Hello , Different World !
「―――!」
朝、まどろみを伴って浮かび上がった意識を迎えたのは、誰かの必死そうな声だった。
一体何を騒いでいるのか。
朝というものはもっとこう、誰にも邪魔されない平和で悠然であるべきだというのに。
次いで身体を揺すられる。おいやめろ。俺の優雅な起床を邪魔するんじゃな――
「――きて! レイ、起きて! 早く起きろってばこの自動ガン飛ばしPvP誘発ノッポ!」
「…誰が目つきだけで人を殺せる顔面凶器だ? ああ?」
「うわ怖っ…ってそうじゃない。それどころじゃなかった。とりあえずレイ、今の状況がわかるかい?」
目を開けると飛び込んできたのは、絹糸のような金色の髪と、小動物のように丸くて大きな碧眼だった。
人形のように整った目鼻立ち。
抜けるように白い肌と瞳のコントラストは、真夏の高い高い空を思わせる。
なんという美少女だろう。どうして目の前にこんな美少女が。
起き抜けで回らない頭でそんなことを考えて――遅れて覚醒した結果吐き気を催した。アイリスだ。
何という残酷な冗談か、腹の上に座って俺を起こす等という暴挙を犯してくれた彼の顔面を押し退けながら身体を起こす。
と、そこでようやく疑問が浮かび上がった。
「……なんでアイリスが俺の部屋に?」
「まだ頭が回ってないみたいだね…ねぼすけさんめ。よぅく周りを見てみたまえよ」
まるで駄目な子を諭すかのように生暖かい視線を向けてくる彼に腹立たしさを覚えつつ、妙にすっきりとした視界で部屋の中を見渡してみる。
清潔感のある白い壁紙と、朝を指し示す壁掛け時計。観音開きの窓にカーテン。新築であることを証明するピカピカに磨かれた板張りの床に、木造のベッドと小さな丸テーブルに椅子。
何処からどう見てもクランハウスの一室です本当にありがとうございました――って、
「いや、いやいやいや。おかしい。絶対におかしい」
「そう、おかしい。こんな美少女に向けて野郎はおかしい」
「それは間違ってねーから別の心配をしてくれ」
無駄に真剣な表情で昨晩の馬鹿なやり取りをぶり返すんじゃない。
「まあ、レイがそう言うなら冗談は置いとこう。で、この状況はどういうことだと思う?」
「普通に考えれば、アップデートでゲーム内での寝起きが可能になったとか。どうだ?」
珍しく真剣な眼差しのアイリスに感慨深さを覚えつつ、自分でも無いと思う意見を敢えて口にする。
今はどんな些細で当たり前なことでも共有するべきだ。
そのことを彼も理解しているのだろう。小さく首を振りながら否定の言葉を紡ぐ。
「ないね。まずゲーム内で寝ることにメリットがないし、意味もない」
そもそもTWPのような没入型のVRゲームは、寝落ちすると接続が切れてログアウトするようになっている。
これは一種の安全弁で、睡眠時の脳波に影響を及ぼさないための、ゲームというよりもコンソール側の仕様だ。
それと同様に過度の長時間接続を防ぐため、最大接続可能時間も決まっている。のめり込み過ぎて社会性をかなぐり捨てるような、廃人の発生を抑制するための苦肉の策である。
「コンソール自体の不具合」
「こういう事例は聞いたことがない。それにメーカーや製造ロットも違うだろうボクらが同時にってのは、ちょっと無理がある。」
「なんらかの反応実験」
「ドッキリの企画かな? 一昔前の人間観察バラエティとかでありそう」
「ログアウトボタンは消させてもらった! 諸君、デスゲームの始まりだ!」
「な、なんだってー!!」
相変わらずのノリと緊張感のなさである。まあ、ネタ振った俺もそうだけど。
ある種の現実逃避に興じつつ、そろそろ本題に入るために立ち上がる。窓を開け放ち、新鮮な空気がふわりと室内に広がった。
窓の外に見えるのは石畳が敷かれた街並みと、それを囲う長大な壁。城塞都市グラードの由来となった、堅牢な防御壁である。
壁の上には警備と思わしき青年が立っていて、直立不動の姿勢で外を見張っている――あ、今欠伸した。視線を落とせば、えっちらおっちらと水瓶を運ぶ子供の姿が見えた。
「開かないメニュー。いつもなら視界の端っこにある緊急用のメニュータブも、HPとMPの表示もない。レイを見ても街の人を見てみても、頭の上に名前は出てこない」
「グラフィックに力を入れているとは言っても、木の葉の夜露の反射までは再現できてなかった。匂いは実装されているけど、風で流れてきた草木の香りや土の臭いは一部のフィールドでしか感じ取れない」
「キャラクターメイキングでは設定できないはずだった部位。装備解除できないはずのインナー」
「…確認したのか?」
「真っ先に」
恐らく俺が寝ている間に確認したのだろう。
その結果如何で色々と影響が出てくることになるかも知れないが、なんだろう、聞きたいような聞きたくないような。
そんな複雑な感情が顔に表れていたのだろうか。アイリスはあっさりと、表面上は至極あっけらかんと結論を口にする。
「とりあえず、現状のボクに野郎はおかしいということを認めるところから始めてくれたまえ」
「…そうか」
今後は扱いを改める必要が――ないか。本人がこの調子だと、こっちが態度を変えたほうが色々厄介なことになりそうだ。
まあ、面倒がないのが一番である。くるくると髪を弄りながらこちらの反応を窺うアイリスに、肩を竦めてみせる。
何故かぱあっと笑顔を咲かせたアイリスは置いとくとして、ぼちぼち結論を出さねばならないだろう。
…やっぱり、あれか? あれなのか?
