第4話 月の塔
床に描かれた円環には十二個のレリーフ――角を持った羊、牛、二人の子供、蟹、獅子、羽のある女性、天秤、蠍、半人半馬、下半身が魚の山羊、水が流れ出す水瓶、そして尾を紐で結ばれた魚――が彫ってある。
その中央に、三日月を模した塑像が立っている。
その三日月に乗るように、一人の少女が座り、こちらを見下ろしている。
「あいたかった。わたしのいとしい人」
ひどく、冷たい物が背を伝う。
その少女は自分と同じ顔をしていた――
***
空の色は嵐の前のような黒みがかった青。
星がぽつり、ぽつりと砂を撒いたように散らばる。
足元には水を湛える池があり、そこへと流れ込む清音が響く。
空を映す水面は寒々しい色だが、空気は暖かく、まるで蒸し風呂にいるようだ。
水の恩恵を受け、背丈よりも遥かに大きい植物が繁茂している――それも、扇のような葉を持つ見た事もない物ばかりだった。
ぽたりと葉から雫が落ち、水面が割れた鏡のように歪む。
まだ昼間だというのに、辺りは夜かとうたがうほどに暗い。
大きな月だけがゆっくりと空を横切る。
――月の塔
水面は深い青に染まり、底を見透かす事など到底できそうにない。
銀の鱗を持った魚が水を泳ぐ。
釣り上げたらぶつ切りにしてスープに入れてしまうか、または塩焼きにして熱々の身を食べるか。
その旨みのきいた、じゅわっとした味を想像すると、腹からくぅと音がする。
朝から歩きづめで、今もひどく空腹だった。
「ぼさっとして溺れんじゃねぇぞ。つっても、ぼさっとしてなきゃ川から流れてくることもねぇか」
じっと魚を目で追っている様子を見て、野営の準備をしていたディオがからかうように言う。
彼は茶色の短い髪をした青年で、故郷で一緒に暮らしていた家族でもある。
しかし、兄でも弟でもなく、もちろん父親でもない。
自分とディオの関係性を説明しようすると、適切な言葉はなかなか見つからず、強いて言えば家族としか言えない。
その関係性が嬉しくもあり、むずがゆくもある。
「貴様も口を動かしている暇があれば手を動かせ。無駄飯食らいになりたくなければな」
そのディオも、てきぱきと即席の竃を完成させたレオナに注意され、うっと言葉を詰まらせる。
レオナは長い黒髪を後ろで結んで深草色の頭巾をかぶった鋭い目の女性で、腰には細身の剣を下げている。今は水を入れた鍋に香草と調味料をふり入れている。
格好は紛れもない戦士のそれであり、その実力は目にしているのだが、つつましやかに食事の準備をしている姿を見ると、そう言い切る自信もなくなってくる。こうして見ると、普通の女性だ。
「あなたも水に落ちないように。この地域の水域には呼気に毒を持つ九頭竜や巨大な蟹が住んでいるらしい。落ちたら最後、水中を住処とする奴らの餌食になる」
と言いつつ、この国の特産品らしい穴の開いた根菜を鍋に入れている。
沼地で取れるこの野菜は、軽妙な歯ごたえと淡白な味がする。それゆえ、レオナが持っている調味料と相性が良かった。味の濃い塩味と独特の匂いがするそれは、故郷から持参してきた物らしい。
彼女は『王国』と呼ばれる故郷から出てきた傭兵だった。独自の文化と条件次第ではどんな仕事をも引き受けることから他国人からは白眼視されている。けれど、彼女は強く、信じるに値する人だ、一緒に戦った時から思っていた。
少し待てば身体の温まる汁物が出来るだろう。それまでの辛抱だ。
今いるのは、水辺の傍らに出来た開けた場所で、まるで広場のようだ。
曲がった黒曜の石柱が地面に円を描くように置かれ、ほどよい閉塞感と安心感がある。
空には礫を散りばめたような星と月のみが輝いている。
突然聞こえた声に呼ばれ、ディオと共に故郷を出て、もう二月ほど。
その声を追って、国境を越え、手掛かりを探す旅を始めた。
古い話によると、声は『彼方』という場所から聞こえて来るという。
それに誘われた人間は、何としてもそこに向おうとする――向かわなければならない。
雲をつかむような曖昧な話だが、どこかに行かなければ、という焦燥が時に古傷のように疼く。
だが、時に思う――今、家で、両親はどうしているのか。
進む事だけに意識を集中している時はともかく、食事中、宿で眠りに落ちる直前などに思い出す時間はふいに訪れる。
故郷の豊穣の角を出て、双戦場を抜け、続く丘陵地帯をさらに川の流れと共に西に進んだ。
途中で支流を飲みこみ、満々と水を湛える池へとつながる。
豊穣の角から――それより以前から流れて来た川が、ここに行きつく。
夜が最も深い地――アドリヴン。
「にしても、あの村の連中なんだったんだ? わざわざ野営する羽目になっちまった」
ディオが恨めしげに呟く。
それには困ったような顔で返す。
ディオがぼやくのも仕方がない。
野営はしているが、本当は小さな村がすぐ近くにあるのである。
距離は歩いて数分ほどで、ここから戸の灯りが見えるほどだった。
それは見かけた時はディオも歓声を上げていた。
最後に街に立ち寄って数日、久しぶりに見た人家だったのだ。
十に満たない家が集まったごくごく小さな村――集落と言った方が近いかもしれない。
細い木で作った家に、あちらこちらに篝火が焚かれていた。
その用途は明らかだ――本来、まだ明るいはずの時間だったが夜のように暗い。
村の中でも家を一歩出た瞬間に足元すらおぼつかず、灯りは番を付けて絶やさないようにしているのだろう。
だろうが――
「………………」
その空気を察知したのか、つい先ほどまで話続けていたディオも口を閉ざした。
その灯りの中に、誰の影もない――どころか、影にすら人が潜んでいる気配がない。
入った瞬間に歓迎されていない視線を感じ、内の中から覗く目があるのは分かったが、話しかけてくるわけでもない。
戸外に出ていた大人も子供を連れ、扉が勢いよく閉められた。
あまりの早業に呆然とする前に感心してしまった。
「この集落は旅人も滅多に来ない場所で、皆怯えているんですよ――態度は悪いやもしれませんが、不快に思わないでいただけるとありがたいですな」
外の人間との対応をしているだろう村長は、言いつつ卑屈げに上目遣いをした。
かろうじて食材や必要な物資は売るが、村にはいてくれるな。
まるで頭の中の声が聞こえるように、村長の態度や反応から心の中が読めるようだった。つまりはそれが、村の総意というわけだろう。
中には村ぐるみで強盗を働く村もある。泊って最後、朝を拝めない事もある。それに比べれば、最初から歓迎されない方がありがたいはずだ。
それでも人家に泊れると思ってからの野営はきつかった。
「この地域にはほとんど外部の人間が入ってこないからな。無条件に歓迎する村を見かける方が珍しいし、わたしも何度か宿を断られた事がある。察してやれ」
手早く木の椀に食事をよそいながらレオナは平然としている。慣れているのだろう。
彼女――レオナは様々な地域を巡り、雇い主を探す傭兵だ。
彼女曰く、故郷では外貨を稼ぐために戦える者はほとんど傭兵になる、と言っていた。
金払いさえよければどんな相手にも従う。
今日の味方も明日には敵。
誇りも主も持たない戦士と言われ蔑まれる事もあるが、自分にはそうは思えない。
ここより離れた国で彼女と出会い、同じ雇い主に協力し共に戦った。
少なくとも彼女は自分にとっては頼りがいのある仲間だった。
その横顔を見つめる。睫毛が顔に影を落とし、白い肌と黒い髪によく映えている。まるで昔、物語で見た戦士の女王のようだ。
「……何か私の顔に付いているのか?」
レオナが不可解そうな顔をして呟いた。
慌てて首を振る。
なぜか誉めたり感謝を伝えると、彼女はむっつりと黙ってしまうのだ。機嫌が悪くなってしまうのだろうか。
まだ宿を断られた腹の虫が収まらないのか、ディオがレオナを茶化した。
「はぁー、レオナさんは心が広くって良いことっすね……ごふっ!」
「よほど殴られたいようだな?」
「もう殴ってんだろ……」
頭を押さえてディオがうめく。
もちろん手加減はしてるだろうが、彼女は口よりも手が出る事がある。
ふたりのやり取りに苦笑する。
と。
ふいに、誰かに見られている気がした。
だが、水面に誰の姿も映ってはいない。鏡のような水面を満ちた月が泳ぐ。
――…………?
首を捻っていると、ディオがスープをよそった椀を付き出した。
「ん? さっさとメシ食おうぜ。お前を呼んでる奴があの塔にいるとすれば――もしかしたら旅の終わりかもしれねぇ。ほれ」
うなずいて、スープを受け取る。まだ作りたてで暖かい。
食事をしながら、月を眺める。
この空を横切る月だけは、どこまで行っても変わらない。
旅が終わったらどうするのだろうか。
元の生活に戻れるのだろうか。
そんな事を考えていた。
「この間の双戦場の柱でも思ったけどよ。なんであんなでっかい物作るんだか、わっかんねえな。もっと他にすることあるだろうによ」
レオナの作った料理を食べながら、ディオが口を開いた。視線も手元からは留守になっているようだ。
食事中に話すのは、家にいた時からディオの悪い癖だった。しかし、いくら礼儀が悪いと言われても直るものでもないので、半ば以上諦めている。
「それは作った奴に言え。わたしにもわからん」
問われ、レオナもディオ同様に――とはいえ、ちゃんと食事の手は止めて――見上げながら、言った。
『あんなでっかい物』というのは、自分たちの周りにある巨石のことである。広場のような開けた場所の近くに、いつ作られたかもわからない石碑の欠片が散乱している。欠片だけでなく、いくつか元型を止めている物もある。
遺物というよりも遺跡と言った方が近く、大きな土台の上に小さな石が積まれ、それがぐるりと円環を作っている。まるで建築物の基礎の跡のようだった。
小さな石と言っても自分と同じくらいの高さである。
大きな方は――すでに比べるべくもない。小さな小屋ほどはあるだろう。
「そういや双戦場の連中も同じようなこと言ってたっけ――いつからあるとか分からねぇとか。じゃあ、何であんなもん作ったんだか」
「それは、ここが特別な場所だからさ」
――――!
