第2話 豊穣の角
一度だけ、と決めて振り向く。
今まで、自分の家だった場所が、遠く、ひどく小さく見える。
家族がいる場所。昨夜まで自分が眠っていた場所。
皆を起こさないように小さな声で、さようなら、と呟いた。
***
果てなく続く翠色が、まるで広い海のよう。
丈の短い草原は風が、その大きな腕で撫でるに任せている。
薄暗い空からは大きな月がゆっくりと横切り、逢瀬を夢見る乙女を見守る。
悲しみを背負った者たちを癒すための眠りをもたらす。
――豊穣の角
季節に似合わない冷たい風が頬を撫で、目が覚める。
誰か。
誰かに呼ばれた気がした。
地面に置いたランプに足がぶつかり、危うく傾きかけて、慌てて拾い上げる。まだ大きな月が出ているため辺りは明るいが、夜になるとランプがなければ足元すら見えない。
嘆息をして、石に座り直す。立て掛けた杖もついでに直すと、からんと乾いた音が鳴り、近くにいたネイタルが首を傾げた。
ネイタルとは四足歩行で蹄を持つ生き物である。体格は大人よりも大きく、長い毛から遠目からは黒い毛玉が歩いているように見える。ずんぐりむっくりした体格で動きは遅いが、頑丈な身体と雑草を食べるために特別な餌が必要ないために多くの農家で畑仕事の傍ら、家畜として飼われている。長い毛は衣類に、乳は食料品になる。たまに近くの市に持って行き、肉類や酒と交換することもできる。
月の光を受け、白い花が揺れる。
天頂に留まっている月を眺め、嘆息する。
やっと半日くらいは経っただろうか。
緑の丘、風が心地よい。今いる牧草地帯から家までは半日かかり、さらに街までは半日以上かかる。
足元の花々は白い花をつけており、いずれ赤い実が生るだろう。種が多いが、甘酸っぱい実は牧草地帯のちょっとした楽しみである。
ネイタルたちが点々と草原に散らばり、思い思い好き勝手に草を食んでいる。
モウ、と鳴き声がたまに聞こえる程度の静けさだ。
ネイタルの世話と言ってもこうして道を間違えないように丘まで連れて行き、帰りに先頭を歩き小屋にまで帰るだけ。あとは彼らが主のように草原で自由にふるまう。力仕事や修行がいらない、子供でもできる簡単な仕事だ。
ただ――難点を挙げれば、どうしようもなく退屈なのだ。
牧者には天使が見える事があるという。たったひとりで長い間作業をしていると幻覚を見ることがある、という揶揄だ。それくらいすることがなく退屈なのである。
とはいえ、仕事中にうたた寝をするわけにはいかない。気を引き締める意味で青い草の匂いを思い切り吸い込み、顔を上げた。
見晴らしの良い丘からは、自分の家までが見える。小さな畑とネイタルを飼う、赤い瓦の小さな家が草原に埋もれるようにして建っている。
この国は高低の差が激しく、風は西から、川は東から流れてくると言われている。川から運ばれてきた砂や土が堆積し、三日月のような地形を作っているのだ。
東から西にかけての丘は椀のような窪地になっており、そこに町がある。もし上空から全体を見渡せば、山と緑の木々で囲まれた庭のように見えるだろう。
斜面に開いた洞窟からは鉱物が産出し、それが農具や家を建てる建築材となる。その道具を使って畑を耕し、家を建てる。
食べ物や日用品はほとんどネイタルが補ってくれる。
豊穣の角、と他国からは呼ばれているらしい。肥沃な大地と豊富な資源、豊かな食べ物と何の不足もない。
月が昇り、やがて落ちる。
人々は畑を耕し、ネイタルの世話をする。
そういった、平和な、変わる事のない日常が続く。
ネイタルたちが思い思いに柔らかい草の中にまろんでいる。あくびをかみ殺していると、麓から誰かが来るのが見えた。
滅多にないとはいえ、泥棒や野犬の類がいないとは言い切れない。自分ももちろんだが、体が大きく動きのゆっくりとしたネイタルが狙われることもままある。
畑もあるとはいえ、農家の食事や衣類などの生活のほとんどはネイタルに頼りきりだ。反対に暮らしの要であるネイタルがいなくなれば、この国での生活はおぼつかない。
その動く財産であるネイタルを奪われれば、生計を立てていくのも厳しくなる。稀なことではあるが、それを防ぐのもネイタル番の仕事でもあった。
一瞬、体を強ばらせたが――すぐに安堵し、杖を下ろした。
やってきた顔が見知ったものだったからだ。
「うぉーい。お疲れさん。昼飯持って来てやったぞー、感謝しろー」
手を激しく振りながら簡素な服を着た青年が丘を登ってくる。適当に歩いているはずなのだが、傾斜のある丘を楽々と登っている。普段から足腰が鍛えられている証拠だ。
彼は、この一家の稼ぎ頭であるディオだ。
愛想のある顔つきで面倒見が良く、自分の事を何かと世話を焼いてくれている。
普段はネイタル番の自分とは違い、畑に出ているはずなのだが。
表情が見えるくらいまで近づいて、やっと彼が苦笑しているのが分かる。
ディオは持っていた籠を前に差し出した。
「お前さ、弁当持ってくの忘れたろ。ネイタルどもにメシ食わせに行って、自分がメシ食い損ねるとか。笑えねぇよ」
素直に礼を言って受け取る。そういえば、今朝は寝坊をしたので慌てて置いたままにしていたようだ。
籠を片手に持ち、ネイタルの一匹が、頭をすりよせてくるのを撫でてから、群れの輪から離れる。手ごろな石を見つけ、その上で籠を開いて包みをほどく。
「お前な……本当にネイタルにだけは人気者だな」
明るい茶色の頭を掻きながらディオが苦笑した。
中身はパンとネイタルの乳のチーズ。それと、芋を潰して湯に溶いたスープ――パンは固いので汁物につけなければ、とても食べられたものではない。スープにはたっぷりと香草が入っていて、冷めても食欲をそそられる。それに、甘い匂いの漂う樹果がひとつ。
決して豪華ではないが、空腹時の食事は身に染みた。
昼食に舌づつみを打ちながら午前中に畑であった話を聞く。それが終わると次は他愛もない噂話や家の愚痴になる。
止められさえしなければ、いつまでも話しているのではないだろうか。そう思うほどにディオの話はいつまでも尽きない。
と、雑談に紛れて、ふいにディオが話題を変えた。
「しっかし、信じらんねぇな。いや、お前が来てさ、本当に助かってんだけど……」
言いにくそうにもごもごと続ける。いつも明快な彼にしては珍しい。
首を傾げて促す。
言おうか言うまいか、しばし悩んでいたようだったが結局は観念して続けた。
「さすがに川から流れてきた時は目を疑ったわ、マジで。普通、川から流れてきたら化け物かなんかだと思うだろ」
だって、川からだぜ? と半ば呆れたように言う。
――助かっているにしては随分な言いようだ。
そう口を尖らせると、茶化すような軽い調子に戻る。
「ま、お前にゃ俺とは違ってネイタルにやけに好かれるっていう特技があるからな。これはもうネイタル使いになるしかないだろ。だって、あのじゃじゃ馬どもが素直に言うこと聞くのってお前くらいだぜ?」
あまり嬉しくない誉め言葉をかけた後、月が頂点から下りかける空へ目をやり、重い腰をあげた。
「んじゃ、そろそろ仕事戻るわ。だりぃけど」
と立ち上がって来た時と同様に丘を降って行く。気が向かないのか、ふらふらと身体を左右に大きく振りながらゆっくりと歩を進めている。
そろそろ自分もネイタルの世話に戻ろうと立ち上がると、ちょうどディオがくるりと振り向いて大きな声を出した。
「お、そうだ。明日は町に行く日だからよ。今日みたいに寝坊すんじゃねぇぞ」
俺が困るから、と言い、やがて姿が豆粒ほどに小さくなり、丘を越えたところで見えなくなった。
空を見上げる――ついやってしまう癖だ。真っ暗な空に大きな月だけが浮かんでいた。
一日は、月が昇るのと沈んでいく時間で計られる。今は半分を過ぎたところである。大きな月が沈むと、今度は小さな月が天を横切り、また大きな月が昇り――と繰り返す。それが昼夜の違いだった。
