『旅人』と『塔』
それは、今朝早くのことだった。
「至急執務室に来るように」との命を受けて参上した俺が見たのは、いつになく焦りと、そして喜色を浮かべた領主様が山のような文献を読み散らす姿。
常にかっちりと整えられた髪はところどころ寝癖らしきものが飛び出していて、周囲を忙しなく動く文官連中にあれやこれやと指示を飛ばす様には普段の余裕が感じられない。
一体全体何事でしょう。
俺は邪魔にならないような部屋の隅に足を向けると、そこで同じ様に呼び出されたらしい同僚に声を掛けることにした。
「おはようございます。一体全体何事ですかね?」
「さて――私も来たばかりでな。何やら『旅人』だの『塔』だのと聞こえてきたが…」
「『旅人』に『塔』…? すると、領主様はこんな早朝から御伽噺を読み漁っているわけですか?」
思わず呆れの滲んだ声が出てしまう。
即座に隣から飛んできた鋭い視線を流しながら壁に背を預けていると、どうやら他の隊長連も集まってきたようだ。
誰も彼も朝っぱらから呼び出された所為で、なんとも眠たげな顔をしている。かくいう俺も欠伸を噛み殺し…おお怖。そんな睨まないで欲しいんですが。
「レイノス様。ヒューストン以下7名、参上しました」
「ああ。皆、朝早くからすまないな」
各隊が揃ったのを確認し、アゼリアが一歩前に出る。
その声でやっと顔を上げた領主様は、ずらりと並ぶ俺たちを見てスッと表情を引き締めた。
そしてそのままの声色で、こんな時間に呼び出した理由を口にする。――それは、何とも素っ頓狂な話であった。
「集まってもらったのは他でもない――この街に、多数の『旅人』と『塔』が出現した」
「……は?」
誰とはなしに、そんな間抜けな声が漏れ出した。
最早魔法のような反応でアゼリアがこちらを見てくる。いやいや、今のは俺じゃないですって。
小さく首を振りながら、けれど胸中には声の主と同じ思いを抱く。
『旅人』に『塔』。
それは、きっとこの国の誰しもが一度は耳にしたことのある、有名な御伽噺に出てくる単語である。
――ある時、少年は一人の旅人と出会いました。
旅人は泣いていました。
どうしたの、と声をかけると、旅人は泣きはらした顔で言いました。
「遠く――遠くからやってきたのです。帰る道がわからないのです」
――旅人は、少年の前に立ちます。
そして、微笑を浮かべながら少年の手を取りました。
「あなたが立てないのなら、わたしが支えてみせましょう。あなたが歩けないのなら、わたしがその手を引きましょう」
――大きな魔物。強い魔物。空を飛ぶ魔物。
目の前をうめるような魔物の群れを前にして、けれど旅人は少年に笑いかけます。
「きっと、わたしが此処に呼ばれたのは、あなたを助けるためなのでしょう」
「わたしの力。わたしの全てを、あなたに捧げます」
そう言って、旅人はその力のすべてを解き放ったのです。
――旅人は、少年に笑いかけます。
「わたしの役目は、終わったのです」
少年は、泣きはらした顔で言いました。いかないで、と。
旅人は、目を閉じるとうたうように言いました。
「いつか、あなたが再びわたしに出会ったときは」
「あなたはきっと、またわたしを救ってくれるのでしょう」
「その時は、きっとわたしも同じです」
「あなたを助け、あなたを支えてみせましょう」
――旅人は、いってしまいました。
いつか少年に話してくれた、不思議な塔を探しにいってしまいました。
いつもそばにいてくれた旅人は、もう少年のそばにはいませんでした。
けれど、少年は泣きません。
少年は、旅人の言葉を胸に、今日も歩きつづけます。
いつか、ぼくがまた君と出会ったときは。
君はまたぼくを救ってくれるのだろう。
その時は、きっとぼくも同じだ。
君を助けて、今度は一緒に塔を探そう。
「レイノス様…いくらなんでも、朝っぱらから冗談が過ぎると思うのですが?」
夢見枕に聞かされて、最早諳んじられるまでになってしまった節々を思い返しつつ、へらりと笑いながら前に出る。
燃えるような瞳が側頭部を射抜くが――それはもう今更のこと。
主人に忠実であるのは騎士として当然のことだが、盲目に従って夢幻と遊ぶほど騎士という存在の責任は軽くない。
魔王領と隣り合っていて、魔物の脅威度も高いこの地を治める領主様が日々優秀な人材を求めて頭を悩ませていることは知っている。
けれど、それを御伽噺に求めるというのは…というか、何で俺みたいなぐうたら騎士がそれを諫める役目になってるんですかね?