涼やかな第三者の声に、空気が張り詰めた。
「何者だ!」
レオナが鋭く叫び、腰に下げた短刀を投げた。
ひゅっ――
甲高い風切り音を立て、どすっと刀が固い物に刺さった音がした。
しかし、声は笑みさえ含みながら余裕を持って答えた。
「ちょっと、いきなり喧嘩モードはやめてよ。こう見えても僕は平和主義者なんだから。落ち着いて深呼吸でもしてみようか?」
やや口早に言い、柱の影にひとりの青年が姿を見せた。
紅い髪に、黒い外套の下に派手な赤い長衣を見に付けている。長身で――ディオよりも背が高いだろう。彼は、柱に寄りかかるようにして、そこに立っていた。
「やあ、おはよう。今は夜っぽいから『こんばんは』が正しいのかな? この国にいると時差ボケが半端ないから、時候の挨拶に困っちゃうよね――っと、そんな喧嘩腰にならないでよ。見ての通り、敵意はないし武器もない。君たちと争う気はこれっぽっちもないよ」
泡を食って立ち上がりかけたディオと、すでに剣を抜いているレオナを見て、ひどく芝居がかった様子で肩をすくめてみせた。
「盗み聞きしてやがったのか?」
ディオが険悪そうに言った。
不審を通り越した敵意を込めた言葉に青年はやれやれとため息をついた。
「変に受け取らないでよ。僕は君たちが困ってるみたいだから声をかけてあげたんだよ? うん、僕は君たちの敵じゃない」
「その割にはてめぇ、めちゃくちゃ怪しいだろ!」
「それは君の中に疑う心があるからさ」
青年はしれっと言うと、こちらへと視線を向ける。
「ねぇ、君は信じてくれるよね?」
話を振ったのは、臨戦態勢を取っていないのが自分だけだったからだろう。
答えを求められ――しばし迷った末に頷く。
「あ? なんでだよ」
――一応敵意はないようだし。
そもそも、もし襲うつもりならば声などかけないと思う。
「まぁ、それはそうなんだけどよ……」
ディオが頭をぽりぽり掻きながら言うと、青年は得意げに鼻を鳴らした。
「ほーら僕の言う通りだろう。人を信用できないって、人間として最も悲しいことだよね」
「ハァ? 余計なお世話だっつの!」
ふふん、と胸を張られてディオが噛みつき返している。
――なるべく喧嘩はしないで欲しいのだが。
敵意がないのはわかった。
しかし、話しかけてきた理由は?
それに、困っていたからとは?
「うん、それはおいおい話すとして、そんなことより――」
青年はふと、困ったような笑顔で、自分の足元を指さす。
よく見ると、外套の裾には短刀が刺さっている。
深々と地面につきささり、外套に派手な大穴を開け、釘付けにしている。
「びっくりして動けないからさ、ちょっと手を貸してくれない?」
刺さっていた短刀を抜いて――本人曰く、すぐ傍をかすめていったらしい――青年はぱんぱんと腰の埃をはたいた。
「助かったよ、ありがとう。いきなり剣が飛んでくるからびっくりしちゃってさ。投げたのは誰? 君? よく顔覚えておくから次は投げるって言ってから投げてよ」
青年はちゃっかり焚火に当たりながら自己紹介を始めた。
「僕はクラウド。本当はもっと名前長いんだけど君は頭悪そうだから覚えられないでしょ。短い方でいいからすぐ覚えてよ」
「なんで俺の顔見ながら言うんだよ」
ディオが不機嫌そうに言った。
それにどう対応したらいいのか、一瞬戸惑う。まるで十年間共に過ごした友と話しているような口ぶりだ。
馴れ馴れしいと言われかねないが、不思議と嫌な感じはしなかった。それは、彼の態度がごく自然体だったからだろうか。
「職業は学生――さしずめ留学生って言ったところかな。君たちアレクサンドリア図書館って聞いたことはない?」
そう言って、クラウドは期待したような眼差しを投げかける。
残念ながら聞き覚えのない名前に、ふるふると首を振る。
すると、自分の代わりにレオナが口を開いた。
「砂漠の地下にあるという、魔術士たちの住処か? 錬金術士、呪術士たちの研究機関。世界の全ての英知を集めるとかいう理想を打ち立て、日々知識の集積に勤めると聞いたことがあるが……」
「魔術士だと?」
その説明を聞き、ディオが顔色を変える。自分も背筋に緊張が走るのがわかった。
故郷では、魔術士とは本や古い昔話の中の存在だった。
どの話でも災いを運ぶ存在とあり、あまり良いイメージはない。皆無と言ってもいい。頼まれさえすれば人を呪い殺すこともあると、おどろおどろしい挿絵が一番印象に残っているくらいだ。
その様子を見て、クラウドは面白そうに口の端を上げた。
「へぇ、そういう噂が立ってるんだ。いつも生徒の半分くらいは外に出てるけどね。そういう君は『王国』の傭兵かな? 喋り方とか考え方がいかにもだよ。せっかく顔が良いんだからもっと愛想良くすれば、可愛くなると思うよ」
「な……大きなお世話だ!」
さらっと吐かれた甘い言葉にレオナは顔を赤くして怒鳴っている。
――あのレオナさえも手玉に取るとは……
クラウドは自分のリズムというか、独特のペースを持っているようで、思わず感心してしまう。
「んで、てめぇは何しに来たんだよ。さっさと用件言って帰れ」
「うっわ。すごくムカつくな、君。いったい何様のつもりなんだ? 俺様? 若様?」
一瞬ならず険悪そうな顔をしたが、すぐにこちらに向き直ってにこやかに笑った。
――……段々この笑顔が信用できなくなってきた。
「それはともかく、この国は特別なんだよ。図書館でも何度も調査の対象になっている。僕はその話を聞いて来たんだ」
「それは、研究機関の仕事か何かか?」
さきほどのやり取りでか、多少ならず警戒しているらしいレオナが慎重に聞き返した。
だが、クラウドは笑って首を振る。
「いや? 僕はただ自分の好奇心で来ただけだけど?」
「好奇心? どんだけ物好き野郎なんだよ」
ディオが呆れたように言った。
「いちいちうるさいな君は。この国にはそれだけの価値がある。なんて言っても――」
そう言うと、クラウドは笑みを消した。
「この世界で唯一、死を体験できる場所だからね」
***
どんな場所にも夜は訪れる。
常に薄暗い国に夜も何もないと思うのだが、一度経験すればわかる。
夜になると、触れられそうなほど闇が濃くなる。
灯りがなければ自分の手の先すら見えず、己の存在さえも危うくなる。
「君たちもあの塔に行くつもりなんだろう? だったら僕も一緒に行って損にはならないと思う。こう見えても図書館ではそれなりに成績良かったから。うん、それなりに」
と言って結局、クラウドはここまで付いて来ている。
ディオは嫌がったが、別に拒絶する理由はない。
――それに、悪い人ではなさそうだ。
ちょっと変わってはいるけれど、と内心で付け足す。
ぱちん――!
大きな音に驚いて起き上るが、すぐに肩から力が抜ける。
どうやら火の爆ぜる音だったようだ。
空を見上げると、大きな月が空を大きく横切っていた。
今は自分の見張りの順番だったがうっかり寝てしまった。これでは見張りの意味がない。
眠くなるのはこの国の空気が暖かいためだろう。汗ばむほどで、これならば毛布がなくても風邪を引かなさそうだ。
毛布を畳みながら、他の仲間たちにちらっと視線を向ける。
さきほどまで起きていたレオナも、今は寝息を立てている。ディオは言うに及ばず、夢見が悪いのかぎりぎりと歯ぎしりをして寝返りを何度も打っている。
共に当番をしているはずのクラウドは、火から離れた所にいた。
「別に寝ててもいいよ。僕はまだ起きていられるから」
本からちらりと目を向けた。
――起こしてくれればよかったのに。
口を尖らせて言うと、クラウドは軽く笑った。
「無理に起きている必要はないよ。リズムを崩さないのが一番だ。君には今、眠ることが必要なんだろうさ。僕はこれさえあれば退屈しないし、いつまででも起きていられるよ」
と、持っていた本の表紙を見せる。革の、古びた品である。
旅に持ち歩くには適さないだろうに、星明かりではひどく読みづらいだろうに、それでも本を持っているというのは変わっている。素直にそう思った。そういえば食事中にも本を読んでいたような気がする。
それに驚くとともに、少し落ち込む。
――本を読んでいると、どうしても眠くなる自分とは違うのだろう。
「僕にとっては知識を得る事が物を食べるのと同じくらいの意味がある。君がよく食べてよく寝るのと同じくらいにね。もっとも食事が生き甲斐の豊穣の角の人と比べたら量は霞むだろうけれど」
けらけらと笑うクラウドに、むっとして言い返す。
――まるでそれでは自分が食べてばかりいるみたいな言い方ではないか。
「あはは、ごめんごめん」
彼は笑ってはいたが、決して否定はしなかった。
暗闇の中で、静寂が帳のように降りる。暖かい空気が頬を撫で、うとうとと再び眠気が訪れる。
「もう少し傍においでよ。話し相手くらいにしかなれないけど――話していれば少しは眠気も覚めるかもよ?」
頷いて、毛布を膝にかけたまま近寄る。
そうでなければ、本当に眠りそうだった。
それに、ちょうどクラウドに聞きたかったことがあったのだ。
膝の間に顎をうずめ、尋ねる。
――旅は楽しい?
