百四十九話 カーマイン視点
様々な妖精に囲まれながら森の中でノアが絵を描く様は、まるで―――誇張しすぎかもしれないが―――聖女のように見えた。
念のために警戒をしているが、妖精たちに紛れているゴブリンも大人しくしている。絵を描くノアが種族の垣根を取り払っているかのようだ。
争いごとなど何もない、平和な光景。邪魔をしたくないが残念ながら日は頭上へと登り始めている。
ケット・シーだけを描く約束なのに、視線が時々あちこちに向いている。あの様子では他の妖精もつまみ食いならぬつまみ描きをしているに違いない。
―――そろそろ声をかけて出発するか。
声をかけようと近づいた目の前を光を宿した小さな妖精が通過し、それに気を取られてノアから目を離す。
「ガガエに似た感じの妖精だな」
「こんなにいろいろな種類の妖精がいるなんて知らなかった。ゴブリンも妖精の部類に入るんだな」
「お嬢さんといると本当に変わった体験が出来ますねぇ……って、あれ、お嬢さんは?」
ラセットの上げた声に夢うつつの状態から現実に引き戻される。ノアがいた場所に視線を戻すと、ノアは姿を消していた。周囲を囲んでいた妖精たちもいつの間にかいなくなっている。
「ノアっ!」
走り出しながら慌てて辺りを探すと、通り過ぎた木の陰からノアがひょっこりと顔を出して、首をかしげながら不思議そうに聞いてきた。
「どうしたの?」
「……いや、一瞬見失ったから心配になっただけだよ。そろそろ行かないと昼前に湖は間に合わないし」
「じゃあ、先に進もっか」
ノアがするりと自然に腕を組もうとしたところで、違和感を覚えた。
首をかしげる仕草はいつも通り。姿も何ら変わったところは無い。けれどこんなにも自然に腕を組んでくるノアは、想像もできなかった。腕を見やるとロートスの腕輪はしっかりとはめられていて、判断の理由にはできない。
存在そのものが幻覚か、それとも本物に何かが憑りついているのか。
確信は持てないから慎重に会話で探るしかない。
「はぁ、驚かせないでくださいよ」
「そうだ、ノア。いい加減出発するぞ」
ラセットとトープはまだ何とも思っていないようだ。こっそり教えるために彼女のおかしなところを指摘してやる。
「持っていたスケッチブックはどうしたんだ?」
「バルナスが見たいって言ったから渡したの。小説のネタを考えながら妖精たちと先に行くって。私たちも早く行こう?」
眼を離した一瞬でそれほどのやり取りをしたとは思えないし、仮にスケッチブックを渡したとしても他の画材まで手放す必要はない。今の彼女は手ぶらだ。ここでトープも、いつもノアにくっついている妖精がいないと気づいたらしい。
「なあ、ガガエはどうしたんだ?」
「他の妖精たちと交流を深めているみたい。やっぱり同類といた方が落ち着くのかしら?ガガエも一緒に湖に向かうと言っていたから、向こうで落ち合えると思う」
ガガエに関しては辻褄が合っている。最近はノアのもとを離れて探検に出かけることが多かった。知らないうちに山へ入り、交流を深めていたのかもしれない。
偽物と疑ってかかり始めると、いろいろなところが気になってくる。
馬車妖精たちが用意したり使用したりしている石鹸や洗剤のにおいがしない。
普段は絵の題材を探してこちらをあまり見ないのに、目線がばちばちと合う。そのたびにニッコリ笑うなんてサービス、ノアはしてくれない。寧ろ照れて少し頬を染めながら逸らす。絵のモデルになるとこちらが戸惑うほどまっすぐに視線を向けてきて、そのギャップにひかれてしまうくらいなのに。
妖精特有の神秘的、浮世離れした雰囲気もある。かと思えば俗っぽい、きらきら、色っぽい感じもする。性的な気配や匂いのようなものを増長させたその姿は、魅惑的を通り越して蠱惑的に見えた。男を食い殺さんとする妖精の話はリャナン・シーだけではない。
