百六十五話 リャナン・シー
取り敢えず事態が動きそうだと、何となく安心した。リラが負けた時のことはあまり考えたくないけれど、エルメレム商会が就職口を見つけてくれるだろう。才能を無駄にするような人たちではない。
日数がかかる勝負なので、取り敢えずその場は解散となった。フォーンと職人たちとエルメレム商会の三人、それからラセットがカーマインに何か言われて外へ出て行く。
工房の隅でガガエとバルドが何か話している。近づいても小声なので聞き取りにくい。
「……が仕事をしているのを邪魔するのは……」
「でも……んでから……」
企んでいると言うよりは何となく深刻さを感じさせる話し方だ。気になって声をかけてみた。
「二人で何を話しているの?」
「んと、ノア、あのね……」
「リャナン・シーが端から憑りつく目的で人間に近づいた場合、時間が経てば経つほど引き離すのが難しくなる」
バルドに前置きも何もなくそんなことを言われ、理解が一瞬遅れて言葉に詰まる。「どう言う事?」と聞くとガガエとバルドはどこか気まずそうに話し始めた。
「本来なら妖精が仕事をするのを僕らは黙って見ているのが鉄則なんだ」
「だが、自分の主や友人に害が及ぶ場合はその限りではない。ノアが巻き込まれる可能性があるのをガガエも私も見過ごせぬ、と言うわけだ」
いまいち要領を得ない彼らの言葉に頷く事も出来ず、首を傾げながら続きを待った。覚悟を決めるかのように少し間をおいてから、ガガエははっきりとした口調で私に告げる。
「フォーンがリャナン・シーに憑りつかれているみたいなんだ」
「え……」
リラのセルヴィオ病に続いての災厄に、私は目を瞬いた。リャナン・シーと言えばバルドとベルタ。取り敢えず近くにいるバルドを見やると、自分ではないとばかりに首を振った。
「おそらくエーリカはリャナン・シーだ。と言っても本人を目にしていないから何とも言えない」
「このままじゃ、フォーンが勝って親方になってもフォーンが死ぬって形になっちゃうんだ。勝負自体がフェアじゃないし、リラが負けたらノアはがっかりするでしょ?」
「うん……」
がっかりどころか人が死ぬってことに気持ちがかなり沈みそうだ。
これだけたくさんの妖精と会っているのに、いや、会っているからこそ自分たちに害を及ぼす存在だと全く思いもしなかった。妖精の怖さは前もって知っているのに身近に被害が出るなんてと、頭でしか理解していなかったのかもしれない。
「ジーナたちが来る前に話を聞いたんだが、エーリカを誰も見たことがないらしい。以前に似たような事件を手掛けたことがあるんだが、あのやつれ具合からしてフォーンはかなりやばいだろうな」
後ろで聞いていたらしいカーマインから声が掛かった。トープとリラも寄ってきて、話に加わる。
「もしかしてカーマインが先刻ラセットに指示を出したのは―――」
「ああ、フォーンの後をつけてエーリカを探るように指示した。エーリカをどうにかすれば勝負をしなくてもフォーンはそのまま戻ってくる可能性があるけれど、リラ、どうする?」
一度は捨てられた身のリラが、どんな選択をするのか。許して迎え入れるのか、それとも拒絶するのか、私もそれはちょっと気になった。フォルカベッロのスクワルみたいに全部受け入れられるのかな。でもセルヴィオ病に罹ってしまう程リラは傷ついたのに、簡単に許してしまったらそれはそれでもやもやする。
リラはしばらく考えてから、答えた。
「勝負はするよ。やっぱり親方の継承問題に決着をつけるにはそれが一番だから。おそらく職人たちもその方が戻ってきやすいだろうし、フォーンを許す云々は別の事として考える。それより、リャナン・シーからフォーンを守る方法はあるのか?」
リラらしい、さっぱりとした答え。裏切られても、やっぱり命を落とすかもしれない状況は心配らしい。問いにはバルドが答えた。
「リャナンシーが憑りついた男から離れるのは、その男が死んだ場合と憑りついた相手を変えた場合だ」
「誰かが身代わりにならないとならないってことか?退治するのはカーマインでも無理なのか?」