「僕にとって、旅は生きていることと同義さ。自分とは違うものを見て、聞いて、知らないことを知り、そうして今までの自分が知っていたことを確かめる。一所に留まっていられない性質らしくてね……そういう君は?」
かえって問い返されて、しばし答えに悩む。
最初はただ思う通りに歩いて来たのだが、すぐに帰れる場所ではなくなってしまった。
だが、不思議と不安はなかった。
まるで何かに導かれているように歩いているだけのような気がする。
――と、そこまで言って、自分が変なことを言っていることに、はたと気付く。
後悔しつつ、慌ててクラウドの表情をうかがう。きっと呆れているに違いない。
明かりに慣れた目にその表情が届くのにはしばらく時間がかかった。
彼はただにこりと笑っていた。
「面白いね。やっぱり僕の期待通りかな」
――やっぱり?
その言葉に、いぶかしく思う。
問い返す前に、彼は本をぱたんと閉じた。
「古代の英雄は皆、予言によって旅に出る。それが望むと望まざるとに関わらずね。自分の意志で動いているつもりでも、実は大きな何かに流されている事は否定できない。そこで呑気に寝息を立ててる彼や彼女も、君という流れに従って旅をしているに過ぎないんだよ。それは『運命』って呼ぶのかもしれない。流されている自覚をしている分だけ、全てを自分がやり遂げているつもりの連中よりはマシさ」
その言葉にぱちくりと目をしばたかせる。
すぐに自分があまりに買い被られている事に気づき、慌てて否定する。
ディオもレオナもそれぞれ自らの目的に向かっているはずだ。自分のためではない。
「はは。そういう遠慮深い所も嫌いじゃないよ。僕の同期なんて、誉めるとすぐ調子に乗るからね。ま、そうやって頂上に行ったところでどん底まで落とすのも好きだけど」
つぶやきながら荷物の中から油紙の包みを取り出し、こちらに投げて寄こした。
中は酸味のある黄色の皮を砂糖で煮詰めた物だった。
――確かこれはディオの荷物だったような気がしたのだが……。
なぜクラウドの荷物の中にあるのだろう、と首を傾げるが、
「ま、いいじゃない。万物は流転するんだよ。火は土に、土は水に、水は風に、風は火に。鉛から水銀、水銀から銀、銀から金、おしまいに金から鉛へ。そして、彼の隠しておいた物は晴れて僕らの糧となるのさ」
と答え、ひょいっと口に放っている。
なんだか煙に巻かれたような気がするが、ありがたく貰う事にして口に入れる。透き通った宝石のような乾菓子を噛みしめると酸味の効いた味と共に、わずかな苦みが広がる。
酸味で頭が覚めたためか、ふと考えが浮かんだ。
――彼は流される事を決して否定しないのだ。
誰もが流されまいと勇敢に逆流の中を泳いでいく。流れに従い進め、などとそんなことを言えるのは世間から離れた窓際の賢者か、楽天的な詩人くらいだろう。
しかし、ただ流されるつもりはクラウドには全くないようだった。
流された上で、自分の望む方向へと辿りつく覚悟がある。まるで、空を泳ぐ雲のように。
だから、問い返す。
――あなたは、何のために旅をしているの? その『運命』のため?
「僕? そうだね――僕はただ好きに旅をするだけだよ。その『好き』なのさえ定められたことなのかもしれないけど、楽しみを与えてくれる限り、文句は言わないさ」
クラウドは面白がるような表情を崩さない。
けれど、その一瞬だけはどこか遠い、寂しげなものに見えた。
「たとえ、旅の終わりに何が待っていたとしてもね」
ちなみに、その次の日。
ディオが荷物を背負いながら、しきりに首をひねっている。
「なあ。俺の荷物が軽くなってる気がするんだけど……見張り中には何もなかったんだよな?」
……夢ではないだろうかと言ってごまかしたが――笑顔が引きつっていたかもしれない。
その肩越しに、クラウドが必死に笑いを堪えていたのが見えた。
「っかしーな、しかも保存食ばっかが消えてるし。幽霊とかじゃねぇといいけど」
と言って、ディオは怯えたように肩を抱いている。
おそらくこの疑問は一生解けないだろう。
***
やがて木もなくなり、景色は石が転がる荒野へと変わった。
周りに自然物はなく、原野に川だけが流れる奇妙な光景だった。
この辺りには支流が集まった池があり、さらにその池から水が流れ出し、川となる。
他の方向からも別の流れと合流し、池を作り……と繰り返す。
やがて、その水は幅の大きな河となっていく。
まるで血管の中を流れる血液のようだった。その中に、ぽっかりと開いた窪地がある。
恐らくは、ここが全ての水が集まる場所だろう。
長い年月をかけて削られたのであろう崖の上からは、水が轟音を上げて流れ落ちている。
崖の下には受け皿のような湖がある。この大量の水が湖を作っているようだった。
そして――
「大きな遺跡のようだな……」
滝の轟音は、よく通るレオナの声もかき消されそうなほどである。
その窪地の底――湖の中央には巨大な建築物がそびえている。
遠目だが、塔のように見える。
白い外壁は月の頼りない光の下、鱗のように白く輝いている。
クラウドが言っていた名を思い出す。
――あれが、月の塔?
湖の砂州に作られた塔は、上から見ると葉の落ちた針葉樹のように見える。それか、骸骨のようだった。
まるで、骨組みだけの塔で、ともすれば土台の不安定さから均衡を失いかねない。
しかし、水の中から突き出た三つの骨組みが螺旋状に塔を支えられているようだった。
僅かな風に湖が凪ぐ。
波はまるで生き物のように跳ね、飛沫を散らす。
水の中から生えた白い花が、月光を受け、闇をうっすらと照らす。
――まるでこの世の物ではないようだった。
「近くで見ると、もっとでかく見えるな」
額に手を当てながらディオが呟いた。
崖の下まではロープを伝って降りたが、随分長くかかってしまった。
引っかかりが取りにくい場所だったなら、体力が持たなかったかもしれない。
すると、クラウドが鼻を鳴らした。
「それ以外に言う事ないのかい? ああ、そうか。君ってどうせ馬鹿だから『大きい』と『でけぇ』しか言えないんだろう。まったく、語彙力とボキャブラリーの乏しい人はこれだからいやだね」
「うるっせぇな! っていうかどっちも同じ意味だろが!」
何やら、また言いあいが始まっている。
――この二人は仲が良いのだろうか?
「勝手にやらせておけ。さて――」
しんがりとして降りて来たレオナが塔を見上げていた。
油断なく辺りを見渡しているのは、緊張しているというよりも傭兵としての習慣だろう。今のところ怪しいものは見られない。
「本当にここに入るのか? あの男の言う事を信じるわけではないが、確かにこの塔には何かがありそうだ――肌に触れる空気が違う」
レオナも経験か、勘か――どこかで危険を察知しているのだろう。動物ならば毛が逆立っているところだろう。
だが、答えがそこにあるならば行かねばならない、と何かが告げている。
それは彼方からの声なのだろうか?
言葉にできずに口ごもっていると、こちらを安心させるようにふっと笑ってみせた。
「――わかった。少し聞いてみただけだ。なに、そんな心配そうな顔をするな。雇い主の行く所ならば、どこまでも従うのが傭兵の仕事だからな」
レオナはその場に荷を置くと、剣を手にした。
「少し周りを見てくる。ここで待っていろ」
遠ざかっている後ろ姿を見送った後、じっとそびえたつ古の建築物を眺める。
空気が停滞して、湿気で肌がべたつく。まるで水の中を泳いでいるようだった。
一歩一歩が重く、正体不明の圧力があるように感じられる。
それから、天を仰いだ。
下から見上げると月が塔の頂上にかかり、冠を戴いているように見える。
おそらくこの塔は、月を含めての完成品なのだろう。そう思った。月を抱く塔。天と地をつなぐ御柱。
――おぞましく、恐ろしい。けれど、どこか懐かしい場所。
複雑に混じりあう言葉を沈め、しばしそれに見惚れていた。
と。
唐突に足音もせずに声がかけられる。
「何をやっているんだ、あいつらは」
くるりと振り向くと、哨戒が終わったらしいレオナが立ち、手本のように呆れた顔をしていた。
その視線の先を追うと、
「へへーんだ、悔しかったら召喚のひとつもしてみれば? まぁ君には一生かかっても不可能だと思うけど」
「あ? そっちこそ一日中畑で仕事してみろよ。絶対、てめぇなら昼までに音を上げるっつの。農民なめんなよ!?」
クラウドとディオが顔を近づけて何やら、言い合っている。
どうやら、まだ口喧嘩が続いていたようだった。
息継ぎもせず、むしろ先ほどよりも熱が入っているように見える。
なんと言ったらいいものか――苦笑する。
――ふたりとも仲が良いのかも……多分。
塔に入ってすぐにあったのは、石を組み合わせた床と壁だった。
天井近くには満ち欠けする月の文様を描かれている。
中がうっすら青く見えるのは――月明かりのためでなく、素材の色自体が青いのだろう。
これは自然の洞窟ではなく、人工的な物だ。
塔の内部は外よりも湿気がひどかった。
石造りの床にはうっすらと水が満ち、隅には水たまりが出来ている。
水たまりの下には空間があるようだったが、深く黒い水面は見通す事ができそうにない。
あちこちに黒い染みがこびりつき、黴臭い匂いがする。
歩くたびに靴がぴちゃぴちゃ、と水音を奏でた。
「滑りやすくなっているから気をつけろ」
隣のレオナが歩を進めながら言った。
誰もランプを手にはしていない。
壁には松明を置く窪みこそあるものの、この湿気の中では火もすぐに消えてしまう。
しかし、それが必要ないくらいに塔の内部は明るかった。
まるで内からぼんやりと光が放たれている様だった。
ちなみに、後ろをついてきているふたりと言えば。
「ったくよー。なんで俺が殴られなきゃいけないわけ? あー、納得できねぇ」
「へぇ、奇遇だね。何で君のせいで注意されなきゃいけないのか、僕も理解に苦しむところだったから」
わざわざ横に並び、ディオとクラウドはそれぞれふてくされたように呟いた。あの後、あまりにうるさいのでレオナに殴られ、やっと静かになったのだった。
「中に何がいるか分からないからな、あんまり騒ぐなよ」
「まぁ、何かが住んではいるみたいだね。こんな住環境悪いところからさっさと引越せばいいのにさ」
心底呆れたように言うクラウドに、聞き返す。
――こんな遺跡の中に?
