百六十二話 特訓
日本なら公園や河川敷など、運動できる場所はそれなりにたくさんあった。早朝にジョギングをしていてもあまり変な目では見られない。
この世界で運動をするなら城や砦の訓練場みたいな場所があるけれど、当然のことながら一般人は入れない。町中を目的もなく走れば怪しげな人に見えるし、加えて私たちは余所者だ。
森の中でも地面が平らで開けた場所を選び、カーマインは私を立ち止まらせて少しだけ歩く。
「それじゃ取り敢えず、そこからここまで全力で走ってみて」
言われた通りに五十メートルに満たない程の間隔を一生懸命走る。腕を振り足を上げ、全力でカーマインへと向かって疾走したつもりだった。
早いと褒められるかと思ったのに、カーマインはちょっと引きつった笑顔を向けただけ。
「ノアは走る時の姿勢が悪いな。絵を描くつもりでちょっと横から見ててご覧」
カーマインがお手本の走り方を見せてくれる。目を皿のようにして見ていた私は、けれど自分との違いがよく理解できない。首をかしげながらも、もう一度走った私にカーマインは呆れ果て、一か所ずつ直しながら体で覚えていく方法を取った。
「まずは体を起こして遠くを見て走る。はい、やってみて」
「違うだろ、前に教えた部分が抜けている」
「そうじゃない。……この辺は筋力の問題かな。他の運動も組み込まないと」
腕の振り方、顎の位置、重心の移動の仕方。カーマインの教え方は丁寧だけどスパルタだった。ダレてきて座りたくなってもそれを許さない。笑顔でにっこりだめと言って、立ったまま呼吸を整えさせる。
理屈では正しいのだろうけれど、今まで特に運動をしてこなかった私にはかなりきつい。
短距離を何本くらい走ったんだろう。最後の方はもう歩いた方が早いくらいにへとへとになって結局座ってしまった。カーマインは太陽の位置を見上げて撤収を決める。
「そろそろ工房へ行く時間かな。立てる?」
「はぁっ、む、無理っ。後っ、から、行くからっ」
「仕方ないね。それじゃ、よいしょっと」
へたり込んでいた私をカーマインはあろうことか横抱きに抱き上げる。息が上がっているのでまともな反論も出来ない。
「ちょ、かぁーまぃンっ」
「このまま置いておいたらゴブリンにいたずらされてしまうよ。嫌なら、体力つけて抱き上げられないようにしないとね?」
鬼だ。鬼教官がいる。人好きのする笑顔の腹の底は真っ黒だ。もしかしてこれが目的だったのかとさえ思ってしまう。
力が入らずにくてぇっと体を預けるしかなかった私は、そのまま馬車屋敷まで運ばれていった。言うなれば出勤の時間帯である。裏門からの短い距離とは言え、数人に目撃されてしまった。恥ずかしすぎる……
その日は一日中へとへとになりながらも何とか新しい絵に取り掛かれたけれど、次の日、全身が筋肉痛のあまりに立ち上がることすら出来なくなってしまった。昨夜に自分でふくらはぎだけもみほぐしたのに、焼け石に水だったらしい。
ミリア村で踊った時以来の筋肉痛だ。
回復魔法を使おうとしたら、筋肉を作る妨げになるので止めた方が良いとベルタに言われてしまった。我慢ともみほぐしと湿布で何とか乗り切ろうとする。
カーマインの部屋に行かないのを不思議に思って来てくれたアルマと、マッサージをしてくれているベルタによりカーマインへの愚痴大会が始まった。
「全く、ノア様を何だと思っているのかしら」
「大方、騎士や兵士の訓練と同じに考えてたのでしょう」
「女性への手加減を全くしない男なんて最低です」
「本当に」
「でも、約束通り鍛えてくれようとしただけだよ」
私のあまりの体力の無さと加減が出来なかっただけで、真摯に運動能力の向上を図ろうとしただけだと思いたい。私がカーマインをかばうとアルマは心配そうな顔をして言った。