トープがカーマインに話を振ると、カーマインは顎に手を当てて宙を仰ぐ。
「うーん、見た目がほとんど人間である生き物を退治するにはそれなりの策と労力がいるな。人殺しと思われるのも癪だし、ベルタが元リャナン・シーだから選びたくない方法でもある」
「新たに憑りつかれたものがエーリカに興味を示さなければ良いだけだ。丁度ここに芸術家がいるしな」
バルドがそういいながら私を見た。確かに私は芸術家の部類に入るけれど、エーリカが釣れるとは思わない。
「囮は私?でも私、女だよ。無理無理。染色の職人に憑りついたなら別の染色家に憑りついてもらうのが自然でしょう?」
「ああ、確かに。囮になる芸術家がこの辺にいないって思ってたけれど、フォーンも職人だしな。……ってことは俺も危ういのか」
トープがちょっと青ざめるのは分かるけれど、カーマインが何故かトープ以上に真っ青になっている。そうか、女性のリャナン・シーなら芸術に興味のないカーマインにうっかり憑りついてしまうかもしれないね。私が気を付けてあげないと。
リラは納得いかない顔だ。
「染色職人を芸術家として見るにはちょっと無理がある」
「そうかな?布地だって立派なカンバスだと思うけれど」
「模様や染め方の注文をする人はいるよ。芸術家ってのはそういう人たちを差すんだろ。私たちはノアにとってのトープみたいなもんだ」
私は画家だけど芸術家と言われても違和感はない。そりゃあ、ちょっと照れ臭くもなるけれどおかしくはないはずだ。でも絵の職人と言われたらかなり違和感はある。職人はトープであって私ではない。
「伝統工芸」と言う言葉にあるようにものづくりと芸術は密接な関係にある。芸を技と考えるなら職人も芸術家も大差ないはずだ。
難しく考え始めた私にリラは笑いかける。
「その辺はエーリカ本人に聞いてみるしかないけどね。ところでノア、今日はお洒落だね。すごく、可愛い」
カーマインから欲しかった言葉を真っ先に掛けたのは、リラだった。女性だから仕方がないとは言え、内心ではがっかりする。顔が引きつらないように気を付けながら「ありがと」と礼を言った。
ちらりと見たカーマインは見えない敵をどうやって扱うのか、ガガエとバルドに相談していた。
……はぁ……
馬車屋敷に戻り、着替えをしながらベルタと話す。不発に終わったお洒落を止めて、いつもの動きやすい服装に戻した。
「人間名としてエーリカを名乗るリャナン・シーに一人だけ心当たりがあります。ピンクと紫の中間のような髪色で可愛らしい女の子の格好をしていますが、実際には―――」
ベルタはぴっと人差し指を立てる。
「男です」
「え……」
「女性の芸術家が少ない故、男のリャナン・シーが生き残るための戦略です」
フォーンが可哀そう。リラはもっと可哀そう。そこまでなりふり構わず人間を誘惑しようとするなんて根性があると言うか何と言うか……
「バルドが可愛く思えてきた」
「あー、食料が無いからって女装する覚悟も無いですからね、兄は。この館にノア様目当てで襲撃を掛ける様子もございませんし」
「森でカーマインたちと引き離して、頑張って誘惑しようとしてたよ。流石にそこまで言うのは可哀そ……う……?」
ベルタがものすごく驚いた表情で私を見ていたから、思わず言葉が疑問形になってしまう。
「兄はそれほど醜くはないはずですが、ノア様は何も感じなかったのですか?」
「うん。ガガエがすぐにリャナン・シーだよって教えてくれたし、絵の題材としても魅かれるものがなかったからね」
最初から妖精として接してくれていたならそうでもなかったけれど、人間として見ていたからカーマインほどの魅力は無い。目を見張るほどの美貌なら、妹であるベルタの方が当てはまる。
夕飯の為に食堂へ向かおうと扉を開き、ベルタが出てくるのを待つ。ベルタは驚愕したまま固まっていた。
「ベルタ?」
「鉄壁すぎる……そうですね、ノア様なら囮に向いているかもしれません」
「同性愛者のリャナンシーも皆無ではないですよ」byベルタ
カーマインが青ざめている理由です。




