ハイヒールが履きたくて
お久しぶりです。しばらくログインできずわやむを得ず休載が続きました。よろしく くださいませ。村井一作であります よろしくお願い申し上げます。
十九歳
ショウウィンドウのガラス越しに、その靴と目が合った。鮮烈な真紅のパテントレザー、10センチの細いピンヒール。なけなしのバイト代をすべてはたいて手に入れたとき、私は世界の誰よりも高く、どこへでも飛んでいける気がした。夜の街の舗道を打ち鳴らす高らかな足音は、私の輝かしい未来を告げるファンファーレだった。
二十七歳
仕事と恋に背伸びを重ねていた日々。足首に食い込むストラップの痛みを誇らしさで押し殺しながら、私はいつもそのヒールを履いて彼に会いに行った。けれど、彼は「もっと普通の、疲れない靴を履けばいいのに」と笑った。彼の言う「普通」になれなかった私は、雨の夜、ヒールを脱ぎ捨てて裸足で泣きながら帰った。あの靴は、私のプライドそのものだった。
三十五歳
玄関の靴箱の奥深くに、真紅のハイヒールは静かに眠っていた。子育てと毎日の家事に追われ、スニーカーの踵を踏み潰すような日常の中で、時折その箱を開けては靴に触れた。革は少し乾き、眩しかった赤はどこか陰りを帯びていた。もう一度履いて街に出たい。その願いは、口に出すことすら許されない贅沢のように思えた。
四十五歳
鏡の前で、何年ぶりかにそのヒールに足を通してみた。ずっしりと重い重心、歪む足指、そして追いつかない体幹。ぐらりと体が揺れ、数歩歩くことすら叶わずに私はその場に崩れ落ちた。履けないのは靴のせいではなく、失われてしまった私の時間と若さのせいだった。つま先を締め付ける痛みが、二度と戻らないあの頃の光を容赦なく突きつけていた。
五十二歳
娘が独立し、静まり返った部屋で大掃除をした。靴箱の底から出てきたのは、すっかり埃をかぶったあのハイヒールだった。捨てるためにゴミ袋へ入れようとして、私はそれを抱きしめて声を上げて泣いた。私がなりたかった自分、愛されたかった記憶、そして諦めてきたすべての夢が、そこには閉じ込められていた。
翌朝、収集所に置かれた透明なゴミ袋の中で、朝日に照らされた真紅のヒールだけが、かつての私のように儚く輝いていた。
【了】
ご自一読いただきましたが本当にありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたら嬉しいと思います。またこれからもよろしくお願い申し上げます。