月をじっと見つめていると、真似をするようにネイタルが首をもたげ、低い鳴き声をあげた。
それに唱和するように、次々に仲間が加わり――最後には大きなうねりとなり、鈍い鐘のような音が草原に響いた。
家は、元は父母とディオの三人家族だったのだが、自分がやって来て四人になった。そのおかげで、より小さな家がもっと狭くなったらしい。
無理やりに改築して付け足した二階部分は大きく歪んで、今にも崩れそうになっている。それがすなわち、自分とディオの部屋なのだが、自分たち以外に重いものが少ないせいで今は自壊を免れていた。
ネイタルを飼っている他に、小さな畑を持っているだけの小さな農家だ。もともと戦争ばかりの隣の国から移民してきた一家だ、と両親から聞いた事があった。豊かで平和なこの国が気に入ったのだという。
もっとも――自分は隣の国から来たのではないという。
それほど前でもないが、自分が川の近くで倒れていたのをディオが見つけたらしい。拾われて以来、ネイタルの世話をし、畑を耕し、家族と同じように生活してきた。
両親の事は本当の親のように思っている。
ディオの事も家族と思っている。
この国には何の不足もない。食べ物も、生業も、家族までも。
だが、ディオは、たまに外の国の話をする事があった。
畑を耕す事が好きではない事は隠しているつもりらしいが、周りの誰もが気づいている。
ちょっと前まで、食事中にも町へ行く途中にも畑を耕している時さえ話題に出す時があった。さすがに外国嫌いの父に大目玉をくらって控えるようにしたらしいが。
自分は――別にこの生活に不足を感じた事はなかった。農作物は自分の家で食べる分だけを作ればいい。
しかし、それではどうしても足りない物がある。
その農作物を効率よく作るための道具、新しい服などの嗜好品も含めると人間の欲望にはきりがない。
そのため、こうしてたまに町に行き、生活用品を買いに行く。交換する品には事欠かない――しっかり世話さえしていれネイタルも麦も取れなかった事はない。肥沃な大地と枯れた事のない清水のおかげだ。
かつては父の仕事だったが、いつの間にか自分たちが手伝うようになっていた。
今は雨季でもないので、暖かで穏やかな日が続いていた。
そのせいで朝に起きるのがどうしても難しいのだった。
朝は地平線から月が昇るので自然と辺りが明るくなる。反対に地平線に月が沈んだら夜だ。季節によって違うが、基本的に昼夜はほとんど等しい長さである。
月が昇ってすぐには明るくならないが、丘の上に出る頃にはこちらをとっくに追い抜いて、空の高みから見下ろしている。
丘の上の平地のすぐ横には斜面があり、谷と言っても良いほどの角度である。昔にこの道から転がり落ちる事故があったらしく柵が設けてあり、斜面を這うように緩やかな道が作られている。
道には草が刈られ、歩きやすいように石が取り除かれている。人の手で整備された道である。
その道を、荷台を引いて進むネイタルの毛を撫でながら、歩く。
上質の織物のような肌触りの黒い毛は冬になると顔をうずめて眠りたくなるほどだった。手作りの荷台なので、車軸から少々危うい音がするが、なかなか頑丈にできている。父の、お手製の物だ。
結局、寝坊したのはディオの方だった。
「だからよー、お袋にあれほど起こしてくれって言ったのによー」
ぶつぶつ言いながら街道を歩く。荷物が直しても直してもすぐにずりおちてくるのも気に入らないらしい。
さっきからこればっかり言っている。
「『寝坊するアンタが悪い』だぜ? 寝坊するから頼んでるんだっつーの」
袋の中身はネイタルの毛と、乳を加工したものだ。乳は加工しなければ重くて運べたものではないし、反対に毛はこれから染色するので何も手を加えない方が喜ばれる。これらと、日用品類や果物類を交換するのである。
「オイ、なに笑ってんだよ? いつもの寝坊キングはおまえだろーが」
荷台を挟んで反対側から目ざとく見つけられて、あわてて顔を下げる。
愚痴るディオとネイタルを引っ張りながら歩くと、やがて大きな道へと出た。
窪地の市場を中心とした町は、まるで川が行きつく湖の中心のようだった。道はまっすぐ続いている。途中で、幾方向からも道が合流していくが、結局行き着く先は同じだ。
町は、鉱物が取れる山を中心に成り立っている。食物と、食物を作るために必要な道具を作るための鉱物があれば、生きていく上で困ることはない。
働き続けている限りは、生活は続く。
生活をするためには、人が集まる。
町は、その中心地だった。
町に到着すると、荷台を町の門で預け、荷物を担いである建物へと向かった。
店に入ると、賑やかな音が耳に入る。激しく流れる水にも似たしゃらしゃらという響き。河川ならぬ、貨幣の波が擦れ立てる音である。
仮に、貨幣の海で泳ぎたいと言ったら罰が当たるだろうが、それが出来てしまうほどの量の通貨が奥には積まれている。
建物の中には円形のテーブルと椅子がいくつか置いてあった。わざわざ円形であるのは、お互いに平等という意味。お互いに公平な取引をする事を信条としている証のようなものだ。
この店は売り物を売っているのではなく、持ってきた商品を貨幣と交換する店である。皆、組合と呼んでいた。
もちろん、特別安く売りたいとか、特別高く売りたい商品ならば話は別となり、当事者間で値を付ける事となるが、商売の間には組合を通す事が普通である。
早い話が、荷台一台分のネイタルの毛と、同じだけの量の果物と、どれくらいが等価なのかがわかりづらいのだ。どちらもその時々に価値があり、常に価値は変化する。そのために、商品をまとめて値段を付ける組合があるのである。
もっぱら利用するのは価値に疎い農家と職人がほとんどだった。職人もここに来れば素材が適正な価格で手に入り、情報に疎い農家が安く買い叩かれる事もない。
商品と貨幣を交換し、買い取った商品を必要としている者に売り、そのさやを利益として受け取るのである。組合は、職人と農民が大半を占めるこの国では珍しい、商いを専門にする職であった。一方で、土で手を汚さない、汗をかかずに金を動かすという陰口を叩かれる事もある。
皆、気さくに軽口をたたき合っているが、真贋を見分ける目が必要な重要な仕事だ。
店には同じ顔ぶれが今日も揃っていた。
「よぉ!」
「もう昼だぜ? 今日も寝坊かよ」
こちらを見て、挨拶を交わす。生まれた時から出入りしているディオは当然としても、何度も出入りするうちに新顔の自分もすっかり顔なじみになっていた。
挨拶を返し――しっかりディオが寝坊したという事を言っておいて、一番年配の男に交換に来たことを告げる。
「ああ、いつものな。ちょっと待ってろよ」
と、店の奥に貨幣を取りに行き、しばらくしてから大きめの袋を抱えてくる。
「今、ちょうど婚礼が多くてな。ちょうど加工乳の値が上がってるとこだ。ってことで今回は多めにつけといたぜ」
もう何度となく訪れている得意先であるので、こういったこともたまにある。素直に受け取り、礼を言っておく。
組合を通さずに直接に仕入れる職人も多い。時にはより高く買い取ってくれる者も探せばいるだろう。
そちらへ顧客を取られないように配分するのも彼らの匙加減である。
「へへ、運がいいよなぁ。ま、こっちも助かってるんだけどな」
にやにや笑いながら鼻の下をこすっている。食品が本当に値上がりするのはここからだ。そのため心当たりのある得意先からはなるべく多く手に入れておきたいのだろう。
「ほら、そっちで勘定している奴がいるだろ? あいつも今度結婚だとよ。見せつけてくれるぜ、まったく」
そちらへと視線を向けると、話題になっているのを感じたのか、奥で貨幣の数を数えていた若い男がにこやかに手を振る。
「じゃあ、親方も新しく結婚すればいいじゃないすか」
それを聞いて、隣で貨幣を確認していた見習いらしき青年――交換は確認のために基本二人体勢で行われる――が、きょとんとつぶやく。