「自分から腕を組むなんて珍しいんだな」
「春は、紫なの。紫は恋愛を司る。だからちょっと、頑張ってみようかと思って」
「どちらかというと雷だろ。ああ、ほら、今もなってる」
セルヴィオ山の山頂近くから獣の低い唸り声のような音が響いてきた。
彼女は怖がるようにきゅっとしがみついてきたけれど、ノアなら逆に稲光に見とれているような気がする。
不意に、ヴェスタやシャモアを思い出した。俺と周りの者との関係が壊れようとも一切気にしない彼女たちに、苦い思いをさせられてきた。
今だってトープとラセットが傍にいるのに、目の前を引っ付いて歩かれたらいい気分はしないだろう。途端にそんな生き物がノアの姿を真似ていることが腹立たしくなる。
聖女のようだと例えはしたがノアを神聖視して崇めるつもりはない。ノアはただの、普通で特別な女の子だ。春だから頑張るというなら、皆のいないところで照れながらこっそりするだろう。
もしもノアが今の状態を見たら、嫉妬に怒り狂うよりも身を引いてしまう気がする。それだけはまずい。
「昨日のゴブリンたちへの警告は、足りなかったかもしれないね?」
「え?」
組まれた腕を無理やりほどき、襟元を締め上げながら彼女を手近な木に押し付ける。ノアによく似た顔を苦痛に歪められて、思わず手を緩めた。
……ああ、もうっ!やりにくい!
「ノアを、どこへやった?あまり、乱暴はしたくないんだ。答えてもらえるかな?」
「何を、言って、いるの」
息を吐きだしながら戸惑うように、言う。一瞬、本物ではないかとの考えが頭をよぎり、慌てて振り払う。
「紛らわしい真似をするな。何が目的だ」
「私を疑っているの、カーマイン?」
目をそらしたり頬を赤らめるどころか挑発的に見上げてくる。なんだか余裕ぶった仕草が気に食わない。色恋の空気を匂わせれば、途端に挙動不審になるのがノアなのに。
偽物だ。偽物だろう、こんなの。
かぁーっと頭に火が付いたように熱くなっていく感覚の中で、この生き物をぶち壊したくなる衝動に駆られていく。自分でもそんなにノアに執着しているなんて思ってもいなかった。緩めた手に再び力が入るその背後で、トープとラセットが何とものんきな会話を繰り広げている。
「妹が乱暴に口説かれているようにしか見えないんだが」
「気持ちはわかりますが別の方法を取って欲しいですよねぇ。なんだか居た堪れなくなる」
「カーマインはそれが偽物だって理由がしっかり持てているのか?ノア本人に憑りついてる可能性だってあるんだろ?」
トープの指摘に少しだけ冷静になれた。確かに会話の内容や雰囲気だけで判断してしまっている。確かめるには絵を描かせるのが一番だが、手元に描けるものがない。
頭の先から足元まで眺めて、あることを閃いた。
「よし、湖まで競争しようか」
「え?え?」
「ノアが先に着いていたらノアの言うことを何でも一つだけ聞いてあげよう。はい、始めっ!」
競争開始の合図とばかりにぱんっと手を打つと、彼女は風のような速さで走って行ってしまった。走りトカゲを必死になって追いかけていた速さと同一人物とは思えない程に。トープもラセットもその背を追いかけず、ただ見送っただけだった。
疑いようのない程に、あれは偽物だ。まともに筋肉が付いていない体に憑りついても、限界以上に動かせるはずがない。
「あのなんちゃってお嬢さんは随分と俊足であらせられるんですねぇ」
ラセットが呆れを全く隠さない声で笑った。
これで彼女が偽物であると証明された。果たしてその種類の妖精だったのかは分からない。けれど解決されていない最大の問題が一つ残っている。
―――ノアはどこへ行った?