「嫌ならきちんと拒絶しないとだめですよ。あの方は鈍感なのですからね」
色々聞いたり見たりしてきているので、何にも言えない。
不意にコンコンと扉がノックされ、返事をするとカーマインがひょっこり顔を出した。
「ノア、起きてる?」
「あれ、カーマイン。一人で起きられたの?」
「なんか、一緒にいられる時間を増やそうと思ったら自然に起きた」
てれてれしながらそそくさと部屋に入るカーマインと、対照的に鬼のような形相になっていくアルマ。
「そんな軽い気持ち一つで早く起きられるなら、私の今までの戦闘は一体……」
「ごめん、アルマ。感謝しているけれどこればかりはどうしようもない。あ、朝ご飯はノアと一緒でいいかな?」
「……ここに運べと、そう言うことでございましょうか」
アルマの声が低いものになり、薄々まずいと気づき始めたベルタと私は顔を見合わせることしか出来ない。カーマインは漸く私がベッドから起き上がっていないことに気づいたらしく、能天気な声でとんでもない事を言い始めた。
「あれ、ノアはもしかして筋肉痛?だったら俺もマッサージしてあげる」
「ぃひゃぁっう」
返事をする間もなくカーマインは私の足に触れる。本人は軽く触ったつもりでも、私には万力で締め付けられるような激痛が走った。ふっと遠のいた意識を呼び戻したのはアルマとベルタの叫びだった。
「女性の足に無許可で触るなんて!」
「手加減しなさいよ、この馬鹿力!スケベ!変態!」
「え、君たちの言うコイバナにはならないの、これ。優しく看護って」
「「なりませんっ!」」
怒ったアルマとベルタにより、カーマイン限定でしばらく面会謝絶となりましたとさ。
特訓が中止になろうとも、絵を描くことは変わらない。
妖精の絵は既に完成しているので、カーマインとベルタがモデルの絵に取り掛かる。神殿のスケッチはしてないので記憶に残っている部分だけだ。カーマインの寝顔をスケッチしたのは大豊作かもしれない。あれのおかげで表情を微調整できる。
昨日は構図を考えた。ポーズのモデルはカーマインとベルタだけれど、別人として描くつもりだ。場所は神殿の中なので、闇の神と女神の誰かに置き換えることもできる。男女の愛がテーマとは言え、クピドを描くつもりは無い。
……大した恋愛経験も無いくせにそんな題材を描こうとするのはおかしいだろうか。もっと人間的に成熟した方が作品に深みを与えられるかもしれないけれど、湖のそこで幻覚を見てから何か情熱のようなものが滾って仕方がない。
未熟な内にしか描けない絵だって、きっとあると思う。
「闇の神だと、カーマインモデルはちょっと弱いんだよねぇ。でも会った記憶のある人なんてほとんどいないはずだし」
実をいう私もすでに記憶は朧気で、もう少し年齢を重ねた感じだったような気もする程度だ。髪の毛を黒に染めたカーマインと、恋愛を司る紫の女神で描き始めることにした。
絵の具を厚塗りに、写実や印象派などの境界線を踏むように、官能的に、でも下品にならないように。
肌の露出はほとんど無い。神殿にあった女神像は描かず、窓から差し込む水を通した光にさらされた二人を表現した。描き始めた当初よりも神秘的な雰囲気が具現化していく。
しばらく面会謝絶になったのは良い機会かもしれない。会えない時間がそのまま、のめり込む意識に変換されていく。声を聴きたい、顔を見たい欲求を絵にぶちまけていく。私自身、自分の中にあると思っていなかった乙女な部分が刺激されて、それが創作の意欲になっていた。
ため息が多くなっていく。ガガエはいつの間にか部屋からいなくなっている。
数日経ち、いつの間にか筋肉痛もほぐれた頃にエルメレム商会からお客様がやってきた。