刹那、その頭に拳骨が落ちた。
「ばっかやろう! 母ちゃんにどう申し開きするっつうんだよ!」
「いってぇ……」
目の前に星がちらついているらしく、目に涙を浮かべる青年に、胸中で同情する。口は災いの元と言う事だ。
見習いは仕事を任せてもらえるまでは親方の下働きをする。下働きと言っても店の掃除や荷物運びが主で、初めは貨幣にすら触らせてもらえない。確認作業を通して目と耳と鼻で品物の価値を覚えるのである。
また、顧客との駆け引きも必須だ――少なくとも大事な親方の機嫌を損ねているようでは、とても気難しい職人たちの相手など務まらないだろう。
これならば何年かかる事やら、と先が思いやられる。
苦笑しながら持ってきた乳や毛束を表の荷台から運んでもらうように頼み、やっと仕事が終わって息をつく。
ディオはディオで、別の席に座って、世間話に興じているようだった。
ここは、やってきた客に軽食と飲み物を出す店も兼ねている。そのカウンターに腰掛けながら周囲に集まって来た顔見知りと話し込んでいる。
話題も豊富であるし、元々の喋り好きであるディオはこういった場所ではいきいきとしている。
自分も用事が済んだので、待っている間に何か頼もうかと思案する。
と、耳をすますと、くだらない冗談などに紛れて、ちょうど話題が変わるところだった。
「ところでよ、アランの奴はどうしたんだよ? あいつ、俺が貸してやった酒代忘れてんじゃねぇの?」
アランとはディオとよく話していた組合員の事だ。数年前によその地方から来たらしく、親方に弟子入りして組合員となった。
年が近いために話題が合うのか、以前母と三人で買い付けに来た途中、姿をくらましたと思ったら数人で飲んでいる所を見つけた事があった。
その時、怒る母に上手くとりなしていたのが彼だったと記憶している。
「ああ、あいつか」
その名が出た途端、一様に顔色が曇る。
貨幣所全体の空気もどんよりとした重苦しいものに変わった。
「なんだよ、辛気臭い顔しやがって。あいつ、また嫁さんと喧嘩でもしたのかよ?」
ディオが驚いた顔をした後に、冗談めかしたように一笑した。
皆、お互いをうかがうように顔を見合わせていたが、そのうちの一人が気まずそうにしながらも話し始めた。
「こないだの仕事帰りにな、飲みに誘ったんだが、断られてよ。先に一人で帰ったんだ。嫁さんの待つ家にな。で、そこで別れて、そうしたら――こう」
手の平をぱっと開き、ひらひら振って見せる。
「行方不明さ」
「あ? 行方不明?」
がちゃん。
椅子が擦れる音に続いてガラスの砕ける破砕音が響いた。
死人すら振り向くだろう大きな音に自然、皆の視線がそちらへと向く。
「違う。彼方に呼ばれた」
ひとり、カウンターで酒を舐めていた老夫がぽつりとつぶやいた。
着古した粗末な服で、肘や膝などの薄くなった部分にはてかてかした艶すら出ている。
「彼方に呼ばれた人間は、家族も故郷も全てを投げ出しても行かなければならない」
元職人だろうか――引退した後の貯金をすべて酒代へと変えてしまう者も少なくはない。仕事への誇りと伝統の役割を失ってしまえば、皆そうなって行く。
「爺さん、またその話かよ」
うんざりしたような口調で若者のひとりが声をあげる。
そんなものは微塵も聞かぬ、と言わんばかりに老人は酒と食べ物の腐臭に満ちた息を吐く。
「世界の始まりにして世界の終わり、地の果てにある楽園。だが、早まるな。そこ至るのは彼方に呼ばれた者のみ、選ばれた者以外は声を聞く事すらできるまい」
一息に言いきって、乾物を砕くような呼吸音が響く。痰が詰まっているのだろう。
その間にうんざりしたように、組合の男が口を挟んだ。
「知ってるよ。職人の間で言われてる迷信だろ。そもそも隣の国のその先なんて、俺らは興味ねぇよ。ただ毎日メシ食って寝られればいいんだからよ」
なぁ? と周りへ同意を求める。
皆が頷く中、ディオだけは曖昧な顔をしていた。
老人は黄色く濁った眼を虚空へと向けた。すでに周りも目に入っていないのかもしれない。
「彼方――ラグナは人を新たな世界に導く。わしも早く呼ばれたいものだ……」
そう言ったきり、机と自らの髭とに顔をうずめ、いびきをかき始める。眠ってしまったらしい。
組合を後にして、さらに必要な買い出しを済ませて、町を出発した頃にはとっくに月も沈んでしまっていた。
荷台にかけたランプの火に、ぼうっと道が浮かぶ。
なるべく暗くなる前に帰りたかったが、ネイタルの足に合わせるしかないため、仕方がない。
「なーんか、やなもん聞いちまったな……」
行きより少々軽くなった荷物――大量の売り物が減って、果物や日用品が増えた分――を横目に眺めながら、ディオが呟く。がたごとと揺れる荷台に乗り、ネイタルの手綱を持ちながら肩をすくめた。
行きと帰りの重さのバランスを取るために、帰りは荷台に乗る事にしている。あまり頻繁に重さが変わるとネイタルも驚いて動かなくなってしまうのだ。この、帰り道だけは荷台に乗れることは、農家の特権だ。
しばらく、彼らしくもない様子で考え込んでいた。が、すぐ軽い調子で笑った。
「ま、新しい世界ってあれか? 夢が叶う的な。だったら早いとこ、俺に組合からお呼びがかからないもんかね」
明るい笑い声に、つられて笑い返す。
草原はどこまでも続き、終わりも見えない。
山の上に出た小さな月が、柔らかく辺りを照らす。
「この国からずっと離れた所にある国では、連日連夜、一日中劇を見て過ごすらしいぜ。俺もそういう国に生まれたかったっていうか」
ディオが暇を持て余して、先ほどからずっと喋り続けている。これも、前に聞いた外国の話の繰り返しである。それでも忍耐強く歩いているうちに、道の傍らに農家がちらほら現れてきた。
もうすぐ家に着くだろう。
すでに家の灯りが見えるくらいの距離だ。
その時。
何か。
何かが、ささやいた。
『…………』
耳を澄ますと、風の音のようにも、人の声のようにも聞こえる。
呼吸が速く、同時に浅くなっていく。
かすれた響きは、すぐにでも消えてしまいそうなものだった。
だが、それがなかった、とはもう言えない。
月に浮かぶ染みを一回女の横顔と覚えてしまい、それ以外に見えなくなってしまった時のように。
『…………』
「あ? 何でいきなり黙るんだよ。ここは笑うところだろ」
直前まで、ネイタルにちょっかいをかけて一日中追いかけまわされていた話をしていたディオが、怪訝そうな声を出した。
彼には聞こえないのだろうか。
熱狂するような鼓動と、胸が詰まるような悲しみ……。
ふいに理解する。
呼んでいるのだ。自分を。
かっ、と目の裏が熱くなる。
だが、誰が?
『…………』
脳裏を過ぎて行くイメージに追い立てられ、頭痛が止まらない。
誘われるように、足が自然と動いた。
堪えられずに、荷台から飛び降りる――実際は転げ落ちるの方が正しいくらいだったが。
「おい!?」
ディオの焦った声が聞こえる。
派手に荷を落とし、転落する。土の味とともに、鉄の匂いが鼻の奥に広がった。
が、すぐに地を掴んで立ち上がると、歩き出す。
どこに?
――声が呼ぶ方に。
ネイタルが、突然荷物が軽くなったことに驚き、いななく。
そのまま歩を止めると、荷車が軋んだ音を立てる。
バランスを崩して斜面を落ちなかったのがせめてもの幸いだろう。
それを目の端に止めながらも、気に止める事さえ思いつかない。
何もかもが遠い異世界の出来事のようだった。
熱にうかされたように繰り返す。行かなければ。
夢の中のような頼りない足取りがもどかしい。
指先に痛みを感じる。爪の中に土が入り、地に突き立てた時に折れたのだろう。
「どうしたんだよ、いきなり!?」
ディオが混乱したように叫び、荷台から降りる。
羽交い絞めにされるが、半ば突き飛ばすように彼を振りほどき、歩を進める。頭の中で鐘のように鳴り続ける。行かなければ、行かなければ、行かなければ……
だが、どこに?