「だって、ほら」
「あん? ……うお、なんだこりゃ!?」
ディオが変な悲鳴を上げ、壁にぶつかった。
クラウドが指さした場所には、生物の骨の残骸が転がっていた。
あちこちが砕けていることから、他の生物に襲われたのかもしれない。
「へぇ、君って怖い物苦手なんだ。いいこと知っちゃった」
「うるせ」
にやにやと人の悪そうな笑みを浮かべるクラウドから、ディオが視線をそらした。
――あれは放っておいていいの?
困って聞くと、レオナはため息をついた。どうやら、彼女は諦めたらしい。
「放っておけ、あれはあれで相性が良い」
とだけ言って、前を向いた。
通路を進みきると、階段があり、それを上がると大きな部屋へと出る。
上の階から流れ落ちて来たのか、部屋の中を深い水たまりが占めている。
――ここは、何のための部屋なのだろう?
その水たまりの底は暗く、何かを飼う水槽のようにも見えてぞっとする。
ふいに首筋を雫が伝って、驚く。
その瞬間、脳裏に言葉が浮かぶ。
――まったく最悪だ。
――気味が悪い場所に来るはめになるわ、よく分からない変人にからかわれるわ。
――俺の平穏は一体どこにある事やら。
――あー、早く外に出て酒でも飲みたいぜ。
――でも、これを口に出すとレオナに殴られるので我慢しておくことにするか。
――……………………。
…………?
今のは、自分が考えたことか?
「うん? どうかしたのか?」
唐突に立ち止まったこちらを気遣うようにレオナが声をかけた。
よく分からないので、誤魔化すように笑って首を振る。
***
「――待てっ!」
レオナが鋭く制した。
一歩を踏み出そうとした瞬間だったため、思わずたたらを踏む。
後ろを歩いていたディオが驚いた声を出した。
「おわっと、急に止まんな! ……どうしたんだよ?」
「何かがいる。遺跡には付きものと聞いていたが――」
水たまりの中から、黒い影が浮かぶ。
満ちていた水槽の中から、叩くような激しい水音と共に、大きな蜥蜴が這い出る。
細い枯れ枝を組み合わせたような見た目だが、白い目だけが異様に大きく見える。瞳は黒く、裂けたような瞳孔が縦に走っている。
表面は粘液に皮膚が包まれ、ぬらりとした光沢が灯りに照り映える。かつん、かつんと鋭い爪を石畳に引っかけ、舌をちろちろと見せている。
――これが、さっきの骨だけの生き物だろうか?
「気を付けた方がいいと思うよ。いかにも空腹そうだし――あの爪とか引っ掻かれたら、多分痛そうだ」
「見ればわかるわい!」
水たまりから柱の影からも水音を立て、次々と姿を現した。
様子をうかがっていたらしい一匹が見た目と反した脚力で素早く飛びかかった。
がぎんっ。
とっさに杖を目の前に差し出すと、蜥蜴は食い付いた。金属性の杖が折れる事はないが、歯で咥えたまま離さない。
杖に噛みついた一匹の背後を飛び越え、もう一匹が姿を現した。
ジャアアア!
空中にいる無防備な間に落とされ、鉄を水に付けた音のような悲鳴を上げた。金属の匂いが鼻を突き、緑色の血が水に溶け、複雑な紋を描く。
「おまえは下がってろよ! 運動オンチなんだからよ」
失礼なことを言いつつ、瞬きするの間に銀色の鎖が自ら縮み、持ち主の手元に戻る。
「ファリアリスから貰った武器だけど、やっぱ便利だな」
ディオが手元を見て、感心したように言っている。
友人から譲り受けた武器だが、彼はすっかり使いこなしていているようだ。
「ええい、きりがない……!」
レオナが呟く。斬り刻むが、いかんせん数が多すぎる。
蜥蜴は好戦的な割に慎重なのか、なかなか襲いかかってはこない。
その向かって来た一匹を追い払うと、代わりの一匹が向かってくる。
ディオもレオナも個々を相手にするのは得意だが、数が多い。体力が尽きるのは時間の問題だった。
自分の武器の効果ならば一網打尽に出来るのだが、ディオと違って使い方が分からない。
いくら四人で戦っているとはいえ……
「みんな、頑張れ~。特にあの先頭の男とか美味いかもしれないよー」
「って、てめぇもなんかしろよ!? つーかどっちの味方だよ」
呑気に壁際で見物をしていたクラウドにディオが叫んだ。
ちょうど自分たちの背後にちゃっかりと隠れていたらしい。
クラウドは口を尖らせた。
「えー、だって一介の学生だよ? それに僕は頭脳担当だから、乱暴な事は君に任せるよ。じゃあ終わってから呼んでよ。止めだけ刺すから」
「オイシい所だけ持ってくな!」
さらに何か言おうとしたのだが、目の前の蜥蜴を見てディオは口を閉ざした。
――このままでは全滅してしまう……!
何か方法があるなら、教えて欲しい。
すると、彼はやれやれとため息をついた。
「しょうがないなぁ。君の頼みだったら」
同時に、嬉しくて仕方がないと言ったような。
「じゃあ、燃やすかな」
素早く袖の中に手を差し入れた。
と、その指の間に何かが挟まれていた。
それは、一本のガラスの細長い棒だった。中は空洞になって、透き通った赤い液体で満たされている。
それを、矢のように蜥蜴へ投げつける。
ディオの横をかすめて石の床へと落ち――
ぱりぃぃん!
澄んだ音を立ててガラスが割れた。
刹那――
ごうっ!
「どおっ!?」
液体から膨れ上がった真紅の炎が蜥蜴を飲みこみ、辺りを焼き払った。
熱が肌を撫で、焦げた匂いが鼻につく。
「オイっ! 危ねぇだろ!?」
ほんのり焦げたディオが文句を言っている。
「ちっ、無事だったか……」
「狙ってたのかよ!」
ディオは舌打ちしているクラウドへと食いついているが、それはともかく。
――今のは……?
レオナが目を見張って言った。
「これは――魔術か?」
「そ、エーテルを媒介にして火の元素を溶かして調合した。物質変換術、四代元素の組み合わせ――色々な言い方があるけど要するに簡単な錬金術だよ。大気に充ちた星幽体に触れると即座に発動するのが良いところかな。僕は待たされるのが嫌いだからね」
これが錬金術。
故郷では禁忌とされていたため、見るのは初めてだった。
自然界の中で最も綺麗で危険な炎は蜥蜴の数をあっという間に激減させ、残っている蜥蜴は炎に焙られる危険を感じ取り、警戒して近づいてこない。
今と同じような術でもう一度攻撃すれば即座に全滅させられるだろう。
が――ふぅ、とクラウドはため息をついた。
何か、その声音に嫌な予感がした。
クラウドは背を向け、ひらひらと手を振った。
「疲れちゃったから、後は君たちに任せるよ。終わったら呼んでね」
そう言ったきり、後ろへと下がって行った。
シャア――!
これ以上、あの焔に焼かれることはないと感じ取ったのか、蜥蜴たちが牙を剥いて飛びかかってくる。怒った蜂の群れのように、さっきよりも凶暴さを増している。
「何なんだよ、てめぇは!」
ディオの悲痛な叫びが塔に響いた。
全てが終わった時には死屍累々の有様だった。
水たまりは深い緑青色に染まり、錆びの匂いが充満していた。
数十匹を相手にし、全員が肩で息をしていた――約一名を除いて。
「やぁ、お疲れ様。けっこう手間取っちゃったね。もっと早く終わるかと思ってたけど」
「…………」
「…………」
――…………。
無言で視線を向けるが、クラウドの気楽そうな顔は変わらない。
気づいていないのか――そんなわけはないと思うのだが――形の良い指先は、右を示した。
「あっちの方に階段があるみたいだから、少し休んだら次の階に行こうか。まだ一階だから先は長いと思うけど、気長に行こう。せっかくだし歌でも歌う?」
――…………。
それに応える気力のある者はこの場にはいなかった。
***
――月の塔 2階
平らな床を見てほっとする。
やっと次の階へ出たようだった。
一階をぐるりと回り、行きついた先に階段があった。
段差の低い階段を昇り――どのくらい経ったかを数えるのも忘れてしまうほどだった。
とにかく、数えるのがおっくうになるほどに長かった。
階の中央はバルコニーのような吹き抜けとなっており、ぽっかりと暗闇が虚ろな口を開いていた。
手すりから下を覗きこむと、強い風が顔に当たり、髪を吹き上げる。
どうやら上へと空気が流れているようだ。
顔を上げ、目に入った物にぎょっとする。
部屋の中心には一本の太い柱が通っている。
そこにまるで宿木のように細い管が螺旋状に絡まり、上へと昇っていく。
この柱一本で塔を支えているのだろうか?
