まだ慌てるような時間じゃない
現実でもゲームでも、あれほどのものは食べたことがない。流石魔王。料理の腕も別格ということか。
何か恐ろしいものの片鱗を味わった先程の一件については一旦置いておくとして、取り敢えずこのエプロンは封印しよう。
こんな飯を常食していたら、別の意味で問題を招きかねない。
装備品用のボックスに魔王様を放り込み、別の装備を引っ張り出して着用する。こっちなら〈料理〉への補正はないし大丈夫なはずだ。
「しかし、上限を突破するってことは、システム的な制限がなくなってると考えていいのか?」
「…難しいところだね。習得してた他のスキルは綺麗さっぱり使えないし、かと言って上限が開放されているかなんて、メニューがない以上検証しようがないし」
確かに、今回のことだってあからさまに違うから分かったようなものだ。仮にこれが普通に経験値を貯めて、熟練度を101にしたところで大した違いは分からないだろう。
それに、職業レベルにしても同じだが、カンスト間際になってくると1つレベルを上げるのに要する経験値は馬鹿にならない量になってくる。
レベルが上昇したことを実感できるのは、きっとまだまだ先のことだろう。
だが、システムから離れたことを確認するだけならば他にもやりようはありそうである。
「何する気?」
「まあ、ものは試しだ」
空のコップに手を翳し、怪訝な表情のアイリスに口角を上げてみせる。
「――世界に数多在る水の精霊よ。我が声に応え、冷たき水を満たし給え」
〈精霊魔法〉のアーツを使うのと同じ要領で、意識して詠唱に力を籠める。
本来は最後のキーワードとしてアーツの名前を言う必要があるのだが、残念ながらTWPにおける〈精霊魔法〉には生活系の魔法は存在しない。こんな屋内で攻撃魔法などぶっ放したくはないので、今回は端折った形だ。
ゲームでは単なるフレーバーでしかなかった精霊が、現実となった今、存在しているのかを確かめるのにも丁度いい。
もし精霊たちがいて、かつシステムという名の枷がないのであれば、魔法という形で結果が現れるはずだ。
なにしろ〈精霊魔法〉は、精霊たちの力を借りて行使する魔法、という位置付け。つまり、見方を変えれば精霊たちに意思を伝えるためのスキルであるとも言える。
…そして、どうやら俺は、彼らに願いを届けることに成功したらしかった。
「うそぉ…」
コップの内から、まるで源泉のように水が湧き出してくる。
不可思議な光景だ。正しくファンタジーとしか言いようのないそれを前にして、アイリスの口から間の抜けた声が零れる。
ほんのりと冷たさを覚える掌に、思わずニヤリと笑みを深めた。どうやら、精霊が聞き入れてくれさえすれば、応用範囲も広そうである。
これならば、万一の際に取れる手段も増える。日常的なアレコレにしたって、余計な手間を省くこともできるだろう。
何しろこの世界、ゲームだったからと言ってしまえばそれまでであるのだが、魔法が存在するからか科学が未成熟なのだ。簡単なカラクリ程度ならともかく、大部分は魔法・魔道具に置き換えられている。
例えば水道関係は水を生み出す魔道具を使っているし、先ほど使った調理用のコンロも同様だ。他にも、灯りや記録機器に相当するものまである。
尤も、そういった魔道具は想像に漏れずお高い傾向にあるので、ホームとして宿を建てる際はかなり勉強することになった。プレイヤーの職人はその類の魔道具を作る者が殆どいないので、NPC産を使うしかなかったのも費用が嵩んだ一因である。
一般市民の間にどれほど広まっているかは定かでないが、余程裕福な家庭でなければ設置できないのではなかろうか。手伝いらしき子供の姿を思い出し、そんなことを考える。
まあ、何にせよ拠点があるというのは素晴らしいことだ。でなければ今頃、途方に暮れて危険に突っ走る羽目になっていたのは想像するに難くない。
となると、衣食住は確保できていることになる。衣服はボックスに色々と入っているし、食についてもまだまだ余裕がある。とはいえそれも、胡坐を掻いていれば食い潰すのはあっという間だろう。
「とりあえず、当座の金をどうやって捻出するか、だな。アイリス、そろそろ戻ってこーい」
現在の俺たちの所持金はゼロ。無一文である。
どうもアイテムの類はアイテムとして存在していたので持ち越すことができたようだが、所持金は画面上に表記されていただけなので消えてしまったらしい。
つくづく、ホームを建設した後で良かったと思う。折角溜めた資金がパァになったりしようものなら、心が折れそうだしな。
呆けたままだったアイリスに声をかければ、すぐに再起動して唸り始める。この切り替えの早さは、素直に尊敬できるレベルだ。
「お金かあ。帰る見通しが立たない以上、どうにかして稼ぐ必要があるよね…」
