空……虚
返ってくるのは、罵りか、泣き声か。
じっと頭を下げた姿勢で、知美の反応を待った。
「それは別れよう、ってことですか?」
通りの良い知美の声とは思えないほど、かすれた小さな声がした。
「ごめん。それすら今のオレには決められない」
「どう、して?」
「お前の手を離さなきゃ、苦労をかけてしまうって解ってるのに。お前を離してやることもできない」
くっと小さな泣き声が聞こえた気がして、顔を上げる。同じように顔を上げた知美の目は、ウサギのように真っ赤だった。
「だから、別れるのかどうするのか、知美に決めて欲しい。酷なことを言っているのは、十分判っている。どれだけ時間がかかってもいい。どんな答えでも、オレはお前の決断に従うから」
本当に、ごめん。人生できっと、一番重くて痛い決断を完全にお前任せにして。
何年かかってもいいから。”別れる決断”で、いいから。
オレに引導を渡してくれ。
酷な意思表示を求めてしまった知美の心の痛みを軽くできないかと。
必死の思いで、笑顔を作った。
ポロリ、ポロリと、知美の頬を涙が転がり落ちる。
「この一年半、お前が変わっていく姿を見れたのが幸せだった。たとえ別れることになっても、お前との時間はオレの宝物になるから」
もっともっと。変わっていくお前を見守って、一緒に歩いていきたかった。
テーブルを回り込んで、知美の頬をぬぐう。ぬぐいきれない涙が顎から落ちる。
「キレイな身体のまま親御さんに返せることだけが、オレにできる誠意なのが申し訳ないけど」
オレとの時間が、お前の次の恋の邪魔にならないことを祈る。
オレには、多分最後の恋になるだろう。だから。
「最後にこれだけ」
羽が触れるようなキスを。想い出に。
六月の半ばから、ブライダルのCMがオンエアされていた。日本語と英語の二ヴァージョンとも。
テレビから流れる自分の詞に、知美の顔が浮かんで心が苦しい。
笑う顔、すねる顔、驚いた顔。そして泣き顔。
この歌、お前は何を思って聴いている?
七月に入って、JINが退院してきた。
声は、いわゆるハスキーボイスになっていた。
「ごめん、みんな。こんな声になったけど、もう一度歌わせてもらっていいか?」
帰ってきたJINはそう言って頭を下げた。
「歌えそうなん?」
という、YUKIの問いかけに
「いまはまだ、少しずつ。ボイストレーニングをきちんと受けて、再発させないように気をつけないといけないけど」
声質のせいか、ぼそぼそっと話すJINに、周りより大人っぽい声のせいで同級生から『おっさん』と呼ばれていた中学生のころの姿が重なる。
「じゃぁ、しばらくは休止?」
誰ともなく尋ねたオレに、それだけどな、と、REが話を引き取った。
「あのブライダルCMの曲な。JINが納得いっていないだろ。その声で録り直す気、あるか」
「いいのか?」
目を見開くようにJINが、オレたちを見渡す。
「かろうじて間に合う、といえば間に合う。ただ、ムリはするな」
眼鏡の奥の目を細めるように、RYOが微笑みながら言った。
JINはボイストレーナーや主治医と相談しながら、録り直しを選んだ。
「じゃ、そろそろ始めるか」
その日、RYOの声でいつものようにJINがスタンバイをして、レコーディングが始まった。
イントロが入る。
JINのハスキーになった声は、儚いながらも今までに無かった”色”をまとい、別人のように響いた。
改めて、JINの声の魔力に魅入られた。この声からは一生離れられない。
知美の手を離す覚悟で音楽を選んだオレの選択は、多分……間違っていない。
ボツボツと他のバンドのサポートの仕事をして、糊口をしのぎながら夏が過ぎた。
背後から切りつけられるように、不意打ちで”あること”に気づいたのが、夏の終わり、だったか。
十八歳で、大学進学時に一人暮らしを始めて、織音籠も同時に動き出した。