「さすがに倒壊はしないとは思うが……どういった仕組みなんだ、この塔は」
レオナも驚いた顔をしている。
と。
ふいに口を閉ざしていた――階段の途中までは喋っていたが、最後は皆黙々と歩く作業に集中していたのである――ディオが言い出した。
「なぁ、さっきから変な声が聞こえねぇか? 階段の辺りからよ」
「変なとは何だ? もっと具体的に言え」
レオナが怪訝そうな顔をした。
「うーん、具体的にはわかんねぇけど、何か変な感じが……」
ディオが首をひねっている。
――それはそうだろう。
――それがこの塔の役割なのだから。
――ひとつになるという事は、全てを共有する事なのだから。
――その合間に意識は無意識へと溶解する。海から戦が原へと逆流した水は谷や丘を越え、この月の塔へと至る仕組みであるわけだ。
――そして、その先には……。
――――?
立ち止まり、
今のは、明らかに自分が知らない事が思い浮かんだ。
この塔の奇妙な点が嫌でも目に入る。
ただ登って行くだけで、何もないのだ。
何も手掛かりが掴めないのは、体よりも精神を疲れさせる。
この塔は、どこまで続くのだろうか?
***
――…………。
……………………。
遠くから懐かしい童謡の音律が聞こえてくる。
市内全てに時刻を告げる。
夕焼けで夜が近いから家に帰ろうとかいう歌詞だったが、昨今山に寺なんてないし、カラスも居心地の良い都会に住みついて我が物顔で恐怖を振りまいている。
それでも不思議と郷愁を誘うのは、残された時間が少ない事を告げているからだろうか。
もう、居場所に帰る時間だと。
夕暮れの、僅かに残された魔法の時間。
「まったく、いつまで居座っているつもりだ? ここは吹奏楽部の部室だと何度も言っているだろう? 口に涎まで付けて、少しは女子らしくしたらどうだ」
机に突っ伏していた顔を上げると、腕組みをした少女が立っていた。
黒くやや細めの目と、真っ直ぐな髪は彼女の性格にぴったりだった。
自分よりもやや背の高い彼女は、本人に自覚はないのだろうが何かと世話を焼きたがる。
試験前は、ノートを貸してくれるどころかちょっとした勉強会まで開いてくれた。
私は、突っ伏して答えた。
「どうせ家に帰ってもする事もないし……」
「だから学校で昼寝か。まぁ、ここには私しかいないから別に構わんがな」
と言うと隣の席に座り、黒い革張りのケースを開く。
寝ぼけ眼に金色の輝きが夕陽の赤に染まる。
しばらくの音程合わせの後に、低く落ち着いた韻律が響く。
「玲於奈の音楽は、まるで歌ってるみたい。聞いてると気持ち良くって……」
「だから眠くなると? 誉めるならもっと上手く誉めろ」
えへへ、と笑みをこぼして彼女の歌に聞き惚れる。
ここは、放課後に与えられた魔法の時間だった。
……
…………
……………………っ!?
眠りから覚める一瞬前のような、階段から足を踏み外す感覚。
壁からずり落ちそうになり、がばと上半身を起こす。
冷水をかぶったように身体は冷えていた。
「おい、大丈夫かよ?」
気が付くと、心配そうなディオの顔があった。
身を折るようにしていたのか背中の筋が固まり、動かすとぽっきり折れてしまいだった。
今は何度目かの休憩の最中だった。
――少し、眠ってしまったみたいだ。
夢を見ていた。悪い夢ではない。
遠い異国の、穏やかで平和な日常――
なによりも、あんなに明るくて赤い空を見たことがなかった。
目を白黒させていると、レオナが嘆息した。
「無理もない。慣れない旅を続けているのだし――それにさっきは重労働だったからな。誰のせいとは言わないが」
そのままぎろりと睨むと、クラウドは一筋汗を垂らして目線を明後日の方へ向けている。
まじまじとその顔を見返す。
「……? どうした?」
まだぼんやりしている頭を振る。
さきほどの少女の顔は、レオナとそっくりだった。
「は? 夢の話だろ。じゃ、レオナが出てくる夢って事か?」
そういうわけではなく、まったくこことは違う場所、違う人物だった。
さっき声が聞こえて来たのと同じように、自分の記憶にはないはずのだが。
――頭の中に声が響いて……
それを聞き、レオナの顔色が変わった。
「わたしも、さきほどから何かが聞こえるような気がしたのだが……」
「マジかよ。俺と同じって事か。これって、おまえが家の前で聞いたのと同じ声なのか?」
――いや、違う。
彼方からの声は、もっとささやかな呼び声だった。
すぐに途切れてしまいそうにか細い糸のような、だが確かにこちらを呼ぶ声。
今のは、はっきりと響き過ぎている。
そのまま声の持ち主の感情まで読み取れそうなほどだった。
「そういや――てめぇはどうだよ? 四人中三人が聞いてんだ。よっぽど鈍くなきゃなんかあんじゃねぇの?」
ディオがクラウドに話を振った。
彼はしばし思案していたようだったが、やがてお手上げとばかりに匙を投げた。
「残念ながら僕には何も。君には聞こえるっていうのがなんか癪だけど。君にできて僕にできない事はないだろうから、そのうち聞こえるんじゃない?」
「いちいちムカつくんだっつの、てめぇはよ」
休憩を終え、再び上の階へと足を進めた。
***
――月の塔 三階
――――…………
館の戸棚にある隠し扉を潜り抜け、何重もの階段を降りた地下。
地表をあまねく照らす光の恩恵も届かない。
それもそのはず、この館に集う者は昼よりも夜を好む。
頭をぶつけそうな天井には、うっすら白い煙が漂う。それに乗った、薬と香草の匂いも。
しかし、とりわけ強いのは薔薇の甘い香り。
その暗闇の空間にひとつ、影がうごめく。
肩幅もそこまで広くはないが、シルエットからして男性だろう。
横には何冊もの分厚い本が山と積まれ、猫背になって一心不乱に書き物をしている。
椅子に座ってというよりも、本に挟まれて存在している孤島のようだった。
すぐ後ろで止まった足音を聞いても顔すら上げない――扉を開けた音にも気づかなかったのだろうか。
入ってきた老人が咳払いをして、やっとわずかに顔を上げた。
「……ああ、先生。お久しぶりです。今は昼ですか、それとも夜ですか?」
すぐ横に立っている老人を、そして後ろをわずかに見やって嘆息した。
乏しい蝋燭の明かりに、紅い髪が揺れる。
部屋の暗さのせいでよく顔は見えなかったが、その紅さは目に残る。
自分は、彼を見返していた。
「先生……また新しい協力者ですか」
青年は少々呆れたように言った。協力者、という部分を妙に強調して。
「最後には僕が世話する事になるんですから、やすやすと拾ってくるのは控えてくださいとあれほど言ったでしょう? 野良犬じゃないんですから」
「忘れた」
言われた当の老人はどこ吹く風で部屋を見回した。
部屋には描き散らした羊皮紙が散乱している。
円の中に複雑な記号が書かれ、それぞれに対する考察がびっしりと書き込まれている。
これは、この人物に訪れるはずの運命だった。
「その花は?」
老人は、束ねられた赤い薔薇を見て呟いた。
インクと古紙の乾いた匂いが満ちた地下室には珍しく、今は生花の香りが満ちていた。悪魔から身を守るために香が用いられるのはごく一般的な手法だ。それにハーブや花を使うのも常識だ。ここに満ちた匂いもそのため。
だが――観賞用に花を飾ることを彼らは好まない。そんな通常の感性を持ち合わせているならば、そもそも道を踏み外したりはしない。
「彼女が持って来たみたいですよ。集中が途切れない程度ならいいでしょう? そもそも僕はインセンスとか嫌いなんですよ。そんな物、正真正銘の科学に必要ないですし」
青年の持論には興味もないらしく、ふいと目線を外した。
「それよりも卿の機嫌を損ねるな。彼は無理解とは言え、重大な後援者だ」
「はいはい、肝に銘じておきます。ただ――生憎と真実しか口にできない性分なもので、もしかしたらご期待には添えないかもしれませんが」
そういうと彼は机に向かい、書き物を再開した。
――…………
段差につまづきかけて、やっと立ち止まる。
また、何かが見えた。
夜よりもなお暗く、深い地下室に隠れて研究を続ける青年――
また、見えたのは違う光景だった。
夢にしては暗さや匂いまではっきり覚えていた。まるで、そこに実際にいたかのように。
レオナが顎を撫でながら思案した。
「何らかの悪意を持った敵がいるのかもしれない。人か、魔物かは分からないが。幻覚で動揺させ、奇襲をしかけてくる可能性もないわけではない」
――魔物……?
