第1話 戦ヶ原
海が――
海が、ざわめいていた。
波がひとつの生き物のようにうねり、ここでは小さな存在があることも許されない。
耳を傾けると、それは波の音などではなく、ひとつひとつ違う、声になっていた。
「世界の全てが、死んだ」
「どうやら、僕は、人を愛することができないみたいだ」
「俺が、前に何したっていうんだよ!?」
いくつかの顔が浮かんでは消える。
――どうして私の愛した人ばかりが去る?
「わたしの――故郷だ」
「そんな目の前の虚像に飛び付くような馬鹿といっしょにしないでくれないかな」
「ふぅん。嫌われてんじゃねぇの?」
声が次に何を言うのか、頭さえ知れば尾になにがあるのか、巻物を転がすように勝手に記憶から引きだされる。すべて、一回聞いた言葉なのだから。
渡された櫂は、ひどく重い。
漕ぐ、ということは拾う作業に似ていた。すくい上げたと同時に、手のひらからこぼれ落ちる水。同時に、底のない壺に水を汲むことにも似ていた。
「お前には、それだけの価値がある。そう私は決めた」
「全部、僕がやりたいって思ったことだからね、君は君で好きにすればいい。だけど、君には幸せになって欲しいかな」
「忘れないでいてやることくらいしか、俺にはできないからな」
明かりひとつない夜に立ちつくしながら、空を見上げる。
凍えた風が途方に暮れた頬を過ぎ去っていく。
たったひとりで、どこに行けばいいのだろうか。
答えはすぐに返ってきた。
――彼方へ。
――時は、巻き戻る。
***
――戦ヶ原
意識のはじまりは音、だった。少なくとも、思い出せる限りでは。
寄せては返す細波――波にもまれる砂のたてる小さな音。
周りには何もなく、足首までの高さの水面から萌え出でる葦が広がるだけだ。そのおかげで、つまらないほどに何もないのが分かる。人も、物さえも。
足の冷たい感覚に視線を落とす。雪解け水のような冷たさとは裏腹に、無数に顔を突きだす葦が燃えあがるように赤に染まっている。
水の色は紅。まるで内側に光を隠しているかのように不透明な暗さを伴う不吉な色。
その時、思い至った――自分が、直前まで何をしていたのかが分からないことに。
辺りは暗い。だが、彼方にかすかな光を見ている。
――行かねば、と思った。
ともかく、歩き出そうと足を引き抜いた。
ずぶり、と靴の中まで満ちていた水が滑り落ちる。
音を立て、水をかき回しながら進む。行くのを拒むように足は重い。代わりに考えは夢に浮かされているように軽く、ふわふわした思考が泡のように浮かんでは消える。
葦原はどこまでも続いているかに見えるが、実は水の面積の方がずっと大きいようだ。ただ、ところどころで葦が固まり、島のような群生地を作っているのだ。
恐らくこの植物を生かしているのだろう水は、果ても見えない。どこが水源なのかさえ予想がつかない。
空気は澄んでいた――足元の赤のせいか、息苦しさを感じなくもない。が、匂いもなく、むしろ涼しいくらいだった。
何より、空が奇妙であった。赤が渦巻き、どこかに吸い込まれてしまうような――。
と。
鳴き声がした。
脳裏に雷光のように閃く。
――嫌な予感がする。
葦の島の中心に何かがいる。同時に理解した。この葦原は、何かの住みかであり、何かがいるからこそ葦があるのだ、と。
水に足を取られそうになりながら、走る。予感に突き動かされて。
葦の中には小さくうごめくモノがいた。いや、あった、と言うべきか。肌は濡れたように赤く膜のように柔らかく、未分化の手足は水かきのようなひだが張り付いている。まだ開いてすらいない目や鼻を必死に動かし、ぽっかりと空いた口には歯がない。その口で、ただ泣いていた。
――追いつかれたら、アレに戻ってしまう。
それには、未完の手足や臓器の器官を緩慢に動かすものもいた。
それとは反対に、頭の他には足しかないものもいた。
不完全で、目も見えず、それでも必死に蠢くものたちの戦場なのだろう。
その中を、ただ駆け抜ける。
やがて、葦ではない、何か固いものを踏んだような感覚に変わった。柔らかな水に甘やかされた足の裏が擦れ、ひどく痛むが、それすらありがたい。
あと少しで、自分もどうなっていたかわからない。
やっと焦点が合い、背後を振り返る。すでに葦原は終わりだった。どれくらい走ったのか、見当もつかない。
息を吐きながら前を向く。渦巻く赤の果てに光が見えた。おもわず手をかざす。目を刺すように強い、白い光だった。
彼方の地平線に、沈みゆく光。
それを見て――訳もなく涙が溢れ、しばらく泣き続けた。初めて見るはずなのに、とても悲しく、懐かしい光景。
声が聞こえた。それは、自分の声だった。
――あそこに行かねば