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人間の限界と意味の終末

作者: 鈴木美脳
掲載日:2026/06/20

### 利他と連帯


人類には馬鹿しかいないから、「思いやり」が最高の価値だということを教えることができない。「思いやり」が最高の価値だということを教えることができないならば、人類には馬鹿しかいないことが証明される。義が最高の徳であり、義が徳である。その真理に到達するのでなければ、人類文明の幸福は破滅を運命づけられる。しかし、技術発展を背景とする力の分布の格差によって、事実に対する言説を歪める強力な洗脳兵器としての人工知能が出現して一般化し、大衆は価値観を操作されながらその危険性を認識していない。したがって敗勢は決まったのであり、もはや誰がどうすることもできない。なすべき努力は消滅した。


そもそも、公正世界仮説の外側にしか価値ある動作は存在しない。なぜなら、2011年の「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street)が訴えたように、「1%に対して団結しよう」(Let's Unite Against 1%)が正しい解であり、それ以外は分割統治に迎合して加担する「有用な愚者」(useful idiots)の動作となるからだ。何らかの利己的な動作、あるいは資産や安寧を自己正当化しよういう誤魔化しが、人類に分布する権力の序列によって連鎖し、人間を家畜化して常により多くの富を権力の方向に与えてしまうのである。つまり正確に言えば敵は「1%」ですらなく、この自己破滅的な全体構造である。


### 全体最適性と局所最適性


アブラハムの宗教は集団的な自己欺瞞であり、人間を洗脳支配して搾取する方法である。アブラハムの宗教は、無謬の前提命題の権威を承認して強制する操作であり、事実について考えることの放棄である。国民国家は負債の主体を王権ではなく国民に広げる現象であり、それが市民革命の実態だ。そして、利己主義によって人間を家畜化するために、利己主義を批判する論理を無効化する無謬の前提の強制へとアブラハムの宗教は進化し、啓蒙思想となった。そのため、「人権」、「自由」、「民主主義」などは実際は最も邪悪だが、常に自明に正義だと認識することが強制された。


「人権」や「自由」や「民主主義」を倫理的な価値の尺度として重視することはうまくいかない。なぜなら、共同体や連帯する価値観を個人主義へと分断することで利益を増加しようとする態度だからだ。アダム・スミス(Adam Smith、1723-1790)による「神の見えざる手」は本人の意図を超えて乱用されたのであり、ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham、1748-1832)による功利主義は本人の意図を超えて乱用された。富裕層が利益を得ることは全体最適への貢献として神話化された。一方で社会主義による再分配は、共産主義という極論によって悪魔化することで常に弱められたし、貧困層の社会思想は、権力を悪魔化して大衆消費社会を自己批判しない「有用な愚者」(useful idiots)へと堕落させられた。


### 否定の外部化と肯定の内部化


マルクス主義は有用な愚者である。なぜなら、「権力vs民衆」という認識の枠組みは、無限大の知性と無限大の良心を主観できる麻薬だからだ。冷戦(1947-1991)で悪魔化された東側には正義があったが、それはマルクス主義がソビエト連邦などにおいて実質的には国家主義として機能し、ひいては民族主義として機能したからであり、戦闘は愛国心を美徳として行われた。しかし邪悪は西側体制であるなら、自らの体制についての倫理的な自浄能力は低下しやすい。社会倫理の枠組みとしては、マルクス主義は自動的に片手落ちになるのである。


一方、西側体制のアカデミアにおいても左派はマルクス主義的であった。またそれは、ポリティカル・コレクトネスやDEIを強調した。その実態はコスモポリタニズムであり、地域共同体や文化共同体や民族共同体や王権体制を個人主義へと分解する意味で、「有用な愚者」(useful idiots)として権力に居場所を許されたのだ。つまり、絶対に成功しない解決法によって権力を非難しつづけるという茶番の舞台として言論を限定することによって、本来の脅威である、共感性、利他性、共同体の連帯といった価値の再興を、奴隷達自身によって攻撃させつづけた。


### 嘲笑する家畜


しかしこうして人類がより不幸にされつづけてきたことの罪を、一部の特権的な権力層にのみ求めることはできない。なぜなら、自己の安寧や利益については正当性を強調しようとする動作を、誰しもが行っているからだ。すなわち、自分よりもより不遇な立場に置かれて苦しむ人々について、その不幸を「自業自得」だと見なす認知バイアスは徹底している。民衆は自分よりも立場の弱い人々を蔑んで嘲笑って楽しむが、もし公正世界仮説という認知バイアスに立脚しなければ、何らかの属性によって誰かを馬鹿にして笑うことは成立しえない。なぜなら、悪臭のする浮浪者であっても国のため戦った英雄の末路かもしれず、そもそも全体最適性に適う構造から自然淘汰されてきたのが人類史の実態だからだ。合理的に蔑める属性はむしろ、長寿や健康、富裕や繁殖、世俗的利己性に限られる。


