修学旅行編
もし、あの時。
そうやって霰はもう何度も、繰り返しあの日を思い出す。
これは無様に生きてしまった俺への当然の結果なのかもしれない。
霰はそう考えることで罪悪感とも、虚無感とも言えない感情に抗おうとしてきた。
そう、霰は好きになってはいけない人を好きになり、
傷つけ突き放した。
「香織…」
掴めそうにない雲を、掴もうと手を伸ばした。
事の始まりは二年前の夏に遡る。
いつも通り教室のドアを開ける。
「おはよう、香織」
黒く短いショートヘアーの少年、初田霰はそう声をかけた。
「おはよう霰」
灰色のロングヘアーの少女、松田香織はそう返した。
「今日は早いんだな」
ストンと鞄を下ろし、香織の横の席に着いた。
「…夜あまり寝れなくて。
早くに起きてしまったのよ」
「悪夢でも見たのか?」
「そんなところよ」
ガラッと音がした。
「はい、皆おはよう!」
先生の声が教室中に響く。
霰はこのどこか暑苦しい先生が嫌いである。
そうして気だるそうな顔をしたまま窓に視線をやる。
「明日は修学旅行だ!皆今日は帰ったらゆっくり休めよ!」
そう言って簡単なホームルームを済まし、
彼は教室から出ていった。
「修学旅行か」
何気なく一言を漏らす。
「楽しみじゃないの?」
香織が問う。
「いや、そんなことない」
「あら、その割にはつまんなそうな顔してるわね」
霰の表情は見透かされていた。
別に、楽しみじゃないわけではないのである。
ただ霰は、昔からこういった特別な行事を好まない。
「…次なんだったっけ?」
「数学よ。課題は終わった?」
忘れていた。
「その顔は、してないのね。
いいわ、みせてあげる。今日だけよ?」
そういって香織は霰にノートを貸した。
香織、霰は彼女と行動を共にすることが多い。
中学にあがってしばらくはからかわれたものの、
今となってはそんな浮かれた噂も聞かなくなった。
お互い、同性の友達はいる。
それでも、話すのはおそらく一番香織が多いだろう。
「霰!お前またノート見せてもらってんのか?」
「香織、優しいね!私だったら圭に見せないよ」
「はあ?オレ忘れたことねえよ!」
圭はしかめっ面をし、それを見て鈴は笑う。
「うるせえなあ。お前らの声で集中できねえよ」
「あなたが忘れるのが悪いのよ?」
完封された。その通りだと思い、黙ってノートに書き続けた。
「結局、修学旅行ってどこに行くの?」
鈴は覚えていないようだった。
嘘だろ?明日のことだぞ?
そう思ったとき、自分が修学旅行を楽しみにしていたのかと、気づく。
霰は自分の気持ちと鈴のおとぼけた問いに笑う。
「ねえ、何笑ってるのよ!」
「だって、明日のことだぞ」
「菜花山よ、二拍三日」
香織はそう答えた。
「そっか!そんな山だった気がする!」
「どうして山に修学旅行しに行くんだろうな」
不満げな顔で圭はそう言う。
「班は覚えているの?」
香織は鈴に問う。
「もちろん!あたし、圭、香織、霰でしょう?」
「ええ、合っているわ」
言葉を交わしている間に、数学担当の先生がやってきた。
「初田、お前また松田に見せてもらっているのか」
「そう、香織優しいだろ?」
「バカ者!宿題をまた忘れおって」
そんな声が耳を駆け抜ける。
香織、お前はそんな顔して笑うのか。
今日は顔色悪かったから心配だったけど、
笑っているのを見て安心した。
「おい、どこ向いてる?」
「ははは、まあ香織の優しさに免じて許してくれよ」
「呆れたやつだ、まあいい。明日忘れ物をしたら許さないからな。」
優等生な香織、お調子者の霰。
そう認識されているのにも、もう慣れた。
俺は香織の笑顔が、彼女のことが好きなんだと思う。
香織がどう思っているかは、わからない。
修学旅行か。まああいつが楽しそうに笑う顔が見られるなら悪いものでもない。
霰は一時間目からずっと空を眺めていた。
「起きて、霰」
ゆさゆさと身体を揺らされる。
霰はゆっくりと身体を起こす。
「寝すぎよ。風邪でもひくつもり?」
少し怒りの混じった声でそう放った。
「え、怒ってんの?」
「怒ってる!霰が休んだら、面白くないもの」
「面白さ目当て、かよ」
香織は目を丸くする。俺は何かいらないことを言ってしまったのだろうか。
「私、霰のこと…」
「ん?」
「ううん、何もない」
そういって香織はそっと椅子から立ち上がる。
「さ、帰りましょう」
「何言いたかったのか気になって仕方ねえ…」
「で、オレの家に来たのか霰」
