほど私はお人よしではない。嫉妬や心配をするのならもっと別の形でしてほしかった。
病んでいる部分を持つのは赤の女神だけではないと思う。闇の神がそうではないと、果たして言いきれるのか。
少し可哀そうなくらいにおろおろし始めたカーマインに、私はにへらっと笑って見せた。
「……って言ったらどうする?」
「え?」
「エリクを傷つける行為をこれからするんだよ、私。好意を持たせてフォーンから引きはがして最後に捨てるなんて。せめて幸せを願う魔法陣くらい書き込んだ作品を残しても良いでしょう?」
「ああ、うん。そうか、そこまで考えていなかった。ノアが誘惑される心配ばかりしてしまっていたな」
心配してくれるのはとても嬉しい。けれど信じてもらえないのは少し悲しい。
「エリクの顔、私にはカーマインっぽく見えていたけれど、絵を描いている間に本人らしき顔になっていたの。余裕がないのは多分向こうの方。ずっとそばにカーマインがていくれるのに、よそ見なんかしないよ」
カーマインを安心させるために、繋いだ手に少しだけ力を込める。夕日をいっぱい浴びてカーマインの頬が赤く染まっていた。きっと、私も同じように……
ガガエも馬車屋敷に戻り、夜も更けてみんなが寝静まったころ―――
どんどんどんっと何かを叩く大きな音がした。思わず飛び起きて寝ぼけ眼で音の源を探す。私の勘違いかもしれないと思っていたが、ガガエも不安そうに見回していた。
しばらく待っていると、ベルタがノックもせずに私の部屋へと体を滑り込ませた。メイド服ではなく、ゆったりとした寝間着姿で髪を下ろしている。
「やはり起きていらっしゃいましたか」
「今の音は何?」
「おそらくは玄関の扉が叩かれた音でしょう。クーノ辺りが対応するはずです」
ベルタは少しだけ部屋の扉を開けながら、廊下を窺っている。私も気になってベルタの背後で耳を澄ませた。
クーノと誰かが言い争っている声が聞こえる。言葉ははっきりとは分からないけれど男の人の声だ。
「ガガエは誰が来ているのかわかる?」
「フォーンだね。話を聞いてこようか?」
「二度手間になるかもしれないから皆で一緒に行こう」
さすがにいきなり攻撃されるなんてないだろうと思うけれど、スケッチブックに雷の魔方陣を途中まで描いて持って行く。玄関へたどり着くとトープやラセットもそこにいた。カーマインはおそらく寝ているのだろう。
フォーンは私の顔を見るなり叫んだ。
「エーリカが帰ってこないんだ!あんたなら知ってるだろう?」
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