不満を篭めて見据えると、領主様はなんとも楽しげに口角を釣り上げた。
「ほう。言ってくれるではないか、ワルターよ」
「それはまあ、言いますよ。俺たちの仕事は道楽じゃないので」
それに追従するように、うんうんと頷く連中が横目に見える。
約一名はそれをお前が言うのかとでも言いたげな視線を向けてきている気もするが、きっと気のせいでしょう。うん。
不遜とも取れる抗議の言葉。だが、それに動じない辺りは流石我らが領主様、といったところだろうか。
「ふ、確かにな。――だが今回の件については、冗談でも道楽でもないのは確かだ」
そう言って傍らの文官に目をやると、一つ頷いた彼が大きな羊皮紙を抱え上げて来る。
これは…この街の地図?
執務机の前に置かれた簡易的な卓に広げられたそれを、席を立った領主様を含めた全員で俯瞰する。
ところどころに赤い点が落とされた円形の図は、確かにこのグラードの街を描いたそれだった。
「この赤丸の記されている箇所は、この街の中でも特に魔素の濃い、地脈が交差している土地を示しています」
文官の説明と共に、四個の赤丸が示される。
その内の一つはどうやらこの館がある場所のようで、残りは確か空き地になっている場所だったはず。
仕事の合間に街を散策する趣味が巧を奏してか、地図を見ればすぐにその辺りの景色が浮かぶのが俺の特技の一つと言っていい。
しかし、そんな重要な場所だったとは…どうせなら、何か施設でも作れば有効活用できそうなんですが。
そんな俺の思考などお見通しなのだろう。領主様は、そこを空き地にしているのが何故なのか説明してくれた。
「皇帝陛下の――というよりは、代々受け継がれてきたこの国の方針なのだ。必要最低限を除いて、地脈を塞いではならぬ、とな」
「へえ。それは、どういう意味があるんです?」
「ふ…それこそ、此度の件に関わる理由だ」
今回の件に? というと…
「…まさか、『塔』の出現を邪魔しないために?」
「くくく。正に、その通りだよワルター。私も本当に現れるとは信じていなかったがな」
楽しげに、例えるならば魔王の如き邪悪な笑みを浮かべる領主様に、まるで冷気の魔法をばら撒かれたかのような感覚になる。
…このお方、この人相で絶対損してますよねぇ。
御伽噺がただの御伽噺でなかったという事実を前に、思わずそんなことを考えて衝撃を受け流す。
――さて、そうなると、だ。
隣で固まってる騎士団長様をチラリと見つつ、先の言葉について考える。
御伽噺の内容を信じるのなら、『旅人』はその一人一人が一騎当千ということになる。それが多数出現した、となると、確かに全隊を以て事に当たるというのは間違ってない采配だ。
そして『塔』についても、その全容が知れないという意味では同じこと。その一つ一つを、細心の注意を払って確認するべきであろう。
「さて、貴様らへの指示はもうわかったな?」
「『旅人』の保護…それに、『塔』の調査、ですね」
「うむ。間違っても事を荒立てるなよ? 知ってのとおり、相手は多数の魔物を一時に相手取れる力を持っている」
――万に一つもあれば、このグラードが消滅すると知れ。
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