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百六十六話

 筋肉痛が治まったのでカーマインから特訓の再開の申し出があった。私の寝顔を見ることを密かな目標としているらしいとアルマから聞いているが、数日たっても私の部屋まで迎えに来ることは無い。……まぁ、それは良いとして。

 この前の散々な様子を見て、まずは体力をつけることからと早足でのウォーキングから始めた。湖まで歩いて、絵を描いて朝のうちに戻ってくることをカーマインに目標と定められ、俄然やる気が出てきたけれど―――


「ノア、そろそろ戻ろうか」

「っへ、だってまだ、湖にもっ……着いてなひ」

「戻らないと工房での仕事に間に合わなくなる。戻れる体力が無いならまたお姫様抱っこになるけれど?」

「戻る、戻ります。ダイジョブれす」


 息を整えてみるものの、時々はふぅと無意識に出てくる肺の空気が言葉をたどたどしくする。ちょっぴり残念そうなカーマイン。

 ゆっくり歩く分には湖にもたどり着けるし、黒い手に攫われるハプニングはあったけれどその後だって普通に動けていた。早く動く時だけ異様に体力を消耗する感じがする。転生前だってそれほど持久走は得意ではなかったけれど、運動場の二百メートルトラックを二十周とか完走できたのに。勿論、順位は後ろから数えた方が早いくらい。


 森の中なので、ケット・シーやクー・シーたちを時々見かける。本音を言えば彼らをもっと描きたいけれど、カーマインと言う鬼コーチがいる限りは無理だ。


「もう少しゆっくりしていけば良いのににゃー。人間は不思議なことをするにゃ」

「あ、王様」


 顔を上げると王冠を被ったハチワレのケット・シーがいた。絵を描く時には気弱なことを言っていたけれど、元気そうだ。


「逢引きにゃらば姿を見せぬように皆に伝えたものを、一体そにゃたらは何をしておる?」

「ノアールの体力作りですよ。あの時のようなことがこれから無いとも限りませんし」

「にゃるほど。皆には邪魔せぬように言うておこうぞ」

「助かります」


 息を整えている私の傍で、カーマインが勝手にやり取りを済ます。王様は目を細めて満足げに頷いたが、ふと何かを思い出したように左右に尻尾を振る。


「とは言え、こちら側から去っていた妖精については何とも言えぬ。最近、リャニャン・シーが二匹ほど姿を見せぬ。そにゃたらに迷惑を掛けねば良いが」


 王様によると、花畑を境にした人間との住み分けは、妖精たちにとっても有難い決まり事らしい。妖精から人間への接触もないけれど、人間からの侵略も無いので穏やかに暮らしていける。馬車妖精たちのように人間との共存が出来る者もいれば、そうでない者もいる。これは妖精が持つ生来の本性が原因となる事なので気を付けて何とかなるものではないらしい。


 一人はバルド。もう一人はおそらくエーリカ。


 猫や犬の姿をした妖精は回り込んでカゼルトリの正面入り口から入ろうとしても、門番に止められる。人の姿をした彼らは、割と難なく入ってしまえるらしい。


「吾輩らに止めることは出来ぬ。もしも彼らににゃにかあったら頼む。ゴブリンたちのように吊るし上げてくれても構わない。人間が死ぬのだけは避けてほしい」

「種族が違うのに、まるで彼らを仲間のように思っているんですね。最悪の結果にならないようにします」


 カーマインが答えると王様は「頼む」と言いながらぺこりと頭を下げて去っていった。少しの休憩で息が整った私は再び速足で歩き始める。

 体力を……つけないと……





 

 昨夜帰ってこなかったラセットの報告を私も聞きたかったので、馬車屋敷に戻らずカーマインと共に工房へと向かう。中から複数の男性の声が聞こえてきた。


「リラ、勝手に出ていくような形になって済まなかった」

「俺たち、フォーンの言葉を真に受けちまったんだ。一緒にやってきたのに性別だけで信用されないなんて酷いと思っちまって……」

「リラが許してくれるなら、俺たち、戻りたいんだ」

「どうか、頼む」


 話し合いの場にいた職人の半分、五人がリラに頭を下げている。先に来ていたトープもラセットも固唾を飲んで見守っていた。ガガエはこうなる事が何となく分かっていたのか、澄ました顔をしている。