扉の木目を辿るのにも飽きてしまい、天井を眺める。
埃っぽさと、鉄と土と黴の匂いに鼻がむずがゆくなる。
あの後、騒ぎを聞きつけてやって来た父とディオのふたりがかりで押さえられたが、それでも歩を止めようとしなかったために、こうして閉じ込められているのだった。
発狂したと思われなかっただけ、ありがたい方だろう。
放っておくと、どこに行ってしまうかわからないため、こうして隔離されているのだが、父も母も、悪意があったわけでは決してない。
納屋にはあまり入った記憶がなかった。
農具入れとは違う、古くなった道具や、家具などをしまった掘ったて小屋である。
この場所は、組合の儲け方と同じだ。入る物は多々あっても、出る物は滅多にあるわけではない。入った回数だけならば多いのだろうが、滞在した時間を全て合わせてもたいした数になるまい。
総じて、物置などはそういうものだろう。
今はもう、気分は落ち着いていた。どこに行こうとも思わない。
――あの声ももう聞こえない。
鍵は表からしっかりかかっている。
これだけは覚えているのだが、重量のある、しっかりした錠前であった。中から出るには扉を開けるよりも壁に穴を開ける方が手っとりばやいに違いない。
とは言っても、もちろん物置きに壁に穴を開けるような道具など置いていないし、万が一にあったとしても、壁に穴を開けるような重労働が自分にできるわけもない。伊達に、子供でもできるネイタルの世話など任されてはいないのである。
脱出の方法を考えるということは、結局、あきらめるしかないということを確認する作業に過ぎない。
そもそも、家を出てどこに行こうと言うのだろうか。
考える事にも疲れて、近くの干し草に背を預けると、眠気がこみ上げてきた。
そういえば、今日は町に行った日だった――朝早く寝坊もせずに起き、一日中歩きづめでくたくただ。しかも暴れた後に納屋に閉じ込められるという、いらないおまけまで付いてきた。
昼間に組合の面々と会ったのが、はるか昔のことのように感じられる。
次にいつ会えるかは検討もつかない。
そもそも自分はどうしてしまったのだろうか。
そして、自分はどうしたいのか。
答えの出ない質問を自分に向けながら、目を閉じる。
荷物と農具に埋もれながら、眠りにつく……。
しばらくうつらうつらとまどろんでいたのだが。
「ぉぃ……おい!」
こつん。
軽い衝撃と声とで、半ば見ていた夢から目を覚ます。
虚をつかれて、周りを見渡す。
小石が上から降って来た。
天井付近を見上げて、あ然とした。
格子状になっているはずの小窓からディオの顔が覗いている。
「親父とおふくろはお前が彼方に呼ばれちまうんじゃないか、って心配してんだよ。いつまでもガキ扱いしやがって」
吐き捨てるように言った。
それから、縄を下ろした。実を収穫した後の麦を干し、より合わせた木の枝ほどの太さの縄である。ネイタルを繋ぐための頑丈な物だ。
これで上がってこい、ということだろうか。
「おい、『これで上がってこい、ということだろうか』とか思ってないよな? それ以外になんのために俺がここにいると思ってんだ? 見舞いか、コラ」
図星だった。
ロープに手をかけると、しっかりとした手応えがある。上で固定されているようだ。素直に壁の窪みに足をかけ、縄を伝い登る。
地上に出た時には、月が昇り切り、仏頂面をしたディオが待っていた。
窓を塞いでいた板をつけ直した後、有無を言わずに腕を掴まれ、引っ張られて行く。その間は、ふたりとも無言だった。
ただ、手のぬくもりだけが感じられた。
結局、納屋の近くから離れ、斜面の上まで着いてしまった。
「親父とお袋はまだ寝てる。昨日、お前の事でさんざ心配してたからな。このやろ、急に歩きだしやがって」
開口一番、ディオが呆れたように呟いた。
頭の後ろで手を組み、世間話のように続ける。
「昔からそういう事はあったんだとさ。親父の爺さんが、一緒に暮らしてた奴が消えちまって。目撃者を頼りに捜しに行ったら、道なき道をふらふら歩いているのが見つかったらしい。爺さんの顔を見て、そりゃあ嬉しそうにしてたそうだ。別におかしい所なんてなかった」
顔をしかめ、淡々と事実だけを語っていく。普段はお喋りな彼にしては珍しい。
「だが、連れ戻そうとしたら、半狂乱に暴れられたらしくてな。その日は仕方なく近くの家に泊ったらしいが、次の日にはまた消えちまった。途方に暮れたらしいぜ――後は西に向かった姿を見たっていう話を聞いただけだってよ。爺さんはそのまま諦めて家に帰ったとさ。別にめでたくもねぇけど、彼方に呼ばれるっていう事だけは本当にあるって行ってたぜ」
振り向いたその顔には――隠しているつもりだろうが――一言では言い表せない感情の色が見える。不安や心配や好奇心に腹立ち、まるで様々な染料で織りなした布のようだった。
「あの親父が深刻そうな顔してたよ。――お前、彼方に呼ばれたのか? 組合で聞いた話が本当だとすると……行くしかないんだろうな」
諦めたような呟きに、頷く。
もう頭痛はなく、ただ遠くに恋焦がれるような胸の痛みだけが残る。
狂おしいほどに、ではないが確かにどこかに行く事が求められている。
ずっと納屋で考えていた事だった。
誰が自分を呼ぶのか、それを確かめるために。
「そか。お前がそう言うなら、俺も止めねぇ。ていうか、やっぱ止めるって言ったら殴ってたかもな」
その足元には町まで行く時に使う荷袋を二つ用意してあった。それを指摘すると、
「ああ、とりあえず金と着替えと、何日分かの食糧。他になんか入れようかと思ったけど、荷物は軽いほうがいいだろ、たぶん」
と、ディオがそのひとつを担ぐ。
しかし、なぜこんな準備がすぐにできたのだろうか。
「んなもん、ずっと前からにしてたに決まってるだろ? そりゃ、隣国に行くための準備。最後まで言わせんなよ」
そう、照れくさそうに言った。
「だいたいおまえさぁ、荷物も持っていかないで歩いてくなんてバカだろ? 一日中ぼーっとしてるわ、寝坊はするわ、メシ作れば塩と砂糖間違えるわで……ほっといたら三日で死ぬな。賭けてもいい」
断言されてしまった。なかなかひどい言われようだ。
すると、ディオはそっぽを向きながら続けた。
「ほっとけないから、俺もついて行ってやる。おまえの行きたいところまでな。だから、気の済むまで行こうぜ」
予想外の言葉に、息を詰まらせた。
てっきり自分だけが行くものだと、思い込んでいたのだった。
しかし――しかし、両親を残すわけにはいかないはずだ。
――だから、ディオはここに残る方がいいのではないだろうか。
言うと、彼からは嘆息と共に言葉が吐き出された。
「あのなぁ……あの親父とお袋だぜ? まだまだ現役バリバリ、どころか俺らより頑丈そうだろが。口癖だろ、『最近の若いモンは軟弱でしょうがない』って」
確かに、と似てない物真似に少し笑ってしまった。
ほれ、とディオが差しだした自分の分の荷物を受け取る。荷物は彼にしては珍しく、きっちりと荷物が整頓されていた。
小さく礼を言うと、なおさらむずがゆそうな顔になった。はっきり言って面白い。
「おら、とっとと行くぞ! とっとと! 早くしないと、親父とお袋が目ぇ覚ましちまうから!」
と、ディオに急かされる。
早足で先を歩いている彼を追い掛けようとして、立ち止まる。
一度だけ、と決めて振り向く。
今まで、自分の家だった場所が、遠く、ひどく小さく見える。
家族がいる場所。昨夜まで自分が眠っていた場所。
皆を起こさないように小さな声で、さようなら、と呟いた。
***
ごとごとごとごと――
今日も、昨日と同じように良い天気だ。空は昼間と言えど薄暗いが、暖かな風が翠の匂いを運び、なんともいえず心地よい。旅に出ても持ってきてしまったネイタル飼いの杖の先の鐘が、からんからんと子守唄のように鳴る。
「おい」
ごとごとごとごと――
音はほどよい揺れとなって、ゆりかごのように身体を優しくあやす。何か他にも聞こえた気がしたが、まったく気にならない。
このままずっと眠っていたいという誘惑に、あらがえそうもなく、また、あらがう気もない。まどろみながら夢の中へと運ばれる。その前に。
「オイ、寝ぼけてんじゃねぇよ。起きろっつの、こら!」
ばさりと顔に何かがかぶさり、顔中にちくちくと何かが刺さる感触で咄嗟に傍らの杖を掴んで慌てて飛び起きる。息を吸い込むと、乾燥した暖かな匂いが鼻いっぱいに広がった。
――いきなり声もかけないなんて、ひどいじゃないか?