ぞっとしてつぶやくと、ディオが鼻を鳴らして言った。
「もしかしたら人の姿をした魔物かもしれねぇぞ」
ちらり、と視線を横へ向け、クラウドが口の端をつり上げた。
「持って回った言い方は好きじゃないなぁ。はっきり言いなよ」
「てめぇが、俺たちを嵌めたんじゃねぇのか? 案内するって名目でこの塔に誘導してよ」
クラウドは表情を皮肉っぽく歪めた。
「へぇ――面白い事を言う。名探偵にでもなったつもりかい? じゃあ聞くけれど、僕が犯人という根拠は?」
ディオはきっぱりと、迷いなく答えた。
「てめぇが入って来てから変な事が起こるようになった。こんな場所にまで連れてきやがったのも怪しい。それにナントカ図書館の話は聞いたことがねぇが、魔術士どもの話なら知ってるぜ。人を騙す詐欺師と同義だろ?」
事実と状況証拠と、それと風の噂と少しの偏見。
それを真正面から受け止め、クラウドは肩をすくめた。
「魔術士にも色々いるさ。それに――人の意識にまで干渉するような術は僕にも無理。術士にも全てが出来るわけではないのは確か。全てが出来る術士は確かに詐欺師だ」
クラウドは苦々しく告げた。無理、という部分に力がこもっていたから、恐らくは自分自身に不可能があることを認めることが苦しいのだろう。
でも、と前置きした上でクラウドは後を続けた。
「そんな都合のいい術があるなら、疑われるような愚は犯さないと思わない? さて、それを踏まえた上で、この現象がなぜ起こっているのか。君はどう説明するんだい?」
ディオはぐっと言葉に詰まった。
「てめぇだけ何も見えてないっていうのは?」
「僕はある程度は慣れているからね。他の意志が入ってくるのを防ぐ事くらいなら出来る。そういう君は本当に君なのかな? 魔物がいるっていうなら、途中で入れ替わるくらいの事はすると思うけれど? もし僕だったら、内部からじわじわと疑惑を煽るくらいの事はするさ――こういう時は最初に言い始めた奴が怪しいってね」
「てめぇ……!」
「おい、その辺にしておけ」
見かねてレオナが口を挟んだ。
「仲間内で疑う事ほど愚かなことはない。敵がいるならばなおさらだ――お前も、あえて扇動するような事は止めろ」
前半はディオに、後半はクラウドに向けて言った。
「……けっ」
「……ふん」
ふたりともバツの悪そうな顔をして、そっぽを向く。
それを見て、訳もなく泣きそうになった。
闇雲に進む自分たちを飲みこもうとしている。目に見えない黒い影が網のように周りに広がっているようで……怖い。
胸がつかえ、喉に詰まった異物が吐き出せない時のような嫌な感じがする。
まるで、底なしの淵へと足を踏み入れたようだった。
***
――月の塔 上層部
――…………
黒ずみ、繊維のほどけかけた布切れをまとった子供が、通りの隅でひざを抱えている。
行き場のないみなしごか、金をせびる力も残っていない乞食か。
目つきの妙に鋭い男女が通りを行きかうよう場所――ここは、裏通りだ。
と。
路地の出口に薄茶色の頭をした少年が座っている。
何かの枚数を確認するように一枚一枚を眺めてはにやにやと笑っている。
「どうしたの?」
声をかけると、ぎくりとした様子で肩を震わせた。
慌てて地面に並べていた貨幣を手でかき集め、逃げようと腰をからげた。
だが――こちらの顔を見て取り止めたようだ。勘違いに気づき、照れ笑いをしている。
「なんだ、お前かよ。へへへ、聞いて驚け。これが今日のアガリだ」
興奮した様子で後ろ手に持っていた物を前に差し出す。
覗きこみ、目を丸くする。
その手には何枚もの貨幣が握られていた。
どれも価値が高い銀貨ばかり。
生まれて初めて見る人の横顔が彫られた硬貨に驚いて、尋ね返した。
こんな物、どこで手に入れたの? と。
「へ? そりゃあ……そこらへんで落ちてたのを拾ったんだよ、偶然」
少年は目線を逸らしながら答えた。
いかにも怪しい。こうやって嘘をつく時はあからさまなのだ。
さらに追求しようとするが、少年は銀貨を持って立ち上がった。
「あー、難しい話はなしなし! これで腹いっぱいメシが食えるぜ。おまえにもちっとだけ分けてやるよ。ほら、行くぞ!」
と言って走り出した。
子犬がじゃれ合うようにして連れだって走る。
路地の表を出て、その姿は消えていった。
――…………
一瞬立ち止まりかけたが、慣れてきたので数歩よろめいただけで済んだ。
今度は誰にも気づかれていなかったようだ。何にもない風を装って、歩き続ける。
この階は今までとは様子が違っている。まず足元が質素な灰色の石から、黒く磨き抜かれた床へと変じた。覗けば、顔が鏡のように映るだろう。
ここには息苦しいほどの水の匂いもせず、清涼な空気が流れていた。
床と同素材の壁には鱗を持つ美しい女――水の精の精緻な細工が施してある。
窓から外を見て、感嘆の息を吐いた。驚くほどに月が近い。
もう相当な高さまで登ってきたようだ。
と、ふと違和感を覚えた。
先頭をレオナ、次をディオが歩いている。その後ろをクラウド、そして自分と続いていく。
「今って、いったい何時なんだ? ずいぶん登ってきたような気がするんだけどよ」
「月の位置からして、そろそろ深夜だな。寝ぼけて足をすべらせないようにしろ」
「ひょっとして、俺のイメージって相当に悪い?」
話している二人の後姿を追い越し、周りを見渡す。
ひとり、足りない。
いつの間にか、クラウドの姿が消えていた。
「あいつ……やっぱり何か企んでやがったのか?」
忌々しげにディオが呟いた。
「だから俺はあいつを信じるなって――」
「終わった事を今さらに言うな。問題は既にここまで来てしまった事だろう。今からでも引き返して遅くはない」
――だが、まだそう決まったわけではない。
クラウドが帰ってくるかもしれない。もう少しだけ待っていて欲しい。
「まだあいつのこと信じてるのか? お前もたいがいお人好しだけどな。行方までくらましやがって、もう疑う要素しかねぇだろが」
忌々しげに空を睨む。まるで、そこに憎む誰かがいるかのように。
「俺は降りる方に賛成だぜ。こんな危ない塔にはいられねぇ。ここまで登って来たとか、関係あるかよ。いつ不意打ち食らうかわからねぇ」
ディオは不機嫌そうな顔をした。
そんな顔を直視できず、うつむく。
自分は間違っているのかもしれない。そう思うと、なぜか胸が痛む。
うつむいたまま、誰かが頭を撫でた。顔を上げるとレオナがわずかに微笑んだ。
レオナは責めるでも甘やかすでもなく、真っ直ぐにこちらの目を見て言った。
「わたしが言いだした事だが――決めるのはあなただ」
悩みつつ口を開く。
――降りたら、またあの蜥蜴がいるかもしれない。そんな塔にひとりで残して行く事はできない。
――だから、自分は探そうと思う。
ディオがため息をついた。
「お前って、本物のお人好しだよな……。それに付き合う俺もってことか」
レオナも異論はない、と頷いた。
そうして再び、入ってきた時よりもひとり減らしたまま、この階の探索を開始した。
――クラウド!
呼びかけ、視界の隅に紅い色の切れ端でも見えないか目を凝らす。
「おい、大人しく出てきやがれー……ダメか。こんなんで出てくる奴じゃねえし」
そう言って、ディオは周りを見渡した。寒気がした、という表情だ。
「なんか見られてる気までするし……気味が悪りぃな。いつ何が来るかわからないって、こんな怖ぇのかよ……」
頷く。物音がするたびに後ろを振り向き、何もないとわかって安堵する――それを繰り返していた。警戒のしすぎかもしれないが、何かがいるような気がしたのだ。
隠れられそうな場所を覗きこむ。が、廊下には部屋のひとつもなく、素っ気なく作られた高窓から月明かりが差し込むばかりだ。
――この塔はいったい何に使われていたのだろうか?
もし、かつての住居だったならば机や寝台があり、敷物のひとつもあるはずだ。
この塔には物は置いていない代わりに、太い柱が塔の上から下までを貫いている。その周りに足場がある。それ以外には何もない塔。
まるで牢獄のようだ、と思って肩を震わせる。石ばかりで窓しかない。ここに閉じ込められれば遠からず発狂してしまうだろう。
ここに居てはいけない――だが、ここに来なければならない。
矛盾した衝動に胸がざわめく。
と、目の前を何かが、かすめた。
それは矢のような速さで弧を描き――やがて窓枠に止まった。
驚きに声も出ない。
そこにはいるはずもない、白く巨大な猛禽類が窮屈そうに身を縮めている。
厳しい眼光と鋭い爪に、威風堂々とした森の王者。
しかし、どことなくその姿は曖昧で――時折吹く風に霞む事があった。
その鳥が翼をはばたかせると、声が聞こえた。
『聞こえてる? 僕だ』
それは、聞き覚えのある声だった。
クラウドの声だ。
『君にだけ伝えたい事がある。他の二人には黙って、付いて来てくれないかな? 邪魔をされない場所で、二人きりで話したいことがある』
そう言うと、鳥はふわりと翼を広げる。不思議と羽ばたいても音がしない。
駄目押しのように言葉を重ねる。
『君が彼方に呼ばれた事について、僕が知っている限りの事を教えてあげる――それと、この塔に関する真実もね』
鳥は羽音も立てずに行き先と反対側の方向へと飛び立ち、あとには言葉だけが残された。
このまま壁の影に隠れて進めば、二人には気づかれずに離れることができるだろう。
しばし、迷ったが――
意を決して反対側へと歩を進めた。
***
鳥に従って進むと、別の壁に隠された扉があった。
そちらは今までとは違い、ひどく狭く、段差が急である。
この階段が歩く方を思いやっていないのは明らかだった。
塔の中に靴の音が響く。かつん、かつんと単調な繰り返しだ。
仲間がいればそうは思わなかったのに、ひとりではとても長く感じられる。
へとへとになった頃に、やっと光が差し込んだ。階段を上り切った先に、出口が見える。
出てきた先は、どうやら屋上のようだった。上って来た以外に他に階段も見当たらない。
骨組みのように支えていた支柱があったが、そのどれかの頂上に出たようだ。
だが、屋上なのに樹が大きな葉を茂らし、緑のドームを作るように天蓋を作っている。この塔の周りは荒野で、草木一つ生えていなかったというのに。
まるで庭園のようで、中心には巨大な池がある。
誰も手入れをする者もおらず、床はびっしりと苔で覆われている。緑の中央には窪みがあり、そこだけ白い石で作られた丸い床となっている。
白い石から染み出すように、どういう仕組みか、澄んだ水が湧き出している。
池、というよりも作られた泉。まるで水盤のようだ。
その中心に目は吸い込まれた。庭園が素晴らしかったから――ではない。
その巨大な水盤からは無数の青白い光が蛍のように浮かび、空へと舞い上がっている。
まるで光の柱が、水から立ち上っているようだ。
思わず、ぽつりとつぶやいた。
――ここは一体?