「冒険者として依頼をこなすのが手っ取り早いんだが、この辺りは魔物が強いからなあ…」
アップデートで開放される新エリアに挑戦すべく来たこの街は、現状ダンジョンを除けば一番魔物が強いエリアだ。
勿論、ステータス的には神官戦士がカンスト間近だったアイリスの敵ではないのだが、リアリティのあった戦闘とリアルな戦闘ではそもそもの前提からして違う。
絶対的な安全がない以上、わざわざ危険を冒す必要もあるまい。
となると、魔物を狩る以外で稼ぐ手段を考える必要があるわけだが…うぅむ。魔石を作って売るにも限度があるしなあ。
そうして二人して唸ること約数分。遂にはテーブルに頬を着けて溶けていたアイリスが、唐突に「そうだ!」と起き上がる。
「宿屋だよ! 宿屋! ボクらはそのために転職したんじゃないか!」
「お前は転職してねえけどな」
「それを言われると耳が痛いけども!」
宿屋…宿屋か。
確かに俺の職業は「宿屋」で、クランホームとして建てたとはいえ此処は宿屋だ。
それなりに部屋数もあるし、建てたばっかりだから個人の持ち物もすぐに片付くだろう。提供する料理は俺が作ればいいし、給仕にしたって「ウェイトレス」じゃないとできないなんてこともないはずである。
部屋の掃除や洗濯も、機械の代わりに魔法がある。流石に日本の旅館やホテルのような本業とまではいかないだろうが、TWP内で実際に泊まった宿屋の平均程度には持っていけそうだ。
あとは、問題になりそうなのは価格設定と手続き関係か…
「宿屋の組合とかあると思うか?」
「んー…微妙なところだね。一口に宿屋って言ってもピンキリだし」
「そうなんだよなあ」
TWPでの宿屋は、ログアウト・ポイントとしての役目を担っていた都合上、一つの街に多くの宿屋が存在していた。
価格についても、ゲーム開始直後に使うような安宿から、居心地の良さを追求した高級なものまで、上を見ればキリがないほどの幅広さだったのである。
一応クランのホームとして使う場合も価格設定は必須なのだが、使うのが身内である以上は必要最低限に留めるのが通例だった。
「条件的には、かなり高めにしてもお客が入るとは思うんだよね。料理は美味しいし、お風呂入れるし」
「つっても、あんま割高にするといつまで経っても客が来ないなんて事になりかねないだろ。安すぎても変な客が来そうで嫌だけどさ」
「難しいところだね…あ、なるほど。それで組合か」
「そういうことだ」
食品や消耗品といった小売り的なものにしろ、宿泊価格のようなサービス的なものにしろ、値段のあるものには大抵相場が存在する。
そういったものを知る、また客を呼び込むためにも組合的なものがあれば属しておきたい。
…いや、それ以前にまずは俺たちの立場を確認するべきか。
普通にホームで目が覚めたので気に留めそびれていたが、俺たちはこの世界でどのような扱いになっているのだろうか。
「…そうだね。ゲーム内に入り込んだと考えるなら、問題になるのはボクらの意識的なものだけだけど…」
「そうでない場合が怖いな。街中に突然建物ができた、なんてことになると――」
――コンコンコン。
「――おおい、誰かいないかー!」
「……こうなる訳か」
「いや、冷静に言ってる場合じゃないからね!?」
なんというか、フラグ回収が早すぎるのではなかろうか。
噂をすれば影が立つ、とばかりに現れたホームの扉を叩く人物に、肩を跳ね上げたアイリスがわたわたと慌て始める。
そんな彼女を見ているからなのか、或いはそんなことになりかねないと話をしていたからか。俺は不思議と波風の少ない心持ちで、どう対処すべきか考え始める。
まず思い浮かんだのは、居留守を使うということ。
まだこの世界の情報を把握し切れていない現状で、迂闊に誰か――俺やアイリスのような、プレイヤー以外の人間と接触するのは不安が大きい。
だが、それを追い越すような勢いで、「否」と囁く声もある。
ホームに閉じ篭るのは簡単だが、先程裏庭に出た姿を見られていないとも限らない。それに、ここでその選択を取ってしまうと、集まる情報も集まらなくなる可能性もある。
閉じた世界であれこれと仮定と推論を重ねても、現状が好転することはありえないだろう。
ならば、ここは一つ、賭けに出る必要があるのではなかろうか、と。
「……うん。確かに、引き篭もっててもどうしようもないか」
アイリスもまた、冷静になれば考えることは同じであった。
その表情には不安の色が残っているが、それでも元来の芯の強さも戻ってきている。
俺たちは一つ頷くと、手早く打ち合わせてから動き始めた。
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アイリス「まだあわわわわわてるような時間じゃない」
レイ「台無しですよ、アイリスさん」