顔に乗せられた干し草を頭から払い、恨めしげに後ろを振り向くと、ディオは肩をすくめた。
「あ? 何度も声かけただろ。お気楽に夢の世界に旅立ちかけやがって。だからその場所ズリぃって言ったんだよ」
荷台の横の、台とも呼べないわずかな隙間に収まっているディオは、呆れたように半眼で告げた。油断するとすぐに荷車から落ちてしまうため、御者席のすぐ後ろのように眠れるような環境ではないのが癪なのだろう。舌を出す彼に非難する視線をもう一度送ってから、背を正す。
後ろ向きに遠ざかって行く道が、まるで一筋のリボンを束ねたように曲がりくねり、途切れずにずっと続いている。
「もうすぐ街に着くだよ。二人とも、見張りおつかれさん」
やり取りに笑いながら、御者席に座った荷車の主が声をかけた。人の良さがそのまま現れた、月のように真ん丸な顔と目をした恰幅の良い農夫だ。顔や体形がどことなく車を引く二匹のネイタルに似ている。普段は畑仕事に精を出し、時たま街へと物を売りに行く――どこかで見た景色にそっくりだった。
持ち主にばれないように、こっそりとため息をつく。荷の見張りをする代わりに荷車に乗せてもらうという条件だったが、まさか旅に出てすぐに家業と同じことをするとは思っていなかった。やはり、生業とは簡単には逃れられないものらしい。
と。
「のわぁ!?」
ふいにがくんと大きく揺れ、一瞬身体が浮き上がってから後ろ向きに倒れる。荷台に背をつくと、干し草が背中と首筋に当たり、針のむしろのような違和感に襲われる。同時にディオの驚いた声も耳に入った。
その逆さまになった世界に、大きな白い円環が映る。草を刈った後のようなそれは、故郷などとは比べ物にならないほど大きな街だった。
「ほれ、あそこがあんたらの目的地のアスモデイだよ。これから下り坂で揺れるでな。しっかり掴まっておくんだよ」
「そういうことはもっと早く言えっつの……いっつつ。コブが――」
呑気な農夫とは正反対の低い声でぼやき、ディオは跳び上がった拍子にぶつけた頭を押さえた。涙声で本気で痛そうなのは気の毒だが、なぜだか腹の底から可笑しくなってしまう。
揺れる荷台にそのまま横たわり、空を見上げた。
浮かぶのはまるで笑っているような三日月だった。
旅は――予想外に――畑仕事をするよりも、ずっと体力が必要だった。
初日は調子の配分が下手で、いつの間にかに街道脇の大樹の下で眠ってしまっていた。
その時は運よく朝を迎えられたが、野犬や物取りにあっていたらと後にはぞっとした。
明るくなる前に歩き始め、暗くなった後も引きずるようにして距離を稼ぐ。そんな方法を取っているうちに、何度月が昇り、やがて沈むのを見たかわからない。
一日中歩き続けてもまだ足りない。
そんな事は今までに経験がなかった――せいぜい遠出も、近くの町に行く程度だ。
その目的地があるのが、どんなにありがたい物だったかわからない。
夜になって町にいるならば運が良い――大抵は脇道で、草を枕にし、毛布を抱いて横になる事がほとんどだった。
それでも、疲れきっているために眠りは必ず訪れる。
最初のうちは足の痛みと格闘しながらの旅だった。
擦り切れた足の肉刺が治り切らないうちに新しい肉刺が出来るのも日常の事だった。
一歩ずつ足を進める度に火の上を渡っているようだった。
また、長い距離を歩いた翌日は、足が棒になったように動かない事もあった。
肉刺はやがて足の皮が厚くなって消え、夜には必ず足の筋肉をほぐす癖がついた。
「どうせお前の事だから、旅も淋しくなって一日か二日で終わっちまうんじゃねぇの」
こんな冗談を言っていたディオも、段々と口数が減っていき、やがては必要な会話しかしなくなった。
父の祖父の話では、彼方に呼ばれた友人を西の町で見つけたという。
たったそれだけの理由だが、東に行けば山岳地帯が連なり、やがては行き止まってしまう。
一方西には、町も豊富にあり、やがては国境へと至る。
目指したのは西。
旅を続ける理由は、自分にもよく分からない。
何かを守るわけでもなく、何かを手に入れたいわけでもなく、誰かのためでもない。
それでも、先へと歩を進める。
「ぷっはぁ、この一杯のために生きてるぅ!」
麦酒の泡を口の上に付けたまま、ジョッキをテーブルにどん、と置く。
その拍子に、机の上のグラスが倒れそうになり、危うい所を手で掴む。
こういう場に来ると俄然元気になるのだ、ディオは。
――出発した後も考えて、本当は控えて欲しいのだが。
「なんだよ、俺の酒が飲めねぇってのかよ〜!」
昼間から面倒な酔っ払いと化しているディオはさておき、テーブルの上に地図を広げた。
おおむね楕円形をしたこの国の全体の中に、いくつかの山と町の名前が記してあった。
その中でも地図の端、盆地の西端に存在している。
地図の中心よりもやや右にある故郷の町から始まり、通過して町と町を指で辿る。
地図上ではあっと言う間に終わったその旅を、半月ほどかけて歩いてきた。
この町の近くで、声を聞いた者がいるというのだ。真夜中に響く、遠い叫び声だという。もしかしたら、自分を呼ぶ声もそれではないかと思い、国境の町を目指したのだった。
そのまま国境を越えるかどうかは――まだ考えてはいない。
この町の近くには、生産と雇用を作り出す鉱山がない。にも関わらず、ちょっと故郷ではお目にかかれないくらいの人が住んでいる――規模はざっと数倍から数十倍は違う。大きな農場があるだけではここまでの町にはならないだろう。
この町は、様々な商品が集まる交易路となっているのだった。隣の国と最も近い町であり、地図上にはこの町の先には何も記されてはいない。横には、区切る線が素っ気もなく黒く引かれているだけ。茫漠とした異国との国境線の町だ。
酔いも早めに過ぎるタイプなのか、ディオが素面のような顔をして笑った。
「ここを過ぎれば隣の国、か。思ったよりも遠くに来ちまったな」
風が吹く場所。
一体どのような所なのだろうか。
そういえば、ディオが元々住んでいた国だったと聞いたことがあるのを思い出した。
「ん? あぁ、そうだな。俺は覚えてねぇけど。たしか戦争ばっかで飽き飽きしたからこっちの国に越して来たんだよ。なんか知らねぇけど、ずっと人がたくさんいて、でっけぇ建物があったらしいってお袋が前に言ってたような……」
ディオは懐かしむように木製のテーブルの表面を撫でた。
懐かしんでいるのは家だろうか――それとも、まだ見た事のない故郷だろうか。
思いを馳せるだけではそこに立つ事はできない。
まずは、準備をしなければ。
麦酒と果汁の勘定を済ませ、店を後にした。
旅支度と言っても、簡単な物だった。
保存食と水――あとはほつれを直すあて布や燃料などの雑品。
ただし――そこには路銀が許す限りという条件が付く。金と荷物の兼ね合いは旅の上での黄金律だった。
「はぁ? チーズ一個でんな値段するわけねぇだろ? 俺の地元だったら――」
「この町ではこれが適正価格だ。大体、二年物を買おうっていうのに素人が口出ししてんじゃねぇよ」
「いーや、これはぼったくってる。元・農家なめんじゃねぇよ。俺んちではなぁ……」
先ほどから延々と値切り交渉に明け暮れているディオだったが、その顔はいきいきと輝いている。
組合では正しい価格が決められている分、それほど利益が上がるわけではない。こうやって口先ひとつで成果が出るのが案外、楽しいのかもしれない。
そのおかげで保存が効く食品が手元にはかなりの安価で揃っているのだから悪い事ではない。
わざと水分を抜いた固いパンふた塊に、干し果物が両手の平ほど、芋を薄く切って植物油で揚げた菓子に、貴重な干し肉や高価なはずの岩塩は誰からもらったのだろうか――これらは全て、彼の戦利品である。
妙に食べ物が多いのが気になるが、ちゃんと鉱山用の頑丈なロープや多少の薬も交渉済みであった。
その荷物を抱えて表で待つのが、少々骨であるのがたまに傷だった。
とにかく、話が長いのである。
ひたすらに粘る彼の交渉力には頭が下がる思いである。色々な意味で。
この分だったら出発は夕方になってしまうかもしれない。欠伸をしながら街の活気に身を任せた。
この町では市場広場が中心となっているようだった。
主に活気の源となっているのは、商人による客の呼び込みだ。この町では、組合を通さずに鉱山労働者や農家から集めた商品を上手に売りさばく商人が多く見られた。
それにつられてか、職人やその家族たち、労働者やその家族たち、あとはまぁ、よくわからない人々とその家族たちが市場へと吸い寄せられていく。その様子は、甘い蜜を塗ったパンに群がる虫にも似ている。
やや離れた場所にはひときわ大きな赤い屋根群がそびえている。他の建物よりも頭ひとつ分ほどは飛びぬけているために分かりやすい。多数の使用人や財を抱える富豪の邸宅である。
人間の寿命は、それほど長くはない。その中で特に成功した者が財産を築く事ができる。
いつかは、と誰もが夢を見る存在だった。
人が集まるのと同時に――この街には妙に美味そうな物も多い。
甘く柔らかい小麦パンに、塩漬けにしてうまみを凝縮した肉、果ては蜂蜜と乳と小麦粉を混ぜ、果物を散りばめた焼き菓子まで。
以前、違う町の宿屋に泊った時に、朝食――柔らかいパンに、チーズと塩漬け肉を挟んだ食事――に感動した事もあった。宿屋の主人曰く、あり合わせの物を使ったまかない品だったらしい。
世界は、本当に広いものだ。
欠伸をしながら中心にある像――ここは広場らしい――の台座に腰掛け、蝶と戯れている猫を眺めながらディオを待つ。
と。
どどどど――がごっ!
