スローライフをおくりたい
「………」
翌朝のことである。
不意に目が覚めた俺は、何やら背中が痛いのと、そして無性に脇腹が重いことに気が付いた。
昨晩は…確か、あの後どんちゃん騒ぎになったんだったか。何故かテンションの振り切れたアイリスと、第一次交渉の健闘を素直に祝って酒を飲んだのだ。
頭痛はない。だが何故か身体が痛い。
そのまま数度目を瞬かせ、手を着いて上体を起こした。…床に寝てたのか。そりゃあそうなるわ。
固いフローリングに転がっていたことを悟り、未だに腹の辺りが重いのは何故だろうかと目を落とす。
果たしてそこには、精緻な人形のような美少女が、俺の腹を枕にぐーすかと眠りこけている姿があった。
俺は無言で立ち上がり。気分転換に朝風呂に入ることにした。
何か重いものが床に落ちる鈍い音と、「ファッ!?」という奇声は聞かなかったことにして。
*****
「はぁ…さっぱりした」
風呂を出て、服を着る。装備ではなく私服――防御力の低い布の服だ。
ゲームだった頃に買ってあった数売品の一つだが、《品質向上》や《サイズ調整》のエンチャントをクランメンバーが付けてくれているので着心地は悪くない。
見た目は無難な黒のスラックスと白いカッターシャツである。此処にエプロンとアームバンドを着ければ、「宿屋」レイナードの完成だ。
因みに、何故魔法を使うのにローブのようなMPと魔力に補正のかかる服を着ないのかと言えば、職業による装備制限が関係している。
「宿屋」はそもそもが非戦闘系の生産職。
故に、装備できるのは服一択となるのだが、仕様上「魔法系統専用」のローブや法衣は装備できないのである。
とはいえ、それはあくまでゲームの話。
システムで管理されていないであろうこの世界であれば、ローブどころか騎士が着るような総金属製のフルプレートまで装備することが可能なはずだ。
まあ、だからと言って普段からガシャンゴシャンと煩いのは勘弁なので、結局はこの服を着ることになるのだろうが。
そんな益体のないことを考えながら、まだ水分の残っている髪を《精霊魔法》で生み出した熱風で飛ばしていく。
そうして乾いた髪を首元で括ると、俺は脱衣場を出ようとして――ジトっとした視線が扉の隙間から覗いている事に気が付いた。
「……お前はあれか、TSしただけに飽き足らず、変態にまでジョブチェンジしたのか」
「ち、ちがわいっ!」
心なしか頬を染めながら叫ぶアイリスだったが、動揺している様を見ているとますますそれっぽく見えて反応に困ってしまう。
もしかして、あれか? よくある「精神が肉体に引っ張られる」とかいう奴なのか?
僅か一日でここまで進行していただなんて…TS、実に恐るべし!
――まあ、どうせ実際はさっきの件で文句を言いに来ただけなのだろう。
覗いていたのはタイミングを逸したからだ。
「そう、そのとおりだよ! というか、お風呂入るなら言ってよね。危うく鉢合わせするところだったんだから」
「その後覗いてりゃ意味ないんだが」
「それは服を着たか確認するためだったの!」
男が男の裸を見て、一体何を戸惑うことがあるというのか。
ますます顔を真っ赤に染めたアイリスに、ついそんな感想を抱いてしまう。
逆ならともかくと鼻で笑ってやれば、怒りが臨界点に達したのだろう。追い出されるようにその場を後にすることと相成った。
…ま、普段からからかうような言動の多い彼女へのちょっとした意趣返しというやつだ。思ったより面白いものが見れて満足である。
さて、奴が出てくる前に朝食の準備をするとしようか。何を作ろうかね。
「無難にベーコンエッグ…いや、BLTサンドにでもするか」
厨房に設置された食材用のボックスを整理しながら献立を決め、必要なものを取り出していく。
ベーコンにレタス、トマトと卵、プレイヤー印の調味料各種に、肝心要の食パンである。BLTE、或いはBLTTなのは気にしない。
気持ち厚めにパンを切り分けて、魔道具職人に作ってもらったトースター(同時に十枚まで焼ける宿屋仕様)に突っ込んでおく。