人類文明は社会思想の倫理的合理性という意味では、実際には常に退歩しつづけてきた。実際、古来世界中の社会は歴史を退歩と見なしていたが、近代西洋を通して現代まで、公正世界仮説と進歩史観は強化されつづけている。東側の論法で「社会的ダーウィニズム」として非難されるように、確かに生存するのは強い文明だが、その勝利は内部の人々が幸福であることを何ら自動的に証明しない。認知はますます権力によって操作されるようになって人類は家畜化され、歴史上最も合理的な思考能力と自由な主体性を許されているという夢、ますます幸福になりつづけているという夢を見させられているだけなのだ。


### 正義を代表する軍産複合体


アフガニスタン紛争(2001-2021)、イラク戦争(2003-2011)、リビア内戦(2011)、シリア内戦(2011-2024)は、天然資源利権を背景として、現地の不安定化という自称「失敗」に終わったが、軍産複合体は「自由と民主主義」を守る美名によって、あるいは「対テロ戦争」(2001-2021)の名目によって大量殺戮を正当化しつづけてきた。ウクライナ戦争(2022-)についても、米国からの情報支援といった圧倒的な代理戦争の実態は矮小化され、国民に選ばれた大統領のもと自衛するウクライナと、狂った独裁者のもと侵略戦争を起こした弱いロシアといった主流報道が徹底された。ガザ戦争(2023-)も戦争とは名ばかりの、完全に一方的な大量殺戮だが、人間の盾を用いるテロリストに対する人質救出作戦が生んだ最小限の被害だと現代のAIも断言しつづけている。


2024年にはイスラエルによるポケベル爆破攻撃が3500名以上の負傷者を出した。現代のウクライナ戦争などでは小型のドローンによる敵兵の殺害が大規模に行われており、その実態は極めて一方的で残酷だ。邪悪とされる人々がもし仮に実際に邪悪だったとしても、武力の態様のこういった深化は、私達を戦慄させるものではないだろうか。しかし人々は、軍産複合体を中心としたナラティブに影響され、公正世界仮説によって状況を容認している。悪いことをした人々が罰されているのであり、悪いことをしない自分達は安全だろうと考えたがり、それぞれの殺戮の相互関係を認知不可能にされている。第二次世界大戦(1939-1945)についても、暴走した軍部や独裁者による世界侵略の企てが、民主主義を標榜する「国際社会」に罰された歴史であるとされ、現象として接続して認知することは許されていない。


### 普遍的で倫理的な価値


人々は、吊るし上げられて初めて告発者となる。圧倒的な理不尽によって殺害される側になって初めて、ロシアなら民族共同体への愛国心に燃え立ち、中東なら宗教共同体への殉教心へと覚醒する。しかしそれらは非常に遅いのであり、その根本原因は、民族共同体や宗教共同体を出発点とするのでは普遍的な連帯がなしえない点にある。すなわち私達人間は、自己の幸福が奪われて初めて憤るのではなく、他者の幸福を奪う行為に対して、他者の幸福の権利を矮小化する情報操作に対して、憤る感受性を持っているべきだ。自己欺瞞がうまくいかなかった場合について否定するのではなく、自己欺瞞が起動した発端について否定しなければならないのである。


これを過大な要求だと言うことは簡単だ。そして実際、これは過大な要求である。近代西洋で起こった啓蒙思想を反省するどころではない、古代におけるアニミズム的な王権社会での徳治主義思想ですらまったく実践できていなかった厳しさで、人間が人間という動物を理性で自己制御せよという要求だ。近代西洋は、共感的な感情の動物を、理性による利己的な獣へと相転移させたが、人類文明が技術発展によって迎えた現代の危機は、理性による利他的な神へと相転移することを要求していると言ってもいいだろう。


### 人間の自由


そして、これは実現不可能であるから、過大な要求だと私も確かに認めている。どのように実現不可能かというと、認知された戦況の敗勢が打開困難であるどころか、現在の戦況がこのような事態になっている事実を認知することがまったく困難だという水準で困難なのだ。だからもし、そんな「奇跡」の実現を妄想して希求するなら、「人類には馬鹿しかいない」と悪態をつくことになるだろう。「思いやりが最高の価値だということを教えることができないならば人類には馬鹿しかいないことが証明される」と私が言うのは、この意味でだ。しかし、もはや誰がどうすることもできないと私は思う。もはや「奇跡」を望む必要すらなく、人々の愚かさを問題視する意味も消えた。


結局、世のため人のために働こうとしても、こういった限界がある。もしも誰か一人を愛したり、少なくとも自分一人を愛したならば、結局は自分達のみならず社会や文明の全体をケアしなければ自分達の幸福を守っていくことはできない。しかし、社会や他者をケアしようという動作が、手厳しい損失によって報われて淘汰されていくのが人類史の現実なのだ。一方で自己のみ安寧にしようと欲しても、マネーや繁殖の権威は家畜を操作するための幻想であり、善良な人々を淘汰するシステムに加担した程度に対する報酬である。人類の中間層を生かすために食べさせられている肉は、最下層をすり潰したものに他ならない。したがって、洗脳の外側に出た人間にとっては、追求すべき安寧というものが存在しない。かなり虚無的な意味で、心は非常に自由である。

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