よもや我が身に降りかかるとは思ってもみなかった、憧れはしても現実に起こって欲しくなかった出来事第一位。
「じゃあ、そうだな…撲殺系神官美少女(仮)」
「なんだい、殺人的眼光ノッポ(仮)」
一つ息を置き、見据えたくなかったそれを口にする。
「――俺たちはゲームを模した世界に入り込んでしまった、という仮定でよろしいか?」
「もしくは本当に異世界に来てしまった、という推定でもよろしいよ」
「…その二つに大した差はないだろ」
「まあ、どっちにしたって現状は変わらないね」
「変わらねえな。いや、しかし…」
「そうだね。でも…」
「「まじかぁ……」」
茶番のベールを剝がし、二人して大いに肩を落とした。
まだまだ現状を把握しきれた訳ではないし、あくまで仮定に過ぎないが、もしそれが真実であるのなら…この先、一体どれほどの理不尽が待ち受けているというのか。
一寸先は正に闇、というやつである。
「…つーか、俺来週大事な会議だったんだけど。出ないと出世街道から外れるどころか左遷されても文句言えないレベルで重要な会議だったんですけど! なんだよこれ、なんだんだよこれ! あれか? 今ネット小説で流行ってるあれなのか? あれは現実に起こりえないから楽しめるのであって、現実になってもまるで、全然、ちっとも嬉しくないんですけど! おかしい、絶対におかしい! こんなことならもっと早く生産やっとけばよかった! 生産チートに備えとくべきだった! ああもう本当に、マジで――
「…ボク明日デートなんだけど。ちょっといいなって思ってた娘との初デートだったんですけどぉ! くっそぅ、神は死んだ。どうせ帰っても会社クビになってるんだ。「お前の席ねーから!」とか言われるんだ。 なんで? なんでボクなの? なんでアイリスなの? ボクの息子は? 天に召されたの? 御陀仏なの? というか法整備されてるかもわからない異世界でTSとかマジ勘弁なんだけど! TSは好きだけどボクは愛でる側だから! 自分がTSとか違うでしょ! ああもうホント――
「「ど う し て こ う な っ た…!!」」
「はあ、はあ…、」
「ふーっ、ふーっ、」
理不尽に対する鬱憤を、世界への憎悪を、思いの丈を吐き出して、荒くなってしまった息を整える。
少しすっきりした。納得はしてないが。
それでも変わるはずのない事実を前に、少しは受け入れる余裕はできた、と思いたい。
視線を同じように床に転がるアイリスへ、運命共同体へと向けて、まずは言っておかなければならないことを言っておく。
「おい…アイリスフィール」
「なんだい…レイナード」
一応真面目なことなので、略称ではなく正式なキャラクターネームで呼んでみる。
打てば響くとはこのことか。首だけ動かしてこちらを見るアイリスは、一応神妙な顔をしていた。
「とりあえず俺はロリもネカマも対象外だから、安心していいぞ」
「ボクも男を相手にする気はないから、安心していいよ」
同時にニッと口角を上げ、拳をぶつけ合う。それだけでどうしようもない絶望感が、少し軽くなったような気がする。
アイリスフィール。本当の顔も名前も生い立ちも知らないが、気心は知れている0と1の世界の友人。
彼――否、彼女と二人でならば、独りでは踏み出すこともままならなかったであろう、行く先の見えない道を歩いていけるような気がした。
……絶対、口に出しては言ってやらないけども。
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