第14話 はじめての女子トイレ
オレは響き渡る鐘の音で、目が覚める。寝ぼけ眼をこすりながら、机から顔を上げる。そんなオレのぼんやりとした視界の中に生徒達がそれぞれ帰宅の準備をしている姿が見えてきた。
どうやら、長く退屈な授業が今日も終わったようだ。今も鳴り響いているチャイムは終礼を告げているのだろう。
それにしても、授業がこんなに退屈だとは思わなかった。いや、想像はしていたのだ。しかし、ここまでとは思っていなかったのだ。
だって、そうだろう。まさか、字の読み書きだけで、魔術の「ま」の字もないような授業だけとはな。
……考えるだけ無駄だな。帰ろう。オレは眠すぎて回らない頭で、ノロノロと帰る準備をした。
誰かに見られている。オレは、帰宅の準備をしていると誰かに見られているような気がして、視線が来る方角を見てみる。すると、そこには何度もチラチラとオレを見ては、顔を俯けるニーナがいた。
彼女はオレと一緒に帰りたいが、誘う事が出来ずにモジモジしているのだろう。ならば、こちらから声をかけて上げるのが紳士の勤めだろう。
「ニーナ、一緒に帰りましょう?」
オレは彼女にそう声をかける。すると、
「リリア様、少し、いえ…あの」
彼女は何かを我慢するように体を少しふるわしている。もしかして、オレの勘違いだったのだろうか。
この震え方はおかしい。もしかして、ニーナはどこか体調が悪いのだろうか。オレは彼女が心配になり、尋ねることにした。
「ニーナ、そんなに苦しそうにどうしたの?」
最初はモゴモゴと口を動かしていたが、急にこちらを見ると、上目遣いに彼女はこう言ってきた。
「ひ、一人でトイレに行くのは怖いの。リリア様、ついてきてくれませんか?」
「え、女子トイレに私が?」
勘弁してください。オレは今まで屋敷などの共用トイレだけを使ってきた。やはり、男としての最後の砦はトイレだ。身体は女になろうとも心は男なのだ。そう思って、オレはニーナに断りの言葉を入れようと口を動かす。
「ニーナ、あなたも良い年なのですから、トイレくらい…」
ニーナはオレの言葉を聞くなり、徐々に涙ぐんでいく。おい、おい、オレは悪人かよ。そんな目で見ないでください。トイレくらい一人で行ってくれないだろうか。
「…………」
ニーナからの視線が痛い。涙目で上目遣い。まるで、オレが虐めているみたいじゃないか。
…無理、無理だ。オレには耐えきれない。
「……仕方がないわね」
オレはため息をついたあと、彼女とトイレに向かった。
そんなこんなで、オレは女子トイレにいる。まさか、オレが女性用のトイレに入ることになるとはな。
オレは自嘲気味にはじめて入る女子トイレを見渡す。そこは、男子トイレと違い、すべて個室になっていた。
その光景を見るだけでオレの中に激しい虚無感が襲ってきた。
なんか情けない気もするが、大切な何かを失った気もする。
「ここにいてもしかたがないな。トイレに入るか」
陶磁器で出来た美しい流線型の便座。いつも、男物の所にもある見慣れた便座だ。だが、その便座も、女子トイレに入っているせいか落ち着いて座れない。
「…女子トイレで用を足すのか。変態になった気持ちだよ」
オレがそう小声でやるせない気持ちを呟いていたら、隣の個室からニーナが突然に声をかけてきた。
「リリア様、そこにいますか!? 置いていってないですよね?」
「いるわよ。安心してニーナ」
隣の個室にいる彼女を安心させるためにそう声を出す。彼女はまだ幼い。とは言っても、そんなにトイレが怖いのか…
彼女がいったい何に怯えているのかわからないが、オレの場合はトイレにいるオレの存在自体が怖いわ。オレは便器の上に座りながらそんなことを考えていると、
「リリア様、誰かに見られてる気がします。気のせいでしょうか?」
また、隣の個室にいるニーナから声をかけられた。相当、トイレにいる事が怖いのだろう。彼女を落ち着かせる為に声をかけて上げよう。オレがそう思っていたら、
「…誰!?」