突然、地響きのような音、ついで物を蹴散らすけたたましい音に、足を滑らせて尻餅をついた。
猫も驚いたように毛を逆立たせ、路地の裏へと逃げてしまった。
驚いて振り返る人、足を止めた人々など反応は様々である。
「なんだなんだ? すげぇでかい音しなかったか、今?」
店の中で交渉をしていたディオがひょっこり顔を出した。
その腕には手の平ほどの大きさのチーズがたくさん抱えられていた。
どうやら交渉は成功したようである。
「ああ、話してるうちに店のオッサンと意気投合してよ。いつの間にか嫁さんもらうっていう話にまで発展しかねなくて困ってたんだよ。って、んな事はともかく、ちょっと見に行こうぜ」
頷き、ディオの後を追って走り出す。
騒ぎの中心には人だかりが出来ていた。
が、その円はひどく大きい――どうやら皆、何かを遠巻きに見ているようだった。
ディオとともに人の間から顔を覗かせると、その原因がわかった。
中心地にいたのは、一匹のネイタルだった。
腰を上げ、地面を何度も踏みつけている。ひどく興奮した様子だ。町角の看板をなぎ倒し、樽の輪が曲がって砕けた板が散乱している。その樽に入っていたらしい芋の破片が足元にまで届いていた。
「あぁ、またか」
「ネイタルが――」
人の輪は、たまたま居合わせた人々か、騒ぎを聞きつけたやじ馬だろう。中には落ちていた芋を懐に拾って立ち去る人も見かけた。
その抜け目のなさに内心苦笑しながら、状況を見極める――要するに、ここにいても安全か否かの。
どうやら、ネイタルに関して何か騒ぎが起きているようだ。
多大なる恩恵を与えてくれるネイタルだったが、性格は意外に気難しい。通常は穏和で害を及ぼす事などほとんどないが、代わりに一度座り込んだら自分の気が済むまでは立ちあがらない。
それを苦心しながら家まで連れ帰るのがネイタル使いの仕事だ。
と、後ろのディオが大きな声を出した。
「なんかあったんすか? ネイタルのことだったら、こいつが詳しいっすけど」
前に出されて、衆目が一斉に集まる。
突然、何を言い出すのだろうか。
恨めしげにディオを見ると、小声で言う。
「いやぁ、ネイタルっつったらお前だろ?」
こういった、すぐ面白そうな物事に首を突っ込む性格は昔からだった。
しかたなく、人をかきわけながらネイタル飼いの杖を縦に持ち、進む。
人だかりの内側では年少の少年が、暴れるネイタルを見て腰を抜かしていた。ふくよかな赤い頬に、よほど驚いたのだろう、大きな目を丸くしている。
ネイタルの世話は力のない女子供が任される事が多い。
基本は簡単な世話とどこかに行ってしまわないように見張るだけだが、気に入られなかった場合には至難の業となる。
ネイタルに無造作に近づくこちらを見て、丸い目がさらに丸くなる。蹴られれば容易に腕や胸の骨など、折れるどころか微塵に砕けてしまう。それはネイタルの世話をしている者が一番よく知っている。
だが、ネイタルはきっかけをつかめずに、息を荒くしたままじっと動かない。からんと鳴った鐘の音に耳をわずかに動かすだけだ。
後ろまでよく見える代わりに、真正面から距離を詰められると戸惑ってしまうのだ。だから草原では後ろからは決して近づかない。
易々と近づき、興奮しているネイタルの背に手をあてる。すると、逆立っていた毛が徐々に落ち着いていく。
観衆の環の中に、水をくれないか、と声をかけて頼む。
しばらくして、恰幅の良い女性が大慌てで桶に入れた水を運んで来てくれた。桶をネイタルの前に置くと、意外に長い舌を出して水を飲みだす。その頃には黒曜石のような瞳から、凶暴な色は消えていた。
おお、とくぐもった歓声が響いた。
とりあえずは何とかなったようだ。
興奮して喉が渇いたのか、犬のように水へと顔を入れるネイタルを見て、ほっと安堵の息をついた。
落ち着いたネイタルを返し、あれやこれやと少年や店の主に礼を言われながら退くと、広場の端でディオが待っていた。
感心したように呟いている。
「さすがだな。お前、ネイタルに好かれる才能があるだけの事はあるぜ」
半ば本気で称賛しているらしい。
誰のせいで関わる事になってしまったのだろう。
危うく蹴られて怪我をしていたかもしれないというのに。
やや険悪に睨みつけると、なだめるように手を振った。
「あ、怒るなって。誉めてるんだぜ? マジで。いや〜すごいなぁ〜、さすが家でずっとネイタルの世話してた事だけはあるっつーか」
気の抜けたような声を出して、こちらの様子をちらちらと窺っているのを見て、噴き出しそうになった。あまりにわざとらしくて怒る気も失くしてしまう。
――まぁ、今さら言ったところで仕方が無いし、一応は許しておく事にする。
「お、大人の対応じゃん。ま、それはともかくとして、俺は俺で何があったのか調べてたんだぜ。この町ではネイタルの世話を専門にやってる仕事があるらしくってな。あのボウズはその見習いなんだってよ」
――それぞれの家で面倒を見ればいいのではないか?
大きな街では、そのような仕事が必要とされるのだろうか。
「いやいや、それがされるらしいんだって。いいか、まず朝に数件の家がネイタルを預ける。ネイタル使いは、普通に仕事をして乳や毛も自由にしていい。ただし、毎日一定の金をネイタルの持ち主に払わなけりゃいけない。だから実際は貸してる、って言った方が正しいんだろうな」
どこから聞いてきたのか、ディオの詳しい解説を聞いて、つくづく感心した。今までは、自分の家のネイタルは自分で世話をするのが当たり前だった。都会には変わった仕事があるものだ。
「で、怪我とかさせたら弁償はきっちり取られるらしい。所有してんのは結局、持ち主だからな。あのボウズもあの後、親方かなんかにこってり絞られるだろうな」
口にしながら、焼栗の皮も剥かずに食べた時のように、やや渋い顔をしている。家で父に厳しく仕事を監督されていた日々を思い出したのかもしれない。
それで――結局、あの場では一体何が起こっていたのだろうか?
「おおっと、話題逸れまくってたな。うん、それであのガキが今日も町を出て放牧地に行こうとした時に、ネイタルがいきなり暴れ出したんだとよ。ホントにいきなりで誰も原因がわからなかったらしい。誰に聞いても突然としか、な」
そこまで言って、肩をすくめた。
「それが最近はよくある事らしいぜ。なんか三日くらい前にも似たように店に突っ込んだとかなんとか」
ほれ、と顎で示す。
そちらを見やると、広場の一部分だけが廃墟になったように人気がない。
店の入り口が破壊され、床には赤い跡がこびり付いている。扉の木が真っ二つに折れ、木の繊維をむきだしにした無残な姿を晒している。
まるで、誰かが力任せに打ち砕いた様だった。
――あれを、ネイタルが?