焼けるのを待つ間に野菜を切り分けておくか。卵はアイツが出てから焼けばいい。
妙なところで拘りがあるからなあ…と以前勃発した目玉焼き戦争を思い出しながら、トマトを輪切りにしてレタスをちぎる。
ブロックのベーコンは薄切りにして、少しの油でカリカリに焼く。
分厚いのも食べ応えがあっていいのだが、サンドするなら俺は断然こっち派だ。
「良いにおい~」
おや、思ったより早かったな。
「ボク、朝はシャワー派だからね。此処シャワーないけど」
「あの魔道具高いんだよ。魔石も凄ぇ食うしさ」
言いながら、熱風を出してやる。
ブロンドの髪がしっとりと濡れて陽光に輝いている様は、見馴れないのもあって素直に綺麗だと思う。
思うのだが、せめて乾かしてから出てこいよ。風邪引くぞ。
「だって長すぎてすごい時間かかりそうなんだもん」
口を尖らせながらわしわしと首に掛けていたタオルで水気を拭き取るアイリスだったが、まあ、実際ゲームの頃は風呂に入る必要もなかったからな。乾かす必要もなかったし。
因みに、当宿の風呂は洗い場と浴槽しかない非常にシンプルな造りとなっている。
給湯器などという便利な代物はないため、薪で沸かすタイプの非常に原始的なそれだ。
まあ、実際には面倒がって魔法で水を張り《ファイアーボール》などの火属性をぶち込んで湯を作るという力技が横行しているのだが。
なお、先ほども言ったとおりシャワーはないので桶で湯を汲んで使う。
魔道具のシャワーの購入も建設時に検討されてはいたのだが、ある意味嗜好品のようなものなので価格も高く、断念せざるを得なかった。
余談だが、入る必要もないのに風呂がある理由については、女性メンバーと一部の男性メンバーの強い要望だったことを申し添えておく。
「ん、乾いたな。朝飯ももうちょいでできるから座っとけ」
「あ、じゃあ飲み物とか出しとくよ。何飲む?」
「任せるわ」
りょーかい! と小走りに先を行くアイリスに微笑ましさを覚えつつ、俺も朝食を仕上げるために厨房に戻ることにした。さ、あとは目玉焼きだけだな。
*****
「それで、今日はどうしよっか? まだ街に出るのはやめておくんでしょ?」
「ああ」
腹を満たした俺たちは、食後のコーヒーを嗜みながら今日は何をするか話し合っていた。
と言っても、昨日の話し合いで結論まで持っていけなかったので、今日も宿の敷地から出るつもりはないのだが。
街中に出て色々と見て回りたい、という気持ちがない訳ではないのだが、今出て行って混乱を起こしてしまうと、ワルターたちに迷惑を掛けることになるからな。
彼らが次いつここに来るつもりでいるのかは不明だが、あの様子ならそう何日も経たずに顔を見せてくれるだろうし。
さて、今日の予定について、だが。
「折角畑があるんだし、今の内に手を入れておきたい」
「なるほど。ある程度自給できるようにしておくのはいいね」
うんうん、と頷くアイリス。
本職の〈農業〉には敵わないまでも、俺にも〈家庭菜園〉がある。
畑で野菜を作ることができれば、まだまだ在庫の底が見えない食料ボックスとはいえ幾らかの補填にはなるだろう。有限なのは確かなわけだしな。
それに、もし本当に宿屋を開業した場合にも、畑があればなにかと便利だ。
採れたての野菜というのはそれだけで美味しいものだし、ハーブの類を作っておけばちょっとしたアクセントにも使える。
なにより、日々仕入れることになる食材の出費を僅かでも抑えられるようになるならばそれに越したことはない。
加えて、幸いなことに昨日確認したアイテムの中に何かの種子らしきものもあったのだ。
どの季節の作物かは判別できないが、まだ暑い時期なので上手くすれば冬前には収穫が叶うかも知れない。
怖いのは植物型の魔物の種子だった場合だが…以前見たことのあるどれとも合致しないので、新種でもない限りは魔物である可能性は低かろう。
倉庫に入っていたことからゲームから引き継いだアイテムであることは確実。ならば出処はおおよそ思い当たるので、とりあえず埋めてみようと思う。失敗したらその時だ。
