一歩、そしてもう一歩(秋から冬)
月が変わって、アルバムが出た。仕事がぐっと混みあって、デートもままならない。
家に帰ると嫁さんや彼女が待っている他のメンバーが、正直うらやましい。
これが、結婚願望なのかねぇ。
知美は、会えないこの時間をどう思っているのだろう。寂しいとか、思ってくれているのかな。
夏に髪形が変わっって以来、ほんの少し雰囲気の柔らかくなった知美の姿を思い描く。
休日に会うときは、服装も少しラフになったよな。
一年前には、身を飾ることに遠慮がある様子だった知美。硬い蕾が綻んで花びらの色が現れてくるように、彼女に色が付き始めた。
オレのために綺麗になってくれようとしているなら。
言葉にならなくっても、その意思表示が嬉しい。
夏以来の、もうひとつの変化が、ライブ。
オレが誘わなくっても、
「行っても良いですか?」
って時々来てくれるようになった。デートができないから、余計にうれしい。
それに二回目に来た時の妙な雰囲気がなくなって、美紗ちゃんとも普通に話をしているようで、打ち上げにも参加できている。
そして、楽屋に来るたびに、
「朔矢さん、お手伝いできることないですか?」
って何かしら用事をしようとしてくれる姿が、こそばゆい。
一歩、知美が近づいてくれている。
この年の彼女の誕生日には、泊りがけの仕事が入っていて、電話でのハッピーバースデーだった。
〔昨日、”Hush-a-bye”を買ったんです〕
そんな報告をする知美の声。オレたち織音籠が売れるようになった転機のセルフカバーのタイトル。出たのは二年前、だったな。
〔古いのから買ってるっつってたっけ?〕
〔はい。あ、でも先月のは出てすぐに買いましたよ〕
だから、これで全部そろったと思います。
去年の年末にはまだ一度も聴いていなかった彼女が、CDを一枚一枚買い集めて、オレたちの音を聴いてくれている。
これも”好き”の意思表示だよな。
” Hush-a-bye”。おやすみ
その日も、最後に『じゃぁな、おやすみ』と言って、電話を切った。
いつになったら、お前に『おやすみ』と一つ屋根の下で言う日が来るのだろう。
お前の、気持ちはどこまで育っている?
それから三日後のデートで、知美の顔にまた少し変化があった。
アイメイク、だな。こうしてみると、綺麗な二重まぶただ。
またひとつ、綺麗な色がついたな。でもさ、そろそろ止まって欲しいって気も。
綺麗になっていくお前を、他の男に見せたくねぇよ。オレの前でだけ、綺麗でいて欲しいよ。
この日は、去年の冬にも行ったあの定食屋へと向かった。
料理を待つ間に誕生日プレゼントを渡す。
喜んでくれるといいけど。
柄にもなく、ドキドキする。
「開けてもいいですか?」
の声に、目だけで頷く。
包装紙を止めるテープがゆっくりはずされ、紙が広がる。中から出てきた薄めの箱を、掌に載せる知美。
すんなりした指で、そっとふたが開けられる。目を細めるように笑う。大人と子供の中間の、不思議な色気の微笑が浮かんだ。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「しまいこむなよ」
色気に当てられそうになって、慌てて中身のブレスレットを出すように言う。
『運動会の練習があって……』と、少し前の打ち上げのときに言っていた知美のほんのりと日焼けした左の手首に嵌めてやる。
「それなら、身につけれそうか?」
「はい。仕事中は外したほうが良いでしょうけれど、それ以外はずっとつけていられると思います」
左手首を目の高さに持ち上げて、キラキラした目で眺める姿に、やっぱり女の子だなと思う。
「お月様……」
三日月のチャームに気づいて、言葉がこぼれる。
「さすがに新月のデザインは無理だし。せめて、”月”な」
「ツキコちゃんですね」
そう、覚えているな。ツキコの名前はオレが由来。
知美。肌身離さず、オレの名前を身に付けてくれ。
嬉しそうな顔でブレスレットを眺める知美を、さらにオレが眺めて。
我に返ったのは、料理を運んできた女将さんの声で、だった。
今日のオレは豚の角煮定食、そして知美は太刀魚のホイル焼き定食。
「知美、魚好き?」
「はい。ブリはともかく。太刀魚は特に、あっさりしていて大好きです」
よし、”好き”が言えたな。
ひとつクリアと、心の中でチェックを入れているオレを知らずに、邪魔にならないように髪をまとめている知美。
あれ? ピアス?
手を伸ばして彼女の耳たぶを探る。うん、マグネットとかじゃなくって、ピアスだなこの手触りは。
訊くと、二週間ほど前にあけたと言う。
ポストの先が尖っているし、太さもあるから……。
「ファーストだよな、これ。まだ」
「はい」
いい加減触りすぎたか、首をすくめるようにしながら答えが返ってくる。
聞いていたらプレゼント、セカンドピアスにしたのにな。
知美の”初めて”つけるピアス。オレが選びたかった。
ひとつの可能性に気づいたのが、十二月に入ってからだった。
知美のピアス。
あれは、自傷行為がエスカレートしているんじゃないだろうか。
オレの価値観かどうかなんて言ってられない。止めないと。
『生きている実感』って、何だろうな? どうすれば持つことができるんだろうな?