「聞いてくれよ…」
「もう三回も聞いたぞ」
「…どうだと思う?」
顔を真っ赤にしてこちらに目をやる霰に、
圭は驚く。こいつは、こんな顔もするのか、と。
「好きだ、って言おうとしてたんじゃねえ?」
「ほんとに、そうなのか?」
「いや、オレに聞くなよ!多分合ってるだろうけど」
圭は頭をがしがしと掻く。
「お前のことよく話してたからな」
「え?」
「霰が昨日家にきたとか、霰が鈴と話してるの羨ましいとかな」
圭は少しふてくされていた。
「そうか、お前鈴が好きだって言ってたな」
「なあ、明日山の頂上に行った時に告白しねえ?」
奥手の圭にしては珍しいことを言う。
「おお!いいな、それ」
「だろ?」
「楽しみになってきた。じゃあ俺は帰る。
ありがとうな、圭」
家に帰ると俺は、どこか緊張していた。
今思うとすごく大胆な約束をしてしまった。
バクバクとなる心臓がうるさかった。
こんなことでドキドキしているようでは、
きっと告白するときはもっと心臓がうるさいだろう。
「あの、兄さん」
「ああ、陸か」
「筋トレ中にすみません。父さんがお呼びです」
俺はいつのまにか、筋トレしていた。
恥ずかしい。動揺しすぎたようだ。
「いや、いいよ。それより親父は俺に何のようなんだ?」
「さあ…何せ僕は父さんから邪険にされているので」
いつもそうだ。次男の陸だけの話ではない。
きっと俺も、長男でなければこんなに関わることもないだろう。
「仕方ねえ。俺が行ってくるよ。伝達ありがとう、陸」
親父と会うときは着物を着なければならない。
古くからあるしきたり、だそうだ。
俺の家は、家にいるような感覚がない。
まとわりつく重い空気は、霰を苛立たせる。
「入れ」
そう言われ、霰は中に入る。
「明日の旅、香織様をしっかりと護衛するように」
「はあ…」
「なんだその間抜けた返事は。彼女が無事でなければお前の命もないと思え」
この目の前の権力と己の保身に走るだけの親父が俺は嫌いだ。
お前の話なんて本当は聞き入れたくもない。
目線を下にやりながら、霰は早く話が終わらないかと待っていた。
「お前も知っているだろう。松田家と初田家の関係は」
「知ってるよ。俺は何が何でも香織を護らないといけないんだろ」
「そうだ。物分りがいいのは嫌いじゃない」
「はっ、自分はその物分りの悪さで母さんを死なせたんだもんな」
「霰!!」
「へえへえ、わかりましたよ。俺は親父と違って命令には背かねえ。それでいいだろ」
襖を少し強く閉める。
親父も、母さんが亡くなってからずっとあの調子だ。
霰の母、雪華が亡くなったのは病だと表向きにはなっている。
その場に居合わせなかった父が、命令に背いたことが響いたと霰は思っている。
だが、霰は知らない。
雪華は殺された。松田のその上の家、
神崎家の手の者によって。
雪華の夫は脳なしだ。だから彼女が殺された。
霰の父、来人は婿養子として初田家に入った。
当時来人と松田家当主の藍斗は仲が良かった。
ある日二人に、密命が下る。
子を殺せと。さもなければ妻の命はない、と。
藍斗はその場で逆らい、反逆と捉えられ殺された。
その後、藍斗の妻も殺されたという報せが届いた。
最終日の夜、己を殺そうする来人を、雪華が泣きながら必死に止めた。
次の日、雪華の姿はなかった。
それ以来、子を失いたくないと強く感じた来人は冷酷な父になった。
「父さんはなんと?」
メガネを拭きながら陸は霰に問う。
「香織を守れってよ」
「なるほど…でも兄さんも、無事でいてくださいね」
なんだ、皆して。
だから特別行事は好きじゃない。
たかが修学旅行だぞ。何も起こるわけない。
そう感じながら、霰は眠りについた。
朝になった。
「じゃあ、親父、陸。行ってくるよ」
「いってらっしゃい、兄さん」
「無事に帰ってこい」
珍しい。親父が見送りにくるなんて。
何かそわそわとしてしまう。
少しだけ、昔の父を思い出した。
「おはよう圭」
「おう!霰!おはよう!
…なんだ?そんな幸せそうな顔をして」
圭から放たれたのは意外な言葉だった。
「あ?」
「珍しくしかめっ面じゃねえじゃん?」
「俺はいつもこんな顔だ」
多分、と小さな声でつけ加える。
「あってめ!嘘つきやがって!」
「おはよう霰、圭」
「おっはよー!」
待ち合わせ場所には香織と鈴も揃っていた。
「お前達で最後だ!バスに乗れ!」
担任の野太い声が聞こえてくる。
「行こうぜ、霰」
圭が呼びかける。
「おう!」