決断
約束の土曜日までの数日間に、オレがしたことといえば。
相変わらず生活を音で埋めつつ、自分の体調を戻すことだった。
仲間たちに『飯、食ってんのか』って、言われているような無様な姿を知美に見せるわけにはいかない。”先生”の目はきっと、誤魔化されてはくれないから。
三食を意識して摂り、夜は楽器から手を離してベッドに入った。
後は、部屋の掃除。
覚悟のうえとはいえ、知美と別れ話をして平静を保てる自信がないから。知美さえOKしてくれたら、できれば自宅で話がしたい。
”常識”で考えりゃ、来るわけないんだけど。別れるつもりの男の部屋なんか。
約束の土曜日。少し早めに改札の前で待った。知美も約束より早い電車で着いた。
「おはようございます」
「おはよう。知美」
これが、最後になるだろう挨拶。今度こそは自分の空洞に持っていかれないように、知美の声をしっかりと心に刻む。
「どうする? 部屋に来るか?」
「いいのですか?」
黙って頷いたオレの横に、自然と並んできた。いつものようにその手をとることは許されない気がして。
歩き始めたオレの後を、相変わらず雛鳥のようにチョコチョコついてくる。
この姿も見納め、か。
独りで帰すことになるだろう帰り道のために、要所要所で目印を教えながら歩く。
彼女の現在の勤め先と雰囲気が似ているらしいから、何とか迷わずに帰れるか?
「ここな」
玄関を開けて、彼女を通す。
「お邪魔します」
部屋に上がった知美は、物珍しそうにキョロキョロしている。
別れ話に来たんだろうに。相変わらず、好奇心にあふれた子供みたいな表情だな。
「古くってビビッたか?」
お茶を淹れるためのお湯を沸かしながら、笑いがこぼれたのが自分でもわかった。
オレ、いつから笑っていなかったっけ。
ローテーブルの前に座った知美は、目元を緩ませながらゆるく首を横に振った。
「そんなこと、ないですよ。でも防音、大丈夫なんですか?」
「かろうじて? 音を出さない工夫はしているし、マナーも守ってるからな」
この数ヶ月、マナーの存在が忌々しかったのは、ナイショで。
湯の沸いた音に、ガスの火を消した。
日本茶の入った湯飲みを二つ、テーブルに置く。
お見合いの席で淹れたお茶を思い出す。あの時は、コイツ、結局飲んだっけ。
「いただきます」
「どうぞ」
これで最後になるだろうオレの淹れたお茶を飲んで、ふっと息をつく知美を、ただオレは。
黙って眺めていた。
組んだ手のうえにあごを乗せた姿勢で眺めているオレの顔を、少し間の開いた右隣に座った彼女が湯飲みを置いて見返す。
目が合った。
じっと見てられなくって。でも、見ていたくって。視線が、彷徨う。
「答え、をもって来ました」
知美の言葉に、目を閉じて顔を背ける。
次にくるだろう衝撃に備えて、全身に力が入る。
ひとおもいに
オレの息の根を
「朔矢、私と結婚してください」
聞き違い、だよな?
都合のいい白昼夢、だよな?