「じゃ、着替えたら早速畑だね。宿屋王――鍬の貯蔵は充分か?」
誰が王やねん。
そして鍬って。一揆かよ。
一瞬鍬と鋤を両手に持って白兵戦を繰り広げる弓兵を想像してしまい、失笑せざるを得なかった。
料理上手な上に農作業までこなすとか、最早某全力疾走なアイドルグループにでもいそうな英霊である。
俺たちは中身のなくなったコーヒーカップを手早く片すと、早速畑に出ることにした。
「さて、耕すか」
道具も持ってきて畑の前に立つ。
服装は汚れてもいいものなので、俺は作務衣、アイリスはオーバーオールに麦藁帽を被ったラフな格好だ。長い髪は邪魔だったのか、俺と同じで一つにまとめている。
その姿はまるで農業体験をする留学生か、或いは某国の作り話の民間伝承のようだった。
髪を切って斧かチェーンソーを持たせれば完璧である。まあ、流石にあそこまで(物理的に)スケールの大きな存在になられると、逆にこっちが困ってしまうが。
「これが開拓者魂だーっ!」
完全に意識してるじゃねえか。
鍬を振り上げながらもいつだってネタ精神を忘れないアイリスに呆れつつ、俺もそう広くない畑を耕していく。
しかし、農作業なんていつ以来だ…?
小学生か、中学生か。大分昔にちょろっと体験学習しただけのそれに懐かしさを覚えつつ、時折敷地の傍を通りがかった街の住人と会釈を交わす。
彼らはワルターの言っていたとおり、おっかなびっくりしながらではあるが頭を下げてくれたのが印象的だった。
そうして、昼近くまで畑仕事に没頭していただろうか。
適当に種を捲いたところで、畑の逆側にいたアイリスが何事か呟いた。
「なんか、戦闘ばっかりやってたのが今更勿体なく思えてきたよ」
「確かに」
思わず苦笑しながら同意する。
ゲームだった頃の俺たちは、元から興味があったり必要に駆られて就いた以外の生産職はほとんど触ってなかったからな。
森に入れば魔物と戦い、街道を歩けば野盗を捕まえ、街の中でもPvPに明け暮れる。
メンバーが揃わず手頃な依頼もなかった時でさえ、遠征のための保存食を作ったり、装備の手入れをしていたりと、その根底にあるのは戦闘だった。
もちろん、そんな日々が楽しくなかったとは言わない。
だが、こうして正反対なことをしているとしみじみと思ってしまうのだ。
俺たちは、きっとTWPの世界を半分も楽しめていなかったのだ、と。
「言っちゃえば土を耕すだけ。種を捲くだけ。水をやるだけなんだけどさ。なんか、こういう緩い感じもそれはそれで楽しいんだなって」
「スローライフってやつか。戦闘のあの忙しなさとは違った趣があるよな」
「うん。…あの時は何でボクらがって思ったけど、今は寧ろ感謝したいぐらいかも」
えへへ、と笑い頬を掻くアイリス。
実際、あの時「宿屋」になってなかったとしたら、俺たちは今頃どんな行動を取っていただろう?
昨日一日は大した変化はないにしろ、今日になればきっと街の外に出ていたはずだ。
前衛をこなし回復魔法も使える「神官戦士」と、全ての魔法を扱え火力も高い後衛の「大魔導」が揃っていれば、例え少々の遅れをとったところで早々死ぬようなことはない、とか言って。
あんまりあっさりとその様が浮かぶものだから、俺もついつい笑ってしまった。
確かに、感謝すべきかもしれない。戦闘職だからと慢心して危険に飛び込むなんて、無茶無謀にも程がある。
「さて、と。道具の掃除も終わったし、そろそろお昼ご飯にしよう!」
鍬を洗うのに使った桶の水を畑の片隅に零すと、アイリスはキラキラと目を輝かせて笑った。
俺も《精霊魔法》での局地的な雨を止め、応えるように笑ってみせる。
今までの俺たちにとっては無為な時間にも感じるが、こういうのも悪くないな、なんて思いつつ。
「何か食いたいもんあるか?」
「折角だからパンケーキで!」
「いつまで引っ張るんだよそのキャラ設定」
*****
P・アイリス「イベント中ならハンバーグでも可」