かあちゃん
なにもかもが嫌になっていた。
どうせうまくやれないのなら、いっそのこと何もしないでさっさと終わってしまった方が、自分にも相手にも社会にも良いような気がした。
学校に通じる道すがら、ひとり、とぼとぼ歩く。
背後からあざけるような笑い声が聞こえて、びくりと肩をすくめると、風切り音の後に鈍い衝撃が頭をゆさぶった。
雷に打たれたかのように足を止めてとっさに手をやると、ぬるりとした感触が伝わってきた。
かつ、と地面にわずかに赤く染まった石が落ちる。
「ヒーット!」「あ、ずりぃぞ!俺も俺も!」
続けざまに飛んでくる小さな凶器に耐え切れず、ぼくは鞄を放りだしてしゃがみこんだ。
立て続けに視界に転がり込んでくる石を目で追いながら、必死に頭をかばう。
しばらくそのまま固まっていると「飽きた」という声がして、攻撃は止んだ。いつものことだ。
そっと顔を起こし、ゆっくりと立ち上がって周りを見渡す。もう誰もぼくになんか注目せずに行ってしまうところだった。
鞄に歩み寄って砂を払う。何度も乱暴に扱われてがたがたになっていた金具がついに悲鳴をあげて外れ、教科書や文房具が地面に散らばった。
慌てて拾い集めようと腰を屈め、手を伸ばしたその先で、誰かの靴が教科書を踏みつけにして歩き去る。
くっきりと足型ののこったそれを見た瞬間、今まで感じたことのない無力感に襲われた。
それで、そうだ今日でおしまいにしよう、と思った。
家へ引き返す足取りは、なんだか妙に軽かった。
狭苦しい玄関で靴を脱ぎ捨て鞄を放り出し、台所へ。
そこには食器を洗うかあちゃんがいた。
目的のものは・・・かあちゃんのでっぱった腹の部分。シンク下の収納棚におさまっているはずだった。
・・・取れない。
ぼくが台所の戸口でまごついていると、
「あんた、まぁた忘れ物かい?」
猫背気味の背中はこちらを振り返ることなくぼくに問いかけた。
ぼくはなにも言わなかった。
かあちゃんは肩をすくめてすすいだばかりの食器を乾燥機に置いた――あ、滑った。
がちゃん。
「あらら」
割れた。
かあちゃんはエプロンの裾をたくし上げて、よっこいしょと屈んだ。
「昔からあんたはそそっかしいからねえ、先を急ぎすぎていっつも忘れ物をする」
破片を片付けながら、何事も無かったように母ちゃん。・・・まったく、どの口がそれを言う。
細く水の流れる音。かあちゃんは節約のためとか言って少ししか蛇口をひねらない。でも閉め忘れて出しっぱなしなんて毎日だ。
でも本人はそんなの全く自覚していない。それどころかしまいには、
「だいたいねえ・・・。あんたは母ちゃんの息子のくせに、どうしてそうどんくさいんだい?たまには母ちゃんみたいにドシーンと構えてられないのかね?」
なんて言いだすのだ。
ぼくはたいがい呆れてしまう。
大体、ぼくはなんで朝っぱらからかあちゃんのお小言に付き合っているんだろう。
そしてそれが、どうしてこんなにも嬉しいんだろう?
しばらく考えていたけど、結局よくわからなかった。
でも、ひとつだけわかることがあった。
つまり、さっきまで本気ですべてを終わらせてしまおうとしていた自分が、本当にばかげていたってこと。
それだけ分かれば十分だった。
「ちょいと、聞いてるのかい?」
かあちゃんが怒ったように振り返って、ぼくの顔を見た。
その隠しきれていない優しい笑みを見て、思う。
まあ、確かにかあちゃんに似てどんくさいぼくのことだ。まだ忘れているものがあるかもしれないから。
もう少し続けてみよう、と。
ぼくは返事をする代わりに台所に背を向け、玄関に戻った。
「まーったく、仕方の無い子だねぇ・・・」
小気味よく続く水と割れた食器の触れ合う音のなかに、破片を片すかあちゃんの声が響くのが聞こえる。
その優しい声をBGMにしながら、ぼくは狭苦しい玄関で靴をはくと鞄をひっつかみ、大声で叫んだ。
「もっかい、いってきます!」
答えはいつもこうだ。
「あいよー、気ぃつけて行っといでー」
言葉は投げやりなのに、不思議と心があったかくなる自分がいて。
母親に似て単純なんだろうという考えがよぎり、堪えきれずに吹き出してしまった。
そして再び通学路。ぼくはずんずんと歩いていった。
ぼくはかあちゃんに似てとろくさい。
そしてもって、かあちゃんに似たのなら、何があっても動じない強さも持ってるはずだ。
だからまだ、大丈夫。
きっといつか、変えてみせるさ。
ほんのちょっとの感謝の気持ちを胸に秘めて、ぼくは戦場へと向かっていく。
お礼に久しぶりに肩でも叩いてやるか、と昔の感触を思い出してみた。
記憶の中では、今も変わらない暖かな背中が小さな拳にあわせて揺れていた。
読了ありがとうございます。
ほんの少しでも暖かい気持ちになって頂けたら嬉しいです。
母は偉大だと思います。
それでは、また。