「まぁ、信じられんけどな。俺もネイタルっていうとのんきに草食ってるイメージしかねぇし。にしても、ネイタル使いが仕事として成り立つんだったら、お前、ちょっくら働いてみねぇか? お前だったらネイタルに懐かれるだろうし、きっといい稼ぎに……」
無言で非難の視線を返す。
「はいはい、わかってますよー。ちっと言ってみただけじゃねぇかよ」
ディオは口を尖らせて肩をすくめた。
立ち止まっている時間はない。自分たちは行かなければならないのだ。
***
花の匂いがする。
丘に咲き乱れている白い花は、いつもネイタルを連れて行くときに目にしている馴染みのものだ。 種からあっという間に咲き、花の時期は長い。少なくとも――枯れているところはおろか、芽吹く時すら見たことがない。
五条の花弁を持ち、丸く愛らしい黄色の芯を持つ花が丘を這うように覆っている。
夜気は昼間と違い、涼しい風を運んでくれる。人々は眠りにつく頃に外を歩いているのが気持ちいいのかもしれない。子供のような優越感を冠のように戴き、誰もいない道を行くのがこんなに爽快だとは旅に出るまでは知らなかった。
「昔さ、夜中は絶対に出歩くな! ってさんざ注意されたんだよなぁ。眠りの精霊がいて一生帰ってこられなくなるとか。今から思い出すとアホくさいけど。俺、マジで信じて毎晩祈りながら寝てたんだぜ? 『どうか家の中まで来ませんように』って」
町を出てしばらくして、すっかり夜になってしまった。
国境への道はずっと同じような草原が続いている。緩やかな丘を絨毯のように花と草が覆い隠し、風が吹く度に頭を垂れて複雑な模様を織りなす。
噂では、声を聞いたのは真夜中であったらしい。
同道の者はいない。どんな命知らずの旅人ですら夜は盗賊を避けて宿の中で毛布をかぶる。ならず者か妖精かよほど寝ぼけた者でない限りはこんな街外れまで歩く酔狂はしない。
今日は満月のせいか、辺りもほの明るい。自然と足取り軽く、胸が高鳴る。
ディオの口もいつも以上によく回っているため、彼も同じ気持ちだろう。国境が近く、彼にとっては見たこともない故郷が目の前に待っている。気が高ぶってじっとしていられないのだろう。
それは自分も同じだ――もしかしたら自分を呼んでいる誰かがいるのかもしれない。狂おしいほどに胸の扉を叩く誰か。早く、と気が急いて自然と歩幅が伸びていく。
それをお預けのように先延ばしにする事などできなかった。
話題も尽きて、お互い沈黙してきた頃。
「うおっと!?」
ディオが驚いたように短く叫ぶ。が、飛び出してきたものを見て安堵の息を吐く。
草をかき分けて出て来たのは、一体のネイタルだった。まだ若く、大きさもそれほどでもない。背の高い草原に完全に紛れてしまい今まで気がつかなかったようだ。
「なんだよ、ただのネイタルかよ。もう、ビビらせんなっつーの」
などと言ってディオも鼻先を撫でてやっている。人間には低姿勢だが動物に対しては強気な態度を取る。尊大の典型に呆れた視線を送っているのにはディオは気がつかなかったようだ。
それにしても――と思考を切り替える。町を外れた郊外でネイタルに会うとは思っていなかった。どこかから逃げて来たのだろうか?
しげしげ遊ぶようにうねるネイタルの尾を眺めて、ふと気付いた。
くすぐったそうに首を振っているネイタル。その頭に控えめにそびえる二対の塔。
このネイタルには、角がある。
「……だから何だよ?」
不思議そうな顔をしたディオに、簡単に説明をする。今は時間が惜しい。普通、家で飼われているネイタルには角がない。何故かは不明であるが、昔に家畜化されるときに必要がなくなり、生えなくなったという伝説もあるくらいである。少なくとも、角がない方が普通である。
――つまり。
「じゃあ、これはよそ様に飼われてる奴じゃないってことか?」
月の光を、白銀に反射する角に触れながらディオが呟く。その視線が、後ろに向き――あ然とした表情を作った。
それにつられて背後を振り向く。
そこには、同じように角を白銀に輝かせたネイタルが、ずらりと待ち構えていた。
森から、道から、次々とネイタルたちが合流してゆく。
今も草を掻き分け一匹のネイタルが加わった。自分たちの歩いた道を辿り、緩慢だが確実について来る。
ネイタルたちの長く続く黒い列は、昔話で聞いた巡礼の修道士たちの列にも似ていた。
さすがにディオも奇妙に思ったのか、
「おいおい……こんなとこで特技発揮しなくてもいいからよ……。おまえ、うまそうな匂いでも出してんじゃねぇの?」
と、自分の背中に顔を寄せて匂いまで嗅いでいた。
それは引っぱたいて止めさせたが――それでも不気味な事に変わりはない。
「ま、何もしねぇんならほっといてもいいんじゃねぇの? 隣の国まで連れて行ってもいいだろ」
気楽に言うディオであるが、こんなにたくさんのネイタルを連れて行って餌をどうするというのだろうか。
ため息をついて見上げた紺碧の空を月が回る。そのおかげで時間を計るのに難渋はしない。
そろそろ日付が変わった頃だろう。
この丘はどこまで続くのだろうか。この先に自分を呼んでいる彼方はあるのだろうか。丘の景色には一切変わりがないように白い花が咲く。そのせいで、どこまでも続くようにも見える。
――この花は、なんで枯れることがないのだろう。
ふと、そんなことを考えたりもした。
さすがに足に疲れを感じ始めた頃、違和感を覚えて目を凝らす。
同じような丘の中に、数頭のネイタルたちが固まっている地点がある。
後ろについてきたものとは違い、こちらに興味すら持たず、ひと塊りになってある一地点へと一心不乱に群がっている。
「お。なんだなんだ? またトラブルか?」
さっきまで話の種が尽き、珍しく黙ったままでいたディオがさっそく食いついた。言葉とは裏腹に、刺激が欲しかったのか、心なしかわくわくしているようでさえある。
一足跳びに駆けていき、黒い毛皮の隙間を覗き込む。
まるで子供のような行動に苦笑いする。
が、ディオの後ろ姿がふらり、と後ずさった。
「…………え?」
その顔は、信じられないものを見たようにひきつっている。
――様子がおかしい。
二、三歩と下がったあと、その場に座り込んでしまった。
ただならぬ様子に、急いで駆けよって背をさすってやる。ディオはひどく青ざめ、その身体は震えていた。
「はは……おい、おいおい……」
笑いたくとも笑えない、そんな表情をしながら震えている。
訝しく思って、群れを見透かすように目を凝らす。よく見ると、黒の中に別の色が見えた。茶色に変色した塊りと、それを中心に伸びる紐状の物。細い白木のような棒は見事な曲線を描いている。
その正体に心当たった時、鼓動と呼吸が止まった気がした。
ネイタルは草が主食だ。特別なものではなく、草原のどこにでも生えている草なら何でも。だが、これは草ではない。
ぼろぼろの布切れは服のなれの果てだろう。散らばる茶色の糸状のものは食べ残した髪だろうか。塊りから覗く白く丸いものは、直視するなと頭の奥の直感が告げている。
服の残骸にからむ銀の鎖だけ、かすかに見覚えがある。
はっとして、足元を見下ろす。
そこの草むらだけ、黒い染みがついている。
ネイタルが草を食べるはずの臼状の歯で、肉を食っている。地に跪いて花でも食べるように、何度もむしっているのは――何と言ったか、名前が出てこない。
ディオの声がその答えを教えてくれた。
「アラン、なのか……?」
ぽつり、と呟かれた声で、やっと記憶の淵まで浮上した。アラン。町の交換所にいて、ついこの間失踪した――
「! おい……?」
ディオが異変を察知したように焦った声を出した。
周りを見渡すと、ネイタルたちも歩みを止めていた。
爆発しそうな心臓の音に追われるように再び走り出すと、同じくらいの速度で走る。まるで親の後をついて行く子どもたちのように、無表情な瞳でこちらを見返す。そうして、やっと悟った。
これは、見送りなどではない。
強いてそう言うなら――野辺送りだ。
息を切らして走る。
ネイタルの群れは、同じ速度で一定の距離を保って付いて来る。