目は開いたけれど、聞いた言葉が信じられなくって、知美のほうを見ることができない。
右腕に知美の手が触れたのが判った。
組んでいた手を解いて、そっと左手で知美の手に触れる。
変わらぬ、ひんやりとした細い指。
オレの指先に、金属の感触が触れる。
ブレスレット。着けてくれているんだ。
そっと彼女の顔を見る。目が合った。
「いいのか? そこまで飛躍して」
「わたしの”決断”は、これです」
「本気で?」
「はい。朔矢のそばに、います。これからもずっと」
立てひざをして知美のほうを向く。彼女も体をこちらに向けて、まっすぐオレの顔を見て笑いかけてくれた。
ひざでにじり寄って、手を伸ばす。力の限り、知美を抱きしめる。涙で、視界がグジャグジャだ。
「待たせてしまって、ごめんなさい」
「いいや。ありがとう。ありがとうな」
ごめん。そしてありがとう。
彼女の鼓動が聞こえる。
それにあわせるように、オレの胸も鼓動を打つ。
オレの空洞が、キレイに埋まった。
モゾモゾ動く知美に、腕の力を抜いた。力が強すぎて苦しくなったか。
「悪りぃ。かっこ悪いところを見せちまった」
余裕なさ過ぎだな。選択を間違ったって思ってねぇかな。
浮かれすぎている自分が恥ずかしい。涙の跡も恥ずかしくって、右手で目をこする。
「いいえ。そんな朔矢を見せてもらえて、うれしいです」
「そう?」
「はい。きっと未熟な私には、見せてもらえなかった姿でしょうから」
知美の肩に置いたままだったオレの左手に、猫の子のように頬擦りしてきた。
ちょ。待て。
自制心が。
暴走しそうな自分に慌てて、手を引っ込める
「ごめんなさい」
赤い顔で、うつむくように知美が謝ってきた。
「ああ、怒っているんじゃないからな。勘違いすんなよ」
劣情を抱いてしまった疚しさに、彼女から目をそらす。
「ケジメだけはちゃんとつけたいから。あんまり、煽んな」
部屋で話す選択は間違ってたな。
顔洗って、頭冷やしてくるから、
外に、飯行こうぜ。
駅前まで戻って、サンドウィッチショップで昼食にした。
「ピクルスは多めで、オニオンは抜いてください」
「マスタードは、無しでお願いします」
『初めて来た』と言うわりに堂々と、自分の好みを主張しながらセミオーダーのサンドウィッチの注文をする知美を眺める。自分の分の注文もしながら。
席について、食べ始めた知美に
「オニオン、嫌いか?」
と訊くと
「辛いと胸焼けがしますから、無いにこしたことはない、くらいですね。マスタードも」
「じゃぁ、サンドウィッチ食えねぇだろうが。嫌いなモンは言えっつうの。また、オレに流されたな」
知美がよくやるように目で叱ると、涼しい顔で言い返された。
「いいえ。ファストフードは頼めば、マスタード抜いてくれるのですよ」
と。どうやら、小学生の間では常識なんだそうな。”常識”なんて、そんなあやふやなモンだよな。
食べながら、ざっくりと互いの経済状況を話し合った。
「ここ半年、俺一人暮らす分にはプラマイゼロくらいの収支かな」
必要最小限しか使ってないから、むしろプラスだと思うけど。
まじめに、通帳見てねぇや。取り崩しはしてねぇから、許してくれってことで。
「じゃぁ、私の収入を合わせたら十分ですよ」
「この状況がどのくらい続くかで、この先変わってくるけどよ」
「贅沢をしなかったら、何とかなりますって。家賃とか光熱費とかは、単純に倍にはならないですし」
大丈夫、と、こちらを安心させるように笑いかけてくる知美がまぶしく見えた。
傷ついて飛べなかった朱鷺が、見事に羽ばたいた瞬間を見たような。
自分で、選んで決めるってことは、こんなに人を強くするのか。
半年の回り道は、きっと。
オレたちの人生にムダにはならない。
次に考えなきゃならないのは、互いの両親への挨拶。
十二月になったら、また通知表の季節になる。
「できれば、それまでに済ませますか?」
「予防接種みたいに言うな。って、最近はやってないだろうな?」
そう言って、注射を打つジェスチャーをして見せる。
「注射は最初からしてません! 人聞きの悪い。献血と注射を一緒にしないでください」
怒った知美の顔に、ホールドアップをして、互いに顔を見合わせて笑う。
「大丈夫。もう、していませんよ。約束どおりピアスを最後にしました」
そう付け足しながら、変わらず耳元で光る”朔矢”のピアスを指差す。
オレ自身きつかった、この半年。よくがんばったな。
ねぎらいの気持ちで彼女を見つめる。
感じ取ってくれたのかな。知美の目がなでられた猫のように細くなる。