二十年近くを、このメンバーと過ごして、オレの中で織音籠は擬似家族になっていた。
世話焼きのJINが”母ちゃん”、少々のことで動じないMASAが”父ちゃん”、みんなを面白いことに引っ張っていく”兄ちゃん”のようなRYOと、みんなを和ませる”弟”のYUKIと。
今回、JINが倒れて、RYOとYUKIが動揺する中で、MASAを助けながら、織音籠がばらけないようにオレは何とかしようと、もがき続けていた。JINが入院している間。
そして、JINが戻ってきて。織音籠が立ち止まっている今。
オレ以外のメンバーは、現実の家族のために前を向いていた。
六月に息子が産まれたRYOは綾さんが産休中、 MASAとYUKIもそれぞれ二人の子供を抱えている。
JINは傍に居続けることを選んだ美紗ちゃんのためにも、と。
オレは、オレだけは。
守るべき家族も、支えてくれる人も居ない。
独り、だった。
オレの内側には大きな空洞があいていた。
九月になって、正式にこれからの方針が決まった。
声の変わる前と後。それぞれ日本語と英語の計四曲をミニアルバムに仕立てて、その後はしばらく新しい声に合わせた音楽の方向性を探るのと、JINの声の安定を待つために活動を休止。
織音籠から完全に切り離されたような生活の中、オレの中にあいた空洞は、オレから詞を奪った。
響く言葉が、捕まえられなくなった。
そして、
クリスマスの抱擁
握った手首の細さ
ひんやりした指先
最後のキス
宝物だった知美の体温の記憶も、薄く薄く鉋で削り取っていくように奪っていった。
オレの中に、ブラックホールがあるようだった。知美の形をした、底なしの穴が。
知美の手を離そうとしたオレの選択は……間違っていたのかな。
その答えもまた、ブラックホールに吸い込まれてしまったみたいだった。
空洞を音で埋めるように仕事をした。
埋めても埋めても、埋まらないブラックホール。
もっと、音を詰め込まないと。眠っていたら、食事なんかしていたら、空洞にオレ自身が飲み込まれそうだった。
古いマンションで、夜間には音を出せないのが辛かった。溺れる者が漂流物にしがみつくように、ベースを抱え続けた。弦を弾くことができず、ただコードを押さえて頭の中に音を響かせることで夜を乗り越えた。
飯は、義務感で食った。空腹を感じたから、JINが『飯は、すべての基本』って、やかましく言ってたから。そんな理由がなければ、食う気も起きなかった。食えるモンを、とりあえず口に突っ込むような食事。仕事の具合で外食をしても、メニューなんて、まともに見なかった。
一歩間違えたら、酒に溺れていたかもしれない。
JINの入院がわかってから、みんなで始めた願掛けの断酒がオレを救った。
気が付くと、十月になろうとしていた。
その日は偶然、事務所でRYOと顔を合わせた。
「SAKU?」
色素の薄い眼で、何かを探るようにオレの顔を見るRYOを、黙って見返す。
「お前、飯、ちゃんと食ってんのかよ」
「食ってるよ」
味なんかしねぇけどよ。
「おい、マジで心中すんじゃねぇぞ」
お前だろうがよ、心中の覚悟っつったのは。
「明日、一度JINが試しに歌うけど、来れるか?」
入れれるだけ、仕事、請けてるけど。分刻みのスケジュールなんて売れっ子なわけじゃなし。一時間、二時間の空き時間を、JINの声で埋められたら。御の字か。
翌日の時間と場所を確認して、RYOと別れた。
翌日、顔を合わせたMASAにも言われた。『飯、食ってんのか』って。こいつに言われたら、おしまいな気がする。寝食を忘れて音楽をするからって、何度も結婚前に嫁さんに叱られてた奴に。
食ってんのにな。一応は。そんなに、やつれてるのかねぇ。
昔、知美に言った適当なことは、実は的を射てたのかもな。『嫌々食ったら、栄養にならねぇ』って。そうか。オレの食ってるモンは、栄養になってないか。