去年の反省を元に、今年は互いが忙しい十二月のデートは避けた。今年もオレたちはクリスマスに、プラネタリウムの隣の駅のホールでコンサートがあるので、この月に初めて会えたのはクリスマスの翌日だった。
「お待たせしました」
コートのポケットに手を入れて駅前で待っていると、後ろから声がした。
「よう、お疲れ。仕事納めだって?」
「はい。今日で、今年の仕事はおしまいです」
清々したって顔で笑う。今年はカレンダーの関係で、仕事納めが早いらしい。
「大晦日までは実家に戻らずに、こっちにいるつもりですけど」
そんなことを話している知美の表情が、ふっと曇った。
仕事納めが早かった分、仕事が大変だったんじゃないだろうか。また、今年も無理をさせてしまったか?
空元気を見逃さないように顔を覗き込むオレに、パタパタと手を振りながら知美が言う。
「違うんです。お正月に実家に戻るのがちょっと気が重いものですから、両親に連絡するのが後回しになってしまってて。夏に帰らなかった分もお小言が来そうなので」
一人暮らしに慣れて、束縛を嫌に感じるようになったか。
親を『うぜぇ』って感じる高校生かよ。
「おっそい反抗期だな。水疱瘡と一緒で、大人になると重症化するな」
それでも、一度やったら免疫がつくんじゃねぇかな。
この日はロシア料理を食べに行って、ボルシチがトマト味かどうかなんて話をした。
今でも給食で出るらしく、
「トマト味でも、あれは食べますよ。子供の手前、残せませんし。大体、給食はゆっくり味わって食べる時間なんてないですしね」
こっちで牛乳をこぼしただの、あっちで言い争いになってるだの。
先生にとって給食は、空腹を満たすためでしかないらしい。
パタパタと子供たちの間を走り回りながら、合間にパンをかじっている知美の姿を想像した。
食べ終わって、コーヒーを飲んでいるときだった。
知美が、かばんから包みを出してきた。
「これ、クリスマスプレゼントです」
と、恥ずかしそうに言う。この春、オレの誕生日のあたりは、転勤でグタグタだった彼女にはプレゼントを貰えなかったから。
「うわぁ。用意してくれたのか」
用意してくれていた、そのことだけでも顔がニヤける。
初めての知美からのプレゼントは、手袋。
「朔矢さん、商売道具を大切にしてくださいね」
そんなことを言って、赤い顔でコーヒーに口をつける彼女に、俺からもプレゼント。
誕生日にやれなかった、ピアス。
手首でブレスレットのゆれる左手でケースを支え、右手で開けて中身を見た瞬間。
彼女は息を呑んだ。
わかるか? ”月と矢”だぜ。
「朔、矢。ですよ、ね?」
「わかったか? 」
「はい。ありがとうございます。これもずっと着けるようにしますね」
オレの名前をその身に埋めて。
お前はオレのモンだと。名前を書かせて。
店を出て、知美のマンションまでの道を歩く。
ピアスを選んでいるときから、考えていることがあった。オレの名を象るピアスにもう一つの仕事をさせたい。
人通りの途切れた夜道で立ち止まり、知美の名前を呼ぶ。オレの顔を振り仰ぐ彼女を抱きしめる。今まで知らなかった彼女の香りがする。
昔、小学校にいたモルモットの心臓の音のようにドキドキいっているのが、オレの体に直接伝わる。そういうオレも似たようなもんか。
「知美、すごくドキドキしているな。生きている実感が欲しくなったら、この心臓の音を思い出せ」
心拍は、生きている証だろ? 痛みにも、血液の温もりにも勝るとも劣らぬ。
「もう、自分に傷をつけるなよ」
献血も、ピアスも。綺麗なその肌にこれ以上の傷はいらない。
背中に回していた右手を彼女の右耳へ移動させてそっとピアスに触れながら、オレの名前のピアスに重要な使命を与える。
「傷は、このピアスで最後にするんだ。最後のこの傷は”朔矢”のピアスが塞いでやるから」
オレの腕の中で知美の頭がコクリと、うなずく。
「もう少し互いの気持ちが育ったら、指輪と一緒にもっと大きな”生きている実感”をお前にやるよ」
約束の指輪を受け取ったときには、お前は完全にオレのモノ。
「だから、これは、それまでの繋ぎな」
そっと、あごを持ち上げて、触れるだけのキスを。真っ赤になって、うつむく知美にダメ押しのひとことをささやく。
「ピアスを見るたびに、思い出せ」
このキスを。この胸の音を。
お前から”生きている実感”が消えることのないように。
言霊が、お前を縛るように。