と。
案内してきた鳥が背後から追い越し、池の向こうへと飛んで行った。
そして、彼の手元のまで辿りつくと姿をゆがめ完全な煙となり、消えた。
「やあ」
彼の声は、まるで風に乗って旅をする羽のように軽やかだった。
こちらの心を見透かし、それでも不思議と嫌味を感じさせない。
初めて会った時と同じく、クラウドはまるで旧知の友に挨拶をするように語りかけた。
「ここが塔の終わりだよ。お疲れ様」
クラウドは水盤を挟んで反対側に立っていた。
「生命は炎に焼かれて終わる。身体は地に返る。知識は風に吹かれて消える。じゃあ、残る意識や記憶はどうなる? その答えがここだよ」
クラウドは月に手をかざした。水の中を泳ぐ月は影に遮られ、消えてしまう。
「全ての生きとし生ける者は皆死ぬ。死んだ後の記憶は水に溶ける。それは川に流れ、やがてこの国へと辿りつく。ここは聖域であり、霊安所でもある。記憶の安置所と言ってもいい」
その影に重なるように青い光は上り、クラウドの手をすり抜けて空へと溶けていった。
「そして、ここで月へと還って行くんだ。あ、水には触れない方がいいよ。不特定多数の記憶が混ざり合った物質だから、下手をすると取りこまれる。これだけ濃いと近くにいるだけで影響を受ける。例えば他人の考えが読めたり、記憶を再現したり、ね」
――この塔で起こっていた事を、すべて知っていたのか?
なら、なぜそれを言わなかったのか?
ディオもそれを聞けば納得したはず……。
「別に、僕を魔術士という肩書きだけで判断するような人間はいらない。放っておけばいい。僕は、君に信じてもらえればそれでいい……って言ったら変かな? 僕は二人きりで話がしたかった。君に興味を持ってしまったから」
まるで他人事のように告げる目はひどく無邪気だった。ひどく純粋な――知りたいという渇望。クラウドは燃えるような好奇心に目を輝かせ、言葉に熱がこもった。
「君は豊穣の角からやってきたと思う――双戦場を経て、この月の塔へ。でも、君の旅はもっと前から続いていたはずだ。君はどこから来たのか?」
その質問に、なぜか心臓が跳ねた。早まる鼓動を聞きながら、答える。
――自分は豊穣の角で、ネイタルの世話をして……
「本当に? それより前は何をしていたんだ? 何かに『呼ばれた』という人間は豊饒の角以外にも後を絶たないけれど、共通点がある。それは皆、どこか別の土地からやってきたよそ者だったことだよ。どこかからか来て、声を聞いて消えていくんだ」
ぎゅっと胸の前でてのひらを握りしめる。
国を出る直前の事は今でも思い出す時がある。誰かに呼ばれ、そして行かなければと思ったこと。
――……自分だけではなかったんだ。
消えていったのは、自分だけではなかった。なら、みんなどこへ行った?
泡のように浮かんだ疑問は、クラウドが代わりに問うた。
「君はどこから来て、いったい誰で、どこに行くべきなんだ?」
立ちつくし、手には汗が滲む。
――自分に特別な物など、あるわけがない。ただの、何の力もないネイタル飼い。
変わった点と言っても、ただ川で倒れていたのを助けられただけだ。
「川? ということは戦が原からやって来たという事か? いや、もしかしたらそれ以前の海から――あの間は誰も通り抜ける事ができないはず……」
クラウドは独りで何やら呟いている。何か心当たりがあったのだろう。
けれど、それに構っているような余裕はなかった。
――頭が痛い。
足元から崩れていくような不安定さに目眩がする。
と、違和感を覚える。
取り立てて変わった点があったわけではない。
ただ、流れて行く光が速くなったような気がした。
そして、異変が始まった。
***
今度の雇い主は――一言で言うと危なっかしい。
見れば危険と分かる場所に足を突っ込みたがり、怪しい他人もすぐに信じ込む。
依頼で夜盗を追い払ったり戦争に出たことはあっても――食事を作ったり雇い主の首根っこを押さえるのに忙しいのは、今までにない経験だった。
そして、それは共に旅をしてきた同伴人も同様だった。
「どぉいうことだよおおお!? どこ行ったんだ、あいつは!」
「少しは落ち着け。騒いだところで見つかるとも限らん――と言っても、ひょっとしたら向こうが見つけるかも知れないが」
「よし、じゃあもっと騒ぐか!?」
「冗談を真に受けるな。落ち着けと言っているだろう」
がばとこちらへ振り返ってきたディオに告げ、こっそり嘆息をする。
確かに普段からぼんやりしている雇い主は心配である――ましてやこんな塔の中では。
だが、横で数倍は必死になっている人間がいては、自然と落ち着いてしまうではないか。そのせいで、いつも損な役回りを引き受ける羽目になるのは知っている。
つい聞いてしまった。
「お前は何でそんなに過保護なんだ?」
「へ? ――そりゃあ、家族だから」
勢いを削がれたのか、ディオはきょとんとした顔をしている。
壁に背を預け、ついでに疑問をぶつけた。
「……気になっていたのだが、お前たち本当に家族なのか? そこまで似ていないが」
「ああ、いや別に親兄弟ってわけじゃねえけど――血のつながりとかじゃないだろ、そういうの。一緒に飲み食いして、働いて、気が合えばもう家族みたいなもんだし」
――家族。
顔に出さずに苦笑した。
それを聞いて、懐かしい顔が浮かんだ。
それならば自分にもかつて家族がいた事になるのだろう。
何の益にもならない厄介事を、全く平気そうな顔をして引き受ける。困っている人を見ていると放っておけない。ちょうど今の雇い主と同じように
だとすると、家族とは何と脆い物なのだろう。血のつながりがない家族ならなおさら。どれだけ相手が大切でも、ちょっとのすれ違いでいなかったことと同じになる。絆が絶えてしまえば、互いを家族として証明するものは何ひとつなくなってしまう。
けれど、彼らはいつまでも自分たちが家族であると信じているのだろう。
表情に出さずに苦笑する。
少し、羨ましいと思ってしまう。すでに失くしてしまった自分からすれば。もう手に入らないものを見ている自分からすれば。
とはいえ。
家族という言葉だけで済ますには、ややこだわりすぎているように見えるのだが。
――これだけ思ってくれる奴がいるならば、きっと今の雇い主は幸せなのだろう。
「おい、なんで急に黙るんだよ? もしもーし、レオナさん?」
あまりに沈黙が長かったためか、ディオが何やら慌てふためいているのを見て、前言を撤回する。
――雇い主もこんな奴の面倒を見る方も大変だろう。
こちらの顔の前で手を上下させているディオを見ると、なんとなく殴りたくなる。
手を払いのけ、立ち上がる。
「大方どこかではぐれて、道に迷っているのだろう。さっさと探すぞ」
「お、おう。そうだな。あいつ、昔からそういうドジ踏むからな。俺がいてやらないと」
急に元気を取り戻したディオにこっそりと苦笑する。この男の方が、よほど子供なのではないか?