つらつらと考えながら、いつの間にか椅子に座って、JINの歌うのを待っていた。
録り直し以来、二ヶ月ぶりに聞くJINの歌声は、芯が通るようになって力強くなったものの、”色”が消えた。
「なあ、RYO」
「なんだよ」
「これ、売りモンになんのか?」
歌の邪魔にならないようにコソコソと話す。
RYOは腕組みをしながら、歌うJINを見る。
「夏にあった、”色”が無くなった気がするんだけど」
感想を言ってみる。
「今はまだ、だな。多分、これからフォームに修正をかける感じだろう」
「何のことなん?、それ」
横で聞いていた、YUKIの声。
「まずは全力を出すことを練習をして、その後コントロールをつけるってところじゃねぇ? 高校のバレー部であいつが教えられた方法だよ。コントロール度外視で思いっきりスパイクを打つ、ってことをまず最初に覚えさせた先輩が居たんだよ。それからフォームに修正をかけたら、エースの完成っつうわけだ」
つまり、今は声をしっかり出す段階で、それから売り物になる声を探すって事らしい。
「ただなぁ、どんなフォームが売れるのか、がな。コーチが居るわけじゃねぇし」
眼鏡をはずして目をこすりながら、RYOがぼやく。
”癒しの低音ボイス”に代わる、織音籠の声。
見つかるまで、オレはオレで居られるのだろうか。空洞に、飲み込まれないで。音楽と心中しないで。
JINの声が見つかるその日を迎えるため、音楽と心中しないように少し食べることに意識を向けるようにした。
けれども、メニューに関心がもてないのは相変わらずだった。
『食いたいモン、食えばいいんだよ』
えらそうに、知美に言ったのにな。そうか、お前も、空洞を抱えていたのかな。
生きている実感が欲しいとリストカットの代償行為のように献血を繰り返していた知美の、痛々しい内出血の色が目に浮かぶ。
生きている実感、なぁ。
今のオレには、あるのか?
翌日のスケジュールを確認しようと手帳を開いた。
ああ、明日は知美の誕生日だ。
去年の誕生日から、長い時間が経った気がする。
お前にやった”月”は、どうなっただろうか。
”朔矢”のピアスは、仕事をしているだろうか。
オレが無理やり任せた選択につぶされて、また体に傷を付けていないだろうか。
『オレが、間違えていた』って、『一緒に居て欲しい』って言えばいいのだろうか。
それで、オレは楽になれるだろうけど。
知美は? 知美のためになるのか?
別れる決心をつけかけている知美に、オレが未練を見せたら。
”素直”に、オレに付いてきてしまうんじゃないか。刷り込みを受けた雛鳥のように。
正月に言ったのはオレだろ。『大きな事柄も自分で決めれるようにがんばって欲しい』って。
今、会っちゃいけない。
何年かかっても、知美のほうからの決断を待たなきゃ。
知美の誕生日から半月程が過ぎて、十一月になったある日。
仕事を終えたオレの携帯に、メールの着信があるのに気付いた。
【いつでも結構です。一度お電話ください】
知美からの連絡だった。
何を言われても大丈夫なように、自宅へ戻ってから電話をかけた。
〔もしもし?〕
変わらぬ彼女の声に、涙が出そうになった。ちゃんと、言ったとおりに名乗らずに電話を取っているんだな。
〔朔矢、です〕
〔お久しぶりです〕
〔うん。久しぶりだね。元気にしていた?〕
〔はい〕
無言の隙間に、息を吸う気配が伝わる。
衝撃に備えるように、息を潜める。
〔心が決まりました。近いうちに会えませんか?〕
まだ、決定打じゃなかった。
紙一重で命が助かったようなホッとした思いと、いっそ一思いに……というやけっぱちな気持ちで、息を吐く。
週末のスケジュールを手帳で確認して、
〔わかった。じゃぁ、今週の土曜日十時。学園町の駅で〕
〔はい〕
あっさりとした了解の返事に、軽く動揺して。
後は、何を言って電話を切ったか。
自分でも覚えていない。