食べ終えてから互いの実家に連絡を取り、知美の実家は来週の土曜日。オレの実家はその翌週の日曜日。そんな予定になった。
一週間の猶予の間に、オレは髪の色をダークブラウンに変えた。
さすがに、ゴールデンレトリバーに例えられるような明るい色の髪はまずかろうと。RYOは、綾さんの実家で、『髪切って、出直して来い』って言われたらしいし。
RYOの結婚式以来のネクタイを締めて、知美の実家へ向かう。
違和感あふれる親子の会話の本拠地に。
東のターミナルで待ち合わせて、北向きの路線に乗る。
知美はオレの髪色に、仕事の心配をしてくれたけど。今のところ、織音籠の仕事はないし。って、自分で言ってて、悲しくなるじゃねぇか。
知美は、”朔矢”のピアスを着けてきていた。オレの髪も”朔”の色だ。
「きっと霊験あらたかですよ」
そんな知美の言葉に、彼女のピアスに触れる。
”朔”の月。オレたちに加護を。
最寄り駅から、さらにバスに乗って知美の実家に着いた。思っていたより距離があった。これ、通っていたんだよな、一ヶ月ほど。
知美が深呼吸をして、オレの顔を見てから玄関を開ける。
「ただいま」
「いきなり玄関を開けるなんて。チャイムくらい鳴らしなさい」
いきなりだな。お小言が降ってきた。
そして、ワントーン、声が高くなった。
「まぁ、原口さん。遠いところまで。さ、どうぞ上がってください」
見事。おばちゃんの、社交辞令。
先制パンチを食らったような気分で、知美と顔を見合わせる。
ヤレヤレ。
居間に案内された。
声の変わってからのヴァージョンのブライダルCMがテレビで流れていた。
「はじめまして。知美さんとお付き合いをさせていただいている、原口 朔矢と申します」
「どうも。知美の父親です」
互いに自己紹介をしてから、点いていたテレビが消された。立ち上がりもしない彼に、歓迎されてない感じがする
なんと言っても、常識を重んじるオウチだし?
母親が、紅茶を入れて持ってきた。
「今日は、結婚のお許しをいただきに参りました」
父親の座るソファーに母親が座るのを待って、口を切る。この席の割り当てもな、自分たち夫婦がソファーで、オレが肘掛け椅子。オレの右に座る知美は、肘掛もついてないし。
オレたちは客じゃねぇってわけだ。娘とその家族って扱いならよ。四の五の言わずに認めて欲しいもんだが。
「それは、うちの会社に入るという意味で良いのか?」
「いいえ。俺は、このまま音楽を続けます」
それは、見合いのときに断ったはずだろ? もしかして、敏子叔母、言ってねぇのか。
父親が紅茶に口をつける。
鼻で笑われた気がするぞ。
「公務員の知美に、たかって暮らすつもりか。こいつの給料なんか高がしれているものを」
「俺自身今までの貯えもありますし、それなりの収入は得てます」
「だが、オリオン、だったか? 聞いたこともない名だ。そんなに売れているとは思えんな」
売れてるも何も、名前が間違っているけどな。まぁ、活動休止に触れられるよりはマシか。
地雷をひとつ、回避ってことで。
「お父さん、さっきテレビ消したときに流れていたCMの曲がそうです」
知美が加勢してくれるように言った言葉は、あっさりと打ち落とされた。
「知るか、そんなこと」
の一言で。
もうちょっとさ、親子のコミュニケーションとか。って、無理なんだろうな、この親子には。
「今年も去年も、お父さんがお正月に見ていたテレビでCMが流れていました。気にせずに見ているから知らないだけでしょう?」
「うるさい。大人の話に口を挟むな」
めげずにがんばる知美に、父親が会話をぶった切った。
まったく。ヤレヤレだな。
隣に座る知美が大丈夫か心配で、視線を送る。
知美は慣れた風で、膨れっ面も見せずにおとなしく口をつぐんで、カップを口に運んだ。
じゃぁ、”大人の会話”しましょうか。
「四十歳近くで会社勤めの経験のない俺が、縁故で就職してもこの景気では真っ先にリストラ対象になると思いますが?」
「そんなものは、ただの努力不足だ。クビになりたくなければ、努力すればいいだけだ」
どこの、わがまま殿様だよ。自分が、リストラにあったときにも言えんのか? その言葉。
それからの時間は、まさに平行線。ああ言えば、こう言うでのらりくらりと。母親の方は一言も話さないし、一度も目が合わない。
音楽からも知美からも手を離したらオレじゃなくなるのが身に沁みて判っているから、何とか会話を続ける努力をしたけれど。そもそも、これ、会話として成り立ってんのか?