と。
異変が起こった。
「っ! なんだ?」
塔が、突然地響きを立て、足元が水の上のように揺れる。
とても立っていられずに、床に膝をつく。
同時に、背後から爆発するように光が立ち上る。柱から光が溢れている。
あまりの眩しさに目を焼かれないよう手をかざしたが、それも波頭の前の砂に同じ。
「くそ、あいつもまだ見つけてねぇのに……!」
ディオの声を最後に。
そのまま目の前が暗転した。
何かがおかしいと、直感が伝えている。
物思いに沈んでいたクラウドも、ようやく気付いたのだろう。
立ち上り続けていた光の柱は膨張を続け、すでに水盤から溢れている。
同時に、湧き出す水もその質量を増やし、足元が埋まるほどの水が波打ち、端まで溢れてこぼれ落ちていた。
クラウドは慌てて水辺へと駆け寄る。初めて彼の焦った顔を見た気がした。
「意識体が暴走してるのか? まずい……!」
状況を悟った彼の行動は速かった。こちらに走りながら、即座に袖から管を取り出す。彼がさきほど魔術に使っていた道具だ。
屋上が光に飲み込まれる寸前で、こちらの手を取った。同時に、足元に黄色の液が入ったガラス管を叩きつける。
つんとした薬品の匂いが鼻を刺すと同時に、屋上にも関わらず飛ばされそうな突風が追い風のように吹きつける。
風が光の柱を四方八方から押しとどめるが、それも時間の問題だろう。
あおられ、転びそうになるがクラウドに支えられ、同時に彼を支えながら踏みとどまる。
「流れが暴走している……? 塔が活発化してるとでも言うのか?」
クラウドがつぶやいている。その横顔に、何でも知っているような余裕は感じられない。これは、彼にとっても未知のことなのかと悟る。
多少の水は押し流しただろうが、勢いは止まらない。
やがて風は止み、柱が手に負えないほどに広がる。
そして、光の洪水に飲み込まれた。
――………
水の生ぬるい温かさのみが五感を支配する。
夢の中の夢のように感覚が曖昧になる。
何も見えない、完全な暗闇の中に突然投げ出された様。
言葉だけで表すとひどい孤独のようだが、そうではない。
誰かとつながっているのが、わかるのだ。
自分は一人なのだろうか。
――一人ではない。
ここには、誰がいるのだろうか。
――数えきれないほど、たくさん。
ならば、知っている人もいるのだろうか。
――かつて知り、今知り、いずれ知るだろう人がここには集う。
疑問が浮かんでも、自分ではない誰かがすぐに答えを教えてくれる。
心地よい流れの中を泳ぎ、まどろむ。
夢見心地の中で、いくつもの絵が浮かんでは消える。
ある者は子供や孫に囲まれ穏やかに死んだ。
ある者は無実の罪を着せられ首を落とされ死んだ。
ある者は住み慣れた土地を追われた。
ある者は満足な食事もなく凍えていた。
ある者は生まれてから死ぬまで家から出た事がなかった。
あらゆる時代の、あらゆる人々の生きた思い出。
全てがもうひとりの自分だった。
もしかしたら、自分だったかもしれない人。
かつて自分だった者。
いずれ自分になる者。
そして――現在の自分。
しかし。
自分を引く別の力を感じる。
ここにいる時間は終わったのだ、と。
その心地よい流れから引き離される。母親の元から離される小鳥のような、猛烈な寂しさを感じた。
ここにいられるのは、これが最後なのだろうと直感する。
最後に、問いかけた。
自分は、一体何者なのだろうか。
――――。
それにだけは、答えてくれなかった。
***
ぼうっとしたまま、最初に感じのは冷たい空気だった。
次に頬に冷たい感触を覚える。
という事は、まだ身体があるという事だ。
「何よあいつ。『君に興味を持ってしまったんだ』なんて、つまらない口説き文句みたい。気持ちわるいわね」
子供のように無邪気な、けらけらとした声。
ひとしきり笑ってから声は、はぁと嘆息をした。
誰だろうか。
ここまで警戒心を持たなかったのは夢の中に似ていたからだろうか。
夢の中だからこそ、だった。
身体が自分の物でないように動きづらく、ひどく重い。
手の感触が痺れたように鈍く、床についた手が曲がる。
それでも無理に立ち上がると、屋上とは景色が一変していた。
ここには壁や天井すらない。
さきほどと違って自分が倒れているのがやっとの、わずかな空間しかない。
見下ろすと、地表が見えないほどに遠く、雲が触れられそうなほど近い。
冷たい風が頬を撫でる。
ここが本当の屋上……?
下からは、海の青や薄緑色をした光が立ち上っている。
その光が、川のように空へと逆さに流れて行く。
まるで、月へと帰って行くように。
「そう。あのいけ好かないやつが言ってたでしょ? 最後に残った意識は月へと帰るの。本当のことを教えると、月の影へ」
聞こえた少女の声に、心臓が跳ねる。
「そんなにおどろかなくてもいいじゃない。わたしはここよ」
多少拗ねたような、むずがる子供のような声だ。
その声音を辿り、前を見ると真鍮色が目に入った。
床に描かれた円環には十二個のレリーフ――角を持った羊、牛、二人の子供、蟹、獅子、羽のある女性、天秤、蠍、上半身が人で下半身が馬の生き物、同じく上が山羊で下が魚の生き物、水が流れ出す水瓶、そして尾を紐で結ばれた魚――が彫ってある。
その中央に、三日月を模した塑像が立っている。
その三日月に乗るように、一人の少女が座り、こちらを見下ろしている。
「あいたかった。わたしのいとしい人」
ひどく、冷たい物が背を伝う。
その少女は自分と同じ顔をしていた――。
あなたはいったい……?
「わたしはリリス。この塔はわたしの家。わたしの物はあなたの物でもある。だからこの塔はあなたの塔でもある」
歌うような口ぶりでひょいと降りる。
月の光を集めたように透き通る白い肌に同色の髪。
少女が着ているのは白いドレス――それが蝶のように舞う。
鼻歌混じりに、ぺたぺたと裸足でこちらへと近づく。
ふと、この塔の噂を思い出す。
中から誰かの呼ぶ声が聞こえる、と。
――わたしを呼んでいたのは、あなた?
「違うわ。わたしの声は本当に届いてほしい人には最後まで届かなかった。あなたを呼んでいるのはわたしじゃない。塔の中で聞こえるのは、意識体の残った記憶。この塔では共感性が高まるから」
何の答えにもなっていないが、引っ掛かりを覚える。
それはクラウドも言っていた事だった。
この塔は、なぜあるのか?
「そういうふうに出来ているの。この世界が出来た時からね。まったく――誰が考えたのか分からないけど、趣味悪いわよ」
と言って、円環の上で何度も跳ねる。
何をしているのか分からず、いぶかしげに思うが――やがて気が付いた。
おそらく、踏みつけているつもりなのだろう。
「さっきのは塔が異物を洗い流す自動防衛に引っかかったのね。生きたままで死んだ経験が出来るなんて、あまり良いことじゃないけれど」
言っている事がよくわからない。
「あなたはまだここに来るべきじゃない。無意識に溶ける事ができないのはその証拠。あなたは普通の方法では還る事ができないの。然るべき時に、然るべき方法を探して。それに――ほら、ディオが探してるわよ」
最後だけ、困ったような顔をした。
ディオ?
なぜ、あなたがディオの事を知っているのか?
「まだ、足りないの。だから、はやくわたしを見つけて」
疑問には答えず、彼女は背を向けた。
世界が色彩を失くして行き――
ぱちりと目を開いた。
いつまでも眠っていたいような惰眠とは違う。
固い地面に横たわっていたせいで、体中のあちこちが痛む。
かすむ視界を押し開く。
一瞬――見えた物が理解できなかった。
目の前に塔の上部が見える。
分からなかったのは、月の塔に黒々と影が落ちているためだった。
裏側から見るだけで全く違う物に見える。
背後を振り返ると、茫漠たる濃い紺碧の空と灰色の大地が目に入る。
荒野だ。
自分はいつの間にかひとり崖の上に倒れていた。
・
傍からうめき声が聞こえた。
慌てて背後を振り返る。
「あれ……? 外?」
砂地に肘をついて身を起こしたクラウドが、不思議そうに呟いている。
彼も無事だったようだ。
見ると他にもよく見知った姿がある。
慣れ親しんでいると言ってもいい。
「ん……何があったんだ?」
「ここは塔の前、か?」
ディオとレオナもそれぞれ起き上がり、疑問を口にしている。
塔に入った全員がこの場に集っていた。
なぜか、涙が落ちた。
ディオがこちらを見て、ぎょっとした声を出した。
「なんで泣いてるんだよ? なんかあったのか!? どっか怪我したのか?」
最後は心配そうな声へと変わった。
安堵に身体の力が抜けてしまった。
旅人たちの疑問を全て呑みこみ見下ろすのは、大きな月。
***
塔は湖の中心で変わりもせず、そこにたたずんでいる。
水は流れ続けるのだろう。
これからも、ずっと。
「なぁ、俺たちとはぐれた後で何があったんだよ? いきなり光がばぁーんとなって、気づいたら外とかあり得ないだろ? の割にお前ら妙に落ち着いているし……なんか隠してねぇか?」
ディオがさっきからしつこく聞いている。
こういう所は鋭いのだ――自分がこっそり街で買ってきた菓子を食べた時もそうだった。
それに、少しだけ閉口する。その度に言葉を濁してごまかさなくてはならないのだから。
リリスという少女の事は内緒にしていた。
というよりも――説明ができないくらい分からないことだらけだった。
彼女が何者なのか、彼女が自分に何をして欲しかったのかも。
自分と同じ顔をした彼女は、呼んでいるのは自分ではないと言った。
その誰かは、この先にいるのだろうか。
答えに窮していると、横から助け舟が入った。すっと肩に手を置かれたと思えば、
「君には話しても理解できないから止めとくってさ。バカには何いっても無駄だから」
「あんだと! つか、てめぇがどっかに行ったのがそもそもの始まりだったんだろうが!」
クラウドが肩をすくめて言った皮肉に、ディオが食ってかかっている。
また長い口喧嘩になりそうだ。
彼が言ったことも自分の胸の内にだけ秘めておくつもりだった。
彼が旅に加わった理由が、本気で単なる好奇心なのだとしても。
塔で助けようとしてくれたのは、事実だ。
荒野で、彼はこっそりと耳元で囁いた。
「いなくなった時、君が信じてくれて嬉しかったよ。僕は嘘を吐く事の方が多いから、信じられることはそうそうないから」
先には長い長い荒野が続き、星々が地平線に沈む。
レオナが地図を見ながらうなっている。
「湖を越えてしまったなら――人が多く集まる場所を目指すのが順当だろう。荒野を越えるとカナンという都市国家がある。そこならば情報も集まるだろう」
その言葉に従って、夜が明け次第に出発する予定だ。
地平線が明るく、薄赤色に染まるのを見て、リリスの言葉を思い出す。
『まだ足りないの。はやくわたしを見つけて』
彼女はどこにいるのか。
自分はいったい何者なのか。
「君さあ、はぐれた後ずっと心配してたんだって? 本っ当、君って兄バカだよね。あんまり度が過ぎると嫌われるよ? ああ、もう嫌われてるか」
「だれが兄バカだよ? それより縁もゆかりもない奴についてくるストーカーの方が気持ち悪いっつーの」
「ふぅぅぅん、言うじゃないか」
相変わらず額を突き合わせている。
レオナが嘆息した。
もう彼女は手を出すつもりはないようだった。
これは自分がふたりの口論が殴り合いに発展しないうちに止めなくては。
考えを物思いから現実的な方面へ切り替え、皆の所へと駈け出した。
世界には、朝が訪れつつあった。