何者かに見られている。気のせいとは思えない程に強い視線を感じる。おかしい。こんな個室にいる時に視線を感じるなんて…
「私も誰かに見られているような気がします」
オレはニーナにそう返事をする。オレは返事をした後に首をかしげる。いったいこれは、どういうことだろうか。誰がこんな所を見ていると言うのだろうか。
「リリア様もそう思うのですか!? きっと、お化けです。お化けなんです! 学園の階段のお化けです〜!!」
「ニーナ、落ち着きなさい」
オレとのやり取りで、言い知れぬ恐怖にかられたのだろうかニーナが悲鳴を上げる。
「そうだぞ。落ち着くんだ。ニーナ」
すると、どこかから、そんな男の低い声が聞こえてきたと思ったらニーナの悲鳴がトイレに響き渡る。
「キャー、なにかが急に地面から!? 助けて、リリア様!!」
どうやら、隣の個室にニーナ以外に誰か入ってきたようだ。隣の個室から争うように激しい音が聞こえてきた。オレは急いで、個室から出て、ニーナがいるだろう個室の扉を叩く。
「鍵を開けて、ニーナ」
鍵が開く音を聞いたオレはその個室に飛び込む。
「ニーナ! 大丈夫ですか?」
オレが個室に入るとそこにはニーナが便器に座りながら、小さく震えていた。彼女が感じた視線の正体を探るために個室を見渡したが、やはりニーナ以外に誰もないようだった。
オレが感じた視線も実は気のせいだったのだろうか。オレがそんなことを思っていたら、
「リリア様、怖いです」
そう言って、ニーナがいきなり抱きついてきた。オレはそんな風に怯えている彼女を優しく抱きしめ返す。なんだか、セリアが子供の頃を思い出すよ。
セリアは怖い絵本を読んだ後に必ずと言って良い程にオレの寝床まで潜り込んで来たものだ。
「大丈夫よ。私が側にいるわ。ほら、落ち着いて」
オレはセリアにしたように彼女の背中を優しく叩く。そうした所、ニーナは少し落ち着いてきたのだろうか。顔を赤くして俯きだした。やはり、怖がっている所を誰かに見られるのは恥ずかしいのだろう。
そう思って、視線を下に向けると、白い物体が目に入ってきた。なんだろう。オレが訝しんでそれを凝視する。
「あ、カボチャパンツ」
オレの口から小さな声が漏れ出る。それを聞いたニーナは俯いていた顔がさらに下がる。彼女はまだパンツを履いていなかったようだ。道理で赤面になっている訳だ。
「ちょっと、個室の外で待っているわね」
オレはそう言って、個室から出っていくことにした。
…カボチャパンツを本当に履く奴がいたんだ。オレがどこか感慨深げにニーナのカボチャパンツを思い出していると、個室から彼女が出てきた。
「早く、教室から荷物を取って帰りましょう。リリア様〜!!」
オレを見るなり、彼女は涙目になりながら、そう言ってきた。
「そうね。そうしましょう」
オレは慈愛に満ちた目で、彼女を見て優しくあいづちを打つ。
「リリア様、見ましたね!? 見ましたよね?」
「な、何の事かしら?」
そう言うオレはキツく睨みつけてきた彼女から目を逸らす。
「もう、やだ。今日は最悪の日です〜!! このトイレは怖いし。もう帰りたい。そうです。早く教室に行きましょう!! そして、帰るんです。リリア様、行きましょう」
彼女はそう言うなり、オレの手を握って、駆け出す。
「リリア様、先ほど見た事は忘れてください。お願いします」
「何の事かしら、私は何も見ていないわ」
教室に向かっている途中で彼女が話しかけて来た。オレはそれに真面目な声音で返事をした。
「本当ですか? あ、嘘ですね!? 目元が笑ってます」
「大丈夫ですよ。他言しませんから…」
「何も大丈夫ではありません。う〜、見られちゃいましたか…」
そんなことを言っている彼女に優しく微笑むオレ。しばらくして、彼女はどこか憮然としていたが、やがて諦めたの無言になる。
オレ達はそんなやり取りをしながら、教室に向かった。向かう途中で、オレが何度も、トイレの出来事を思い出しては微笑を浮かべたことはニーナには秘密である。