草原を黒く染め上げる姿は、忍び寄る影に似ている。
「はぁ、はぁ――何だってアランの奴がここに――」
同様に丘を下るディオが、焦燥と口惜しさを滲ませて呟いた。
自分よりも数日前に町にいたのはアランだったのだ。彼方に呼ばれ、同じように旅をして同じようにここまで辿り付いた。
そして途中でネイタルに追いつかれ、あんな姿で旅を終える事になってしまった。
「そうだ――あいつを、埋めてやらなけりゃ――」
友人の最期を思い出したのだろう。
ディオは己の目元を乱雑にこすると、その場で立ち止まりかけた。
その袖を、ぎりぎりで掴んだ。
「なんで止めるんだよ!」
引き留められ、ディオは噛みつくように振り返った。完全に頭に血が上っている彼にかぶせるように言葉を吐いた。
なぜかはわからないが、ネイタルが人間を襲うというのなら、戻るのは死にに行くのと等しい。
――今は、とにかく逃げなくては。
「だからって……」
行けば、ディオまで同じような末期を辿ることになるだろう。
――そんなことは、絶対に認めない。
しばらく、じっと堪えるように目頭を押さえていたが。
「――悪かった。つい、かっとしちまった」
次に目を開いた時には白い歯を見せて笑った。弱々しく、空元気と一目でわかる代物だが、無理にでも笑顔を見せようとしている。
「どこまで付いてくんのかしらないが、とっとと撒いてやろうじゃねぇか! 牛に追われてってのが、俺たちらしいだろ!」
そのまま後ろを振り向かずに、ふたりで足を速めた。
自然と歩調が揃い、合図も必要ない。
お互いの息を合わせるのに言葉は要らない。記憶の限り、ずっと一緒にいたのだから。
ただ、歩幅を揃え、前へ走る。
花が踏みしめられ、呆気なくその儚い身体が散る。
草原の柔らかい草が足を遮るように絡みつき、無闇に体力が奪われる。
「あいつら、どこまで追ってくるんだよ!?」
ディオが荒い息を吐きながら悲鳴じみた声を出した。
辺りは月の光で明るいとは言え、走って逃げるにはやや心許ない。このまま朝まで追われ続ければ間違いなく途中で力尽きる。
だが、逃げるにつれて、徐々に諦めたように立ち止まるネイタルが出始めた。黒い行列も目に見えて数を減らしている。
これならば、と思った途端、ディオが焦ったように叫ぶ。
「お、おい!? ヤバい奴がいる!」
知らせの通り、ひときわ巨大な一体が群れを抜け、見る見るうちにこちらへと突進する。
辛くも道に倒れ込むようにして避けたが、さもなければ蹄に踏みつぶされていた。靴が地面に引っ掛かってつまづいたが、草の上に倒れ込んだために怪我はない。
「いってぇ……」
ディオも反対に逃れ、どうやら無事なようである。
手を地面につき、引きつった声を出している。
立ちあがろうとして、ひどく身体が重い事に気づく。がくがくと足が震え、動かない。息が切れ、肺が空気を求めてずきずきと痛む。
もう眠ってしまいたいと、全身が悲鳴をあげているようだ。
その声を押し殺し、ぶれる視界を必死に前へと向ける。
前方へと行き過ぎたネイタルが、もうこちらへと踵を返している。
アランの姿が脳裏に浮かぶ。
埋葬もされずに、骨が吹きさらしになった哀れな姿を。
足を突き動かしたのは、恐怖でも、怒りでもなかった。
欲求。
必ずそこに行きたいという頭の奥からの欲求。
意を決して立ちあがる。
これまでずっと持って来た杖を構える。
ネイタル使いの証である杖を、よりによってネイタルに対して振るう事になるとは。それなりの太さはあるとはいえ、あの巨体を杖で受け止められるかわからない。だが、やらねば。
狙いを定めた巨大なネイタルは角を構え、こちらへと突進している。
角に貫かれるのが先か、受け止めるのが先か。
交差する一瞬、手元を稲妻のような衝撃と音が貫いた。
間一髪だったが、受け止めると同時に手が痺れるほどの衝撃が走り、杖が弾きとぶ。間にあったが、力が足りなかったのだ。
そのまま仰向けに倒れながら、あのネイタルが再度振り返ってくるのが空隙を縫うようにして見えた。
踏みつぶされてしまう事を予感し、ぎゅっと目を閉じる。
ここで旅も終わってしまうのか――
が、いくら待っても、角は届かなかった。
「――! こんのっ!」
獣の匂いがする吐息がかかるほどの近くで、何かを振り払うように頭を振っている。ひとつずつが剣のように鋭く尖り、喉元をつけば一瞬でただの肉塊にすることができるだろう。まるで屠殺用の刀のようだった。
銀色に光る角をまじまじと見ると、半ばほどにロープがかかっていた。
そして、そのロープを辿ると、近くの大きな木へと結び付けられている。ネイタルはそのまま吊り上げられるように顔を上げ、悔しそうに息巻いた。
「はぁ――なんとか間に合ったか?」
木の上から、ディオの声がする。上から輪にした先を投げたらしい。
ネイタルが拘束に苛立ったように地面を引っ掻き、草と土が蹴り上げられる。
「へへ、鉱山で何年も使うようなロープだぜ? そう簡単に切れるか、バーカ」
とにかく助かった、と嘆息した瞬間。
「うおっと!?」
木が大きく揺れ、ディオが落ちてきて尻餅をつく。
どうやら怪我はないようだが、ひどく泡を食って目を見開いている。
「ま、マジかよ?」
ネイタルが暴れ、足を踏み鳴らす。そのたびに木が根から掘り起こされかけていた。身体の何倍も大きな大木の根が、芋のようにいとも簡単に地表へ暴かれていく。
もはや一刻の猶予もない。
「今のうちに逃げるぞ!」
ディオの声に頷きもせず、振り返らずに全速力で駆け出す。
草原の端で待ちかまえていた無数のネイタルたちが鳴き声をあげる。
それは、穏やかな時間の終わりを告げる晩鐘のようにどこまでもついて来て、悪夢のように鳴り響く。
いつも草原で聞いていた子守唄は終わり、それでも振り向かず、走る。
***
辺りが明るくなり始めていた。
遠くの煙はたなびき、一日が始まったことを告げている。
おそらく、町でパンを焼く窯だろう。
煙に吹かれ、小さな月は遠く霞む。
「はぁ、はぁ……」
川を渡りきったところで、大の字になって寝ころぶ。
お互いに、疲労困憊で言葉を発すことすらできない。
「おーい……生きてるかぁ?」
ディオが疲れ切った声で言う。
返事をすると、まったく同じ調子で続ける。
「なんなんだー……ありゃー?」
考える気力もない疲れきった頭で、ただ浮かぶことを告げる。
――強いて言い表すならば、本能なのかもしれない。
本来は草を食べるはずのネイタルが人を襲うなんて聞いた事がない。
あの町で聞いた噂も、彼方に呼ばれた人間がネイタルに食われ、今までにあそこで上げた断末魔の声だったのかもしれない。
あのネイタルたちは自分たちをあの国から出さないないようにしていた。自分が彼方に強く惹かれるように、ネイタルたちもそうしなければならない何かがあるのかもしれない。
どうして自分でもそう思うのかわからないが、そう感じた。
と、むっくりディオが起き上がる。
「いや、お前の言ってること、よくわかんねぇ」
紺色の空を遮って、ディオがこちらの顔を覗きこむ。
「ていうか、見てみろよ。ほら」
身を起こして、前を見る。
今まで続いていた緑が、境界線のように唐突に消えている部分がある。
果てのない草原が終わり、その先は灰色の大地に岩が転がっている丘陵が続く。空には城のような雲が立ち上っている。
胸の扉を外に開け放つような風に頬を撫でられ、今まで見たことがない風景に圧倒される。
「どうやら、俺たち、国を抜けちまったらしいな」
少し照れくさそうに、ディオが悪戯を見つかった子供のように頬をこすった。その短い髪を、風がかきあげる。
丘から吹いてくる風は、花の香りを草原に届けていく。その軽やかで寂しくて、しかし胸のすく景色に二人でしばし見惚れていた。
この道は、あるかもわからない彼方へと確かに続いている。
今ならそう信じることができる。どこに行くのか、まだ分からないが、歩いていられるのならば、きっと見つかる。
こうして風の吹いてくる場所すら、見つかったのだから。
(グリークロット第2話 了)