 リラは彼らを許せるのかな。誤解があったとはいえ、絶望したのは間違いない。私たちが来た時には今ほど表情が無く、思えば人を信用できなくなっていたのかもしれない。

 でも、工房を続けるつもりならきっと彼らが必要だろう。許せなくても折り合いをつけなくてはならない。


「勝負前に戻ってきたらフォーンが勝った時に居づらくなるよ」

「元々、嘘をついたのは向こうだってごねるさ」


 あっけらかんとした返事に、リラのぎゅっと握った拳が微かに震えている。一触即発かと思われたその後、意外にもリラは満面の笑みを浮かべた。


「戻ってきてくれて、有難う。頼りない親方かもしれないけれど、これからもよろしくお願いします」


 深々と頭を下げると、職人の一人がぼやく。


「らしくねぇな」

「え?」

「前みてぇに何やってんだ!って怒鳴ってくれないと」

「そうそう、前の親方よりおっかねぇ声でさぁ」


 職人たちが不思議なことを言う。リラは言葉が少ないけれど乱暴な言葉遣いはしない。きゃぴきゃぴした声ではないけれど落ち着いた優しい声なのに。

 すぅっと息を吸い込む音が聞こえた。


「うるさいよ!戻ってきたんならとっとと作業を始めな!」


 どすのきいた、お腹から出ている声でどやされた職人たちはとても嬉しそうだった。笑いながら作業場へとそれぞれ散って行って作業を始める。

 逆に、始めてリラのそんな姿を見た私たちは目をまあるくして呆気にとられた。ここへ来てから時間と共に慣れてきたと思っていたリラは、まだまだ特大の猫を被っていたらしい。


 困ったのはトープ達。これで工房を手伝う必要もなくなってしまった。リラに怒鳴られるのが怖いのか、様子を窺いながら尋ねた。


「あ、えーと俺たちどうすれば……」

「藍染の勝負が始まるまで間がある。それまでは工房の掃除なんかをして整えているだけだから、自由時間でいいよ。花摘みが始まったら人手が必要だから助けてもらえると嬉しい」

「分かりました。その時にはまた声をかけてください。職人が戻ってきた事は商会の方に知らせておきますよ」

「有難う」


 幾分か声は大きくなったけれど、今まで通りのやり取りにほっとする。そのまま解散の流れになりそうになったところを、ラセットが止めた。


「あ、ちょっとその前に報告が。旦那が来てから報告しようと思ってました。エーリカについてです」


 フォーンの後をつけて自宅を張っていると、やはりエーリカと思われる人物がいたそうだ。自宅から出入りするのはフォーンだけで、エーリカは全く外に出てこなかったらしい。窓からのぞき込む形でラセットはその存在を確認できたと言った。

 非常に仲睦まじい姿だったと、ラセットは心底嫌そうな顔で報告する。


「憑りついた相手にしか見えないなんて話もありますけれど、しっかり見えましたよ」

「ああ、それはかなり力の強いリャナン・シーだ。おそらく意図的に外に出ないだけなんだろう」


 ラセットの疑問にバルドが答える。


 フォーンは、エーリカが男だと知っているのだろうか。知っていて敢えて……だとしたら、仲を引き裂いてしまうのは忍びない。同性愛ってただでさえ障害が多いはずなのに。

 リラが心配しながら口を開く。


「相手が妖精で命の危険があると言っても、他の女性との仲を引き裂くのは罪悪感があるな」

「あ、エーリカって男性らしいですよ」

「え?」


 みんなが驚いた顔をして私を見る。そう言えばカーマインやトープにも報告してなかった。


「……って、ベルタが言ってました。エーリカと言う人間名を名乗るリャナン・シーに一人だけ心当たりがあるらしいです。バルドは知らなかったんですか?」

「ベルタが知っているリャナン・シーなら、もしかしてエリク……なのか?人間名は知らなかったがエリクなら心当たりはある。……そうか、彼が」


 何やら物憂げに考えこんだ後、バルドはいつかのようにがしっと両手を掴んできた。視界の端ではカーマインがすちゃっと腰の剣に手を掛けている。慌ててそちらへ首を振っている間にバルドが真摯に話しかけてきた。


「ノアール、彼を止めてほしい。妖精の住処が近いこの町で問題を起こせばどうなるか、分かっているはずなのに。フォーンからエリクを引きはがせるのはノアールだけだ」

「私からも頼む。フォーンには裏切られてしまったけれど、死んでほしいとまで思っているわけじゃないんだ。フォーンが同性愛者なら仕方がないかもしれないけれど、きっと騙されているだけなんだ!いくら可愛いからって、私よりそっちを選ぶなんてっ!」


 リラにも真剣な表情で頼まれてしまった。最後の方は悲鳴交じりで、悔しさが伝わってくる。


「うまくいくか分かりませんけれど、囮となる件なら覚悟はしてますよ。人が亡くなるのは嫌ですし」

「ああ、やめさせよう。妖精対人間の争いなんて事態になったら小説なんて書けなくなる」


 ……あ、小説の挿絵を描くって話、すっかり忘れてた。

読んでくださって有り難うございます

ブックマーク、評価、感想など大変励みになっております。

感想を書くシステムが変わったそうですね。一覧の横にいきなり項目が増えていて驚きました。

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