とにかく、叔母と一緒でオレの仕事が気に入らねぇ、手っ取り早く言えば、『浮き草稼業の男が身内になるのは、みっともない』って話ばっかりで。結婚を許す許さないの話に繋がらない。
いや、『許さない』とは言われてないか。『結婚するのだから、仕事を変えろ』ばっかりだな。
今までの知美のことを考えると、『知美が選んだ相手だから』って、娘の選択を尊重するような親じゃないだろう? むしろ、自分たちの選んだ相手と無理やり結婚させそうな……。そうか、そもそも『みっともない』って思う相手なら、最初から見合いしないのが”常識”か?
なんか、こう……やっぱり違和感としか表現できない。
知美が横で、小さく動いた。手が、耳元に添えられたのが横目で見えた。
「知美?」
初めて、母親が声を出した。見合いのときに聞いた、とがめるような口調。この人は、こんな風にしかしゃべられない人か?
「あなた、それ。ピアスね。何を考えているの。親から貰った体に傷をつけるなんて」
「それが、何か?」
知美が、けんか腰で応えた。
母親の険のある目が、オレを睨む。
「原口さんのせいね。どういうつもりですか。嫁入り前の娘を傷物にしただけでなく、体に傷まで残して」
傷物、ねぇ。
してねぇよ、そんなこと。最大限の自制心で、知美を守ってきたのに。
「私は傷物になんてなっていません。勝手に決めないでください」
「口ではどうとでもいえるわ」
「なら、病院で診断書でも貰いましょうか?」
知美が、真っ赤な顔で言い募る。
怒っている。今まで、オレが見たことのないくらい。
多分、この両親だって見たことのないくらい。
「嫁入り前に、なんてことを言うの。みっともないでしょう」
「親に口答えをするな。お母さんが心配しているのも判らんのか」
なるほど。兄さんの言ってたのはこれか。知美が子供の頃は、ここで平手が来てたわけだな。
「歳だけはとっても、所詮、お前はその程度だな」
判るかよ。それは心配の言葉じゃなくって、侮蔑だろうが。
父親はいやな色の目をしながら、オレを指差して言った。
「で、お前は、人の娘をもてあそんどいて、最後はヒモか。知美に似合いのしょうもない男だ」
「朔矢に謝ってください。私を馬鹿にしても、朔矢を馬鹿にするのは許せない。謝ってください」
知美をきつく縛めていた、”しつけ”の糸が切れた瞬間だった。
あんなに恐れていた親を、知美が糾弾している。
「親に向かって、『謝れ』だと?」
ソファーから立ち上がった父親が、座っているオレの前に立ちふさがるようにして知美を睨みおろした。肘掛椅子と父親に囲まれるようにして、オレは立ち上がることを妨げられた姿勢になってしまった。
父親の右腕が振り上げられる。
まずい。
知美、逃げろ。
止めなきゃ、って意識はあった。
けれど、父親のこの太い腕とぶつかり合ったら……オレの腕のほうが折れるかもしれない。
一瞬の臆病風に吹かれたオレは
完全に出